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経験から語ってみる6(改めて色々

ぱんぱかぱーん!!

失敗したり、やらかしたり、色々ポカもやってますが、ようやく?という感じで、母以上に話を聞いてくれる人(現状でですが)に出会えたというか、そんな感じなので、

ようやく、聞いてくれる人が...と色々吹き出してはその人にぶつけてしまい、迷惑じゃないかな?とか、自分面倒くさいwとか自責やら自虐なんかやらもしています。

いや、まぁ、でも、すっごくありがたいです。

それまで、自分が一番の理解者だと思って接してた母上にすら話してない事を話せてますし。

ただまぁ、そうは問屋が卸さない、っていうんですかね。

改めて、想像以上に自分が面倒くさいやつじゃん!って自覚が強くなってもきています。うん。

そんな感じで、最近改めて気付いた事とか、その上でのいつものやつとか。

書いていこうかなって思います。


改めて考えてみると

やっぱり難しい...。

その難しさ故に、自問自答モードにも入ってしまったというのかな。

自分って、やっぱり面倒くさい!

自分で言ってたら世話無いのですが、やっぱりそうなるんですよね。これまでも色々語って来たし、感情的になったりしましたが、これでもまだ本当に序の口とかそんなレベルで。

そこで、改めて話を聞いてくれる人とやりとりをしてると、眼前に現れるのは大きな壁、です。イメージ的な。

と、書いたものの、この大きな壁って常にどこかしらで感じてます。

今までも、幼い頃から何度となく、誰かと話してみると、

兎に角感じ取り過ぎてる、が問題になる事って多いです。

ほんともう、やっぱりこれかよー!!って毎回思わされたりもして。

それに、良い悪いがどうしても付きまといますし、どちらかで済む事がないんですよ。

何がどう合っても過ぎるので、精神的苦痛の引き金にもなりますし、そこから過去の経験が嫌でも記憶から呼び起こされて、あれやこれやのうちに私自身が暴走してしまう、と。

そういう部分も持ち合わせてるので、表面的には良い人そうでも、深く触れると途端に時限爆弾に変化してしまうんです。

相談上手がひっくり返って、下手に意見を出そうものなら、相手を打ち据える鞭にもなってしまうんですよ。

トホホ。

最近失敗しちゃって反省したり。

その反省の意味も込めて、ここの部分は書いてたりします。

こう言うのってホント難しくって。

分かってるなら…、と言う行動をすると私自身はやっぱり我慢とか抑圧になります。相手に合わせに行く=自分と合わなくてもそうするストレスやその他色々を抱える事になりもするんですよ。

しかも、扱いたくて扱ってるものでもなく、自然とか、無意識とか、当たり前とか、普通とか。

個人としての程度に絡んでしまってますからねぇ、感受性としての感じ取りすぎる事って。


私にとっての善悪や正誤

そんな物、犬にでも食わせてしまえ!!

っていうと、ワンコに失礼なんだけど、そういう良い回しを利用させてもらうと言うか。

如何ともしがたい程に、幼い頃から色々経験し過ぎただけでなく。

そもそも幼い頃から大人たちが謳う正しさに対し、言うは易く行うは難しを教えた大人がみせようものなら、何で?って突きつけてた子でもありました。

それが正しいと教えたのは貴方たちなのに、なぜ貴方たちがそれをしないのですか?状況が変わると手のひらを返すように、言い分を変えるのですか?

こんな感じで。

なのでもう、生まれつき善悪がどうこうとか、受け付けなかったのかなぁ、と過去を思い出しつつ、こういう部分も面倒くさいなぁって自分に対して思います。

そんな感じなので、正誤や善悪も、彼を知り己を知れば百戦殆うからずをしないまま提示されると、で?だから何?になる、と。

うへぇ。自分で書いてて、自分にうへぇ。

でもなぁ、仕方ないっていうか。

他者が勝手に言ってる分にはスルーで対処できますが、自分の言い分に突きつけられると、自分でも後でやっちまったあああああ!!ってすごく反省するくらいに、豹変しちゃうんですよね。

過去の記憶がすごい勢いで再生されますし、そういう記憶からすらも今そうあるかのように感じ取れるので、傷口を何度塞いでも開かれる事になりますし、その数も多いんですよ。

幼い頃から、大人が教える正しさに対し言うは易く行うは難しで大人の方がやらかしてしまおうものなら、自分が教えた正しさを自分で出来ないのは何で?って突き返してましたしねぇ。

まぁでも、ここ最近の色々は、やっぱり今の通院してるメンタルの状態には毒なので、必要以上にそういう方向に向かわない様にしてますけどね。

でも、やっぱりそこは人間。

失敗して、自分でアチャー…しちゃうんですよ。


一体何が大事なのか?

いくら考えても答えがでない、ある種の哲学のような感じになりますが。

でも、そうあるが故にHSPとか、その辺については色々言ってしまう。

HSPかはさておいても、感受性が高いと言われてると自分を表現してます。

そして、精神疾患を患って、通院してるし、精神障害手帳も3級ということで持っています。

そのくせ、病院で治療できないし、DSMとかICDとかそういう基準の話もする、と。

よくよく考えると、あれやこれやと一見すると、おかしい、そんな人なんですよね。

ただまぁ、自分の事なので…というだけでなく、自分に対しても客観視とか出来てしまうので、切り分けるところは切り分けてます。

精神疾患については、母が亡くなる前=ガンだったのでモルヒネを打つ直前に話してくれた、後悔の部分にも理由があるんですよね。

言葉が使えない1歳時点で既におかしな察しをしてたわけですが、それって私が言葉を扱える能力がなかったから際立ったもので、言葉を覚えてからは隠すという事を知り、実践するようになりました。

だから見えなくなったんですよ。

だって、1歳時点で明らかにおかしくて驚くような察し方をしてたわけで、言葉を知れば、そこから学んで先んじて察して動くだけ。

これは、母が亡くなった後に、覚悟を持って高校から付き合いがあった友人に話しましたが、やっぱり驚かれました。

まてまて、そんな普段から言わずに隠してたのか?本当か?って。

それに対して、説明しただけでなく、その説明が友人にとっても受け入れるに値するものだったからか、うへぇ…って反応もされ。

そりゃお前、精神病んで当たり前じゃんって言われましたね(遠い目

かと言って、じゃあ全部話してたらどうしてたか?と問うと「相当に年月が経ってるから聞けるけど、当時だったら間違いなくぶつかってた」という感じ。

結局、現実って結果論の積み重ねという側面があるので、ちゃんと結果を認識できるようになって、初めて話が出来るようになる。

そういう事もあろうかなぁと思います。

ただ、この認識というのが、一癖も二癖もあるもので。時間がいくら経ってても無理なものは無理、それは自分も他者も同じくだと思います。

こういう部分があるので、あまり自分の感受性に絡む話って出来ないですし、相手をしっかり見極めて、出せる出せない、どこまで出せるか?、色々常に向き合いながらなんですよ。

なので、理解されなくて当たり前、生きづらくなるのも当たり前です。

感じ取りが過ぎてるので、色んな部分で出る杭になっては叩かれるわけですから。

そういう感じのタイプとしては、何が大事か?すらも諸行無常。常に変わりゆく世界で、自分が把握して見極めて行かなきゃいけないんですね。

自分の感受性、なんですから。程度がどうあれ。

それなのに、HSPのブームは流石に……。

幼いながらも、突飛しすぎたがゆえに、自分の親という最大の味方になってくれそうな人がそうあらなかったので、自分で向き合うしか無かった。

それすらも、不思議と自分で感じ取って、自然と自分で向き合ってた。

生きづらい、理解されないなんて、とうの昔に卒業しちゃってるんですよ。

そんなの、当たり前。

当たり前なので、嘆く必要すらない。

そこには生き残るための生存本能もありましたが、それだけでは足りなかったので、未だに消えない傷が相当数残ってます。それだけで収まらず、常に新しいモノが刺さっては血を吹き出しながら立ってるんですよ。現実という環境の中で。

自分に対しても、周囲に対しても、常に騙し騙しですよ。

最悪、私の場合、凶悪な人になってしまうこととなります。そういう自覚すらある。だから、嫌でも抑え込む。

自死すらも、人の哀によって止められる。

果たして、何が一体大事なのやら。

まぁ、何がどうあれ自分の持ってる物である以上、自分で向き合う必要が有るもので、それで周囲と何かあるなら、変に拘らず変幻自在に、臨機応変になるしかないんですよね。

なので、仏教的な中道とかそういう概念にすら興味を持つ、と。

と、なんかくさい事言ってるようなので、程ほどにしておきましょうかね。


あとがき

んやー。どうしても、漏れてしまいますね。

どうしても、経験から語る=自分語りが過ぎてしまうので、思いの外難しいなぁと、記事にする難しさも感じてたりします。

ただ、流石にここだけはというラインが人生の中で初めて訪れたと言うか。

今までだったら仕方なしで流せてたのに、自分でも不思議なくらいに行動を起こしてしまってるのも、自分にとっての現実だったりします。

良くも悪くも、ホント最近まで話せる人居なかったんですよね。

気のせいとか、頭の中見えるはずないのに自分と違うという基準だけで一方的に言われるばかりでしたし。その割に、違いに対しては驚くわ、評価するわ、褒めちぎったかと思えば都合が悪くなると悪に仕立て上げようとしてくるわ、と。

色々ありました。

ありました。

ヒ〇シです...じゃなああああい!!

別に理解してくれなくていいんですよ、難しさは日常で他者から嫌でも指摘されますしね。

ただ、そういう人ってどんな人?と考えてくれるような一歩になってくれればなぁと思います。

個人としては、それなりの年齢ですし、別に変わろうが変わるまいが今まで通りの自分で過ごすだけ。

なのですが。

もう、同じ苦しみをするような人は生まれて欲しくないなぁというのは事実です。

辛いですもん。

そうなるかは分かりませんが、自身と言う実例がある以上、少なからず生まれる可能性は否めないわけですし。

そして、その万が一の方を真面目に考えていたので、原発だろうが、感染症だろうが、高齢化だろうが、だから言わんこっちゃない。

なんですよね。

確かに起こってみなければわからないけど、応用して活かせる事象って色々あったのに、何度同じ失敗をすれば気が済むのか?っていう。

まぁ、そういうのを否応なしに何度となく繰り返してきたので、今度ばかりは少しばかり強めに足掻いてみようかな、そんな所です。

なんかこう、いつも漏れ出して申し訳ネーッと思いつつ。

今日はこんな所です。

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