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フェミニズムってなあに?

一部過激な人が、Twitterでは結構暴れてるというのを目にしなくもないのですが。

フェミニズムって結局何でしょう?

男女平等という事を言う人も居ますが、そもそも内面の自認と体が合ってない身からすると…

平等って かっこ 笑い。

どうしようもないほどに違うからこそ、平等に出来ない部分。人間の、生き物の体としての仕組みが違うんですから、平等なんてただの理想論。

そう切って捨ててしまう事が出来るほどに下らないというか。

ただ、これを世界史=西洋での歴史と突き合わせて来ると、面白い部分がみえてくるんですよ。

そ れ は。

儒家思想、儒教が強く絡むか否か?

という、ね。

これ、敢えて無視されてる、臭い物に蓋をするかのように隠してるんじゃないですかね?と疑いすら感じてしまう物です。

その辺を、個人的に語ってみようかなーって思います。


ジェンダーにしても、フェミニズムにしても

日本からすれば、欧米から来た外来という感じなのですが。

ちょっと見落としガチな部分として、儒教や儒家思想が影響してるか否か?という部分はあろうかと思います。

過去に権勢をふるった元という国があるわけですが、遊牧系の民族が主だったものであったからか。

欧米の方に、儒家思想や儒教という流れが強く影響していくという事が余り見受けられないように感じます。

そのせいか。

女系を排する国があったり。今でも、女王という存在が居る国だったり。歴史上でも女性が王政に絡んでいたりと、欧米というか西洋圏では意外と女性が権力を握るという事は有りえてると思います。

そんなの東洋でも、と行きたいところですが。

かかあ天下というように、どちらかというと裏で、内部で女性として絡んで権勢を振るうと言うか、傀儡を用いるないし、その傀儡を排した上という感じで、血脈としてそうあるから表立って争ってではなく、裏で暗躍してという事の方が多いのではないでしょうか。

家長制度ではないですが、家の長というのは父親であり、男性であるものというのも儒教的な部分というか。あくまで個人が知ってる程度の知識なので、深い所では違うのかも知れませんが、男尊女卑の元になってるのはこういう儒教が絡んでるからこそ、というのは否めないと思います。


クラブDJの経験から

過去に、留学なり仕事なりで日本に来てる人が客層のほとんど。

日本人も居ないわけじゃないですが、おおよそ様々な国、日本ではない国の人の方が多い環境でクラブDJをしてた事があります。

その際に見かけてる状態も、

やっぱり明らかに、向こうの女性はフリーダム。

そう、女性らしさみたいなのに縛られず、自分らしくある、その結果自身が女性であるだけという人も多かったように思います。

そういう経験をするなかで、留学生の方がパーティをひらくから、と当時良くつるんでたニュージーランドの友人に誘われてパーティにいったのですが。

やっぱり、性別かんけーねぇ!(笑)

いい意味で刺激を受けたのも懐かしい。

それ程に、男性だ女性だという部分での考え方だけでなく、文化や、それに繋がる伝統的な部分が違うのだな、と。

そして、それを世界史として触れるとやはりと言わんばかりに、フランスでのジャンヌダルクを筆頭に。

誰でも知ってる程に有名ではなくとも、表に出てくる女性ってやっぱり西洋史の方が多いように思います。

東洋の場合は先にも挙げたように、母や皇后、そこから最悪傀儡としてという元々表に居ない立場だったのが、何かしらを切っ掛けに表に出るような権力を握って、それが確認されると言うか。

自らが継承権を持つからと争いの渦中に居て、そこから権力を握るって人が居ない歴史があり、そこからくる色々な流れがあるからこそ、こうも違ってたのかもしれない。

今ではそのように思います。


日本の歪なフェミニズム

そういう意味では、男女平等といったところで、東洋というかあくまで日本に絞った場合を見ると...。

まぁ、過激な人が出るのもおおよそ当然と言わんばかりに、根底が違うのかもしれない。

個人としてはそのように感じますし、そのように見てます。

平等というより、男尊女卑ありきだからこその違った平等っていうんですかね。

日本人が海外に出た場合、様々な温度差を感じると思いますが、そうあるのはそういう根底の部分に儒教的な影響がある、というのは否めないのではないでしょうか。

肌の露出が多いのも洋服=西洋文化としての衣装が多いですし、そもそも場所によってはアチラはヌーディストビーチなんてのもある。

日本人の感覚からしたら、ちょっとこう引きもしてしまうけど、あちらとしてはそのくらいオープンなのが当然であり、だからこその、もっと平等をという声をあげるのではないか?

虐げや抑えつけがないからこその、更なる平等。

虐げや抑えつけ、らしさという縛りがあるからこその平等。

なんか意味合いが違ってると思いますし、そもそも日本の場合は、自由すらも履き違えてると言うか。束縛を受けないというのは、そもそもが束縛を受けてない状態で更に自由をという意味だと思います。

日本の場合、らしさという、束縛が多いですし。

また、村八分の名残と言わんばかりに、突出しようとすると抑えつける=それで自由が迫害されてて、実際言う程自由ではないというのは、まだまだ根深いとも思います。

うん。でも、そういう縛りが逆に無いのも日本独特という部分があるんですよ。


信仰として

物ですら付喪神となるだけでなく、言葉ですら一言主、思考すら思兼神となるような日本。

逆に、一神教が浸透してる所は宗教という部分では排他性が強く、歴史を追って行くと飲みこまれ、悪魔にされた神という存在もなくもない。

ちなみに、宗教についての良し悪しや善悪の話ではなく、人の思考、心理に絡む部分、影響としての話かつ、あくまで可能性として個人が見てる話なのでそこは勘違いしないようにお願いします。

とはいえ、昔ほどではないというか、西洋史の場合どうしても宗教が強く絡んできており、長らく権勢を振るっていた様子も見受けられます。そんな中でも宗教改革という物が起きたり。

そもそも、ローマですら東西分裂を起こしたような歴史もあるので、そういう部分では結構根深い物はあるのかもしれません。

逆に日本はそういう部分が無く、神仏習合したり、廃仏毀釈したりと、おおよそ人間が好き勝手やる位なので、強く影響を受ける人も居れば、大して影響を受けない人も居て千差万別になってると思います。

でも、寺社仏閣には特別な何かを感じざるを得ないですし、文化や伝統、風習の中に感じる物があったり、それがいいと思えるので様々な宗教的行事も行われたり、初詣に限らずその場に足を運んだり、詣でたりするという、一風変わった有り様を見せてるとは思います。

そして、儒教については宗教なのか?思想なのか?という話もあるようですが、日本としてはどちらかというと思想として、根強く残ってるという部分は見聞きするだけでなく、感じる事も多いと思います。

こうやって、東西の歴史を紐解いてみると、男女平等だったり、フェミニズムだったりにしても、持ち込まれてる割に深掘りがなされない事から、

魔改造する日本、カスタマイズする日本

という、科学技術の発展とも繋がる部分も見て取れると言うか。

正によくもわるくも東洋のガラパゴスと言えるのではないでしょうか?

そして、最後にというんですかね、いつも通りに行きたいと思います。


何はともあれ人と向き合いません?

フェミニズムだろうがなんだろうが構わないのですが、現状としては

言葉や概念で向き合うばかりで、人と向き合ってない

そういう印象が強いだけでなく、個人としては幼い頃から変わらないし、昭和も平成も令和もくそも何も無いです。

時代背景や価値観を差っ引いた人の在り様としてみると、ホントにこう、ねぇ?

そもそもが、言葉や概念に向き合うばかりで、自分自身との向き合いすら大して出来てない様子も散見されるので、そりゃ他者と向き合えなければ、言葉や概念振り回すばかりも致し方なし、っていうんですかね。

子供じゃないんだから。

頭脳は子供、体は大人って人が、相当に多いように思いますよ。

社会人1年目で、まだ精神的な疾患に理解が無かったとはいえ、うつみたいな状態になった。その、個人の背景として、社会人になってあれほど大人は凄いんだ言ってたから、どんなものかと期待して踏み込んだら、足元すっぽ抜けるどころか真っ逆さまでしたし。

真面目過ぎ、真面目過ぎって、そう言われる側からすると、申し訳ないけどそちら側が楽とか目先だけという、子供じみた態度をとってるのが問題なんですが?という状態で。

とはいえ、少数派どころか一人だけ。

うん。どうしようもないわけですよ。社会人1年目だけでなく、年功序列、上を敬うというような、これまた、ね?

家父長制度を家の外に持ち出したと言わんばかりに、俺は上なんだから言う事聞けよな世の中に押しつぶされそうになる、と。

うん。

なんていかさぁ、話し合いしたところで、言語化の部分で負けてしまうからか、相当に概念を感情的にぶつけら過ぎたからこそ、人の世が嫌になっちゃったんですよね。

そこに、感受性もからんで、どうしようもなくネガティブな物をうけとりすぎた、と。


とはいえ歴史が紡がれる中で

大元になった人物、孔子という人も寿命を迎えるわけで。

後に続いた人達以上に、歴史の大きな流れの中では、大元の利用できる部分だけを抽出されてしまってるというのは否めないでしょう。

また、儒教や儒家思想というのも、日本は日本でこれまた、独自カスタマイズしてるので、あくまで現状の日本からみられる、それらしき部分、という事にもなると思います。

当初の物が、当初のまま用いられるというのは、洋の東西問わず敵わない物で、時には時の権力者が弄ってしまうなんて事もしてしまうものです。

こういう部分にも目を向けると、何が悪い、何が間違いとか、何が良い、何が正しいと言えなくなるものだとも思います。

それ故に、歴史からみると、後続となった私たちは、果たしてそれはどういう物なのか?と考えながら向き合う必要もあるものではないでしょうかね。

そもそも、正しいも間違いも、良いも悪いもイでおわる形容詞。

何かしらの様を形容した物で、それを振り回してるだけでは、簡単な言葉で足元をすくわれるのも当然とも言えると言うか。

そうなると、負けるからと感情的になる位なら、自分を磨いて成長しない事には、その先も足元すくわれ続ける事になる、最悪年を重ねるほど、若い人に足をすくわれるというね。

老害VS若者というのも、正直アホらしいです。

どちらも自身が経験しうる立場なのですから、慮ったり、人としての向き合いをしないといけないと思います。


少なからず、道を学んだ部分から

高校時代に弓道部に所属するだけでなく、個人の人生の中では、珍しいといわんばかりにどっぷりつかったわけですが。

そこで学んだのは礼節や、真面目さだけではありません。

武に限らず、道は人の人生も説くものになりますし、それ故に基本と応用、模倣という、そういう部分の話しも出てくるわけです。

まずは基本から。とはいえ、基本も伝え残されたものを模倣する事から始まるわけですし、指導する人がいて、教えられてその通りに実践するわけですが、そういう部分も模倣なんですね。

そして、それを自分に落とし込んでからが、応用。

基本から学んだ技を自分の物として、磨いていくことになりますし、弓道にかぎらず、そういう武的な物にしても、文にしても、段位やその為の試験というのもありますし、自分の限界や、磨いた技の試しが出来たりもするわけです。

と、何が言いたいのかというと。

結局、基本とその模倣、そこから先は応用で自分の物にして、磨く。

これは、人が人として生きる上で、様々な部分で活きてくるのではないかな?と思います。

また、学生時代に弓道部に所属する前から、何らかの形で、そういう志っていうんですかね。

基本として学んで、それを真似するかのように取り入れて、気が付いたら応用してるというのを、持ち前の感受性の作用としてやってたわけですが、そうしたらあれよあれよと、ね。

相談上手だ、教え上手だ、真面目だ、気を遣いすぎだと。

自分の中に落とし込んだ故に、自分にとっては普通の事をやってると、おまえはおかしい、と言われる人になっていたわけです。

うん。

また、こういう取り入れて活かすという部分も、何かを感じてるからこそやってるという部分があるので、これまた感受性がそうあるから、こうなってるのかな?とも思います。あくまで個人的に。

そして、この感受性って誰でも持ってるんですよ。

でも、その事を話しても、自分は違う、自分は出来ないと言ったり、流行が正しいと情報に流されるだけだったりと、おおよそ自分で自分に向き合ってない人多すぎでしょうよ...っていう。

正しい、間違いに感情的に反応してしまうのも、そういう、ね。自分磨きをしてないからこそ、落とし込めないだけでなく、そうあるのにそれを扱ったり振り回したりするもんだから、自業自得してるからこその、図星の怒りっていうのかな。

自分で自分の首絞めてる姿にしか、見えないんですね。

まぁ、そういう風に言っても気づけない、のではなく。

普段から、自分磨きとしての落とし込みをしてないから、跳ね返す事しか出来なくなってるんです、うん。

それが少なからず出来る様な人なら、落ち着いた後で、こっそりすまんかったとか謝っていますけど、謝る必要もないです。

気付いて踏み込めたなら、その先も自分でちゃんと自分を磨いてくれたらいいわけで、そもそも感情的になられるとこちらもなりますし衝突する場合もあるので、お互い様ですよって事が多いんですね。

だから、謝らなくていいし、どうしてもなら、こちらもと頭を下げたりもします。

不思議がられますけどね。

そして、落とし込み落とし込み言ってますけど、言い換えればこれが受容です。カウンセラーなり、相談なりでいう、相手を受け止める事と同じです。

何も、そういう場合でなくても、お互いが人である以上、人として向き合ってれば、そういう受容って普通に発生すると思うんですよ。っていうか、個人としてはそうあるのが普通、です。

それをこう、ね?

話を聞かないまま、真面目だとか、気を遣い過ぎとか、人が良いとか、私ではなく概念で周囲はみるばかりなので、いつまで経っても出来やしない。

違うんだ。

私は今、貴方と話してる。そしてあなたはこう言った。そこには正しいも間違いも無く、人であるからこそ貴方はそういったのだ。

だから、私は人として、それを受け止める。

ただそれだけですよ?って、言うんですけどね。なんでこう、同じ日本語なのにこう言うのって伝わらないのかなぁ?というのは、今でも不思議だったりします。

こういう部分も、感受性が高いとか言われるわけなので、そう言ってるんですけど、なんかこう、そんな特別じゃないんだけど、うーん。

結局こう、深みにハマるんですよね。


あとがき。

って、なんかこう、すっごい話を広げて、最終的に人の道とかそんな感じの事を言い出しやがりましたよ、この人は!

自分で言ってる事なのに、どうにもこうにも、客観視が働いて、あとがき書き始めた時点では、ほんとこうコイツはこういう奴なんだからっていう。

自分の事でしょ?

今でしょ?と言わんばかりに、自分にツッコミを入れざるを得ず。

んで。

こういう事って普段から考えてるわけでもなく、勝手に記事を書いてたら言葉が出て来てしまい、こうなってたりします。

普段の会話なんかもそういう感じで、結果として周囲から突かれるので、自分が振り返る羽目になるし、そうなるからこそ、自分が自分の深い所に踏み込んで気づいて、更に踏み込んで更に気付いて、そこから更に...と。

深みに踏み込んで行く人生でもあったので、おおよそ妙な人に仕上がってるんですよね。

ただ、こういうのも、ほんとこう言葉だったりで一瞬で取り込むというような。感受性といって差し支えない部分の影響は否めません。

ホント不思議と、一瞬で受け入れるっていうか。

目の前の人だろうが、書物に書かれた歴史だろうが、それを理解というか、解釈した時点ですっと受け入れてるなぁって事も多かったりします。

そういう意味では、ね。

フェミニズムという部分では、研究してる方、突っ込んでる方も居ると思いますが、西洋史観だったり、民俗学とか、心理学とは別な人を見る学問の知見って挟んでるのかな?ってのは、個人としては疑問に思う所です。

だって、違い過ぎるんだもの。

日本って陸続きじゃない分、正にそこだけが特殊みたいな歴史をたどってるのも否めないので、微妙な齟齬、噛み合わせの出来て無さって出てしまうと思います。

日本の外って、取った取られただけでなく、農耕民族以外の遊牧民族というね。ちょっと違った感覚を持ってる人が権勢を振るう、治めるという時代もあったくらいですから。

遺伝子に刻まれるでは無いですが、どうしてもこう、見えない小さな何かとして日本の外は影響をしてる部分があると思いますし、逆に影響が少ない日本だと誤解すらしてそうにあると見える部分も少なくないです。

また、実はこれだけではなく。

識字だったり、学問の権威や名誉という部分でも違いがあるだなんだ、感じとってる物って相当に多いですし、だからこそ日本は変わってるんだよっていう妙な自負があったりします。

少し前に、研究しづらいから海外にでたという方がノーベル賞を受賞しましたが、そういう学問やその権威についても、日本は歴史を見ると海外と違い過ぎるんですよね。

その割に明治維新の頃は、外に出てみて掴んだ部分から、産業革命を終わらせ帝国主義に走った事から、当時の列強からは東洋の島国が!と圧力を受けるという。

歴史を見ても、布教と強化による植民地化が叶わなかっただけでなく、産業革命して追いついて来た、ガラパゴスなんですよ。

一体なんて国なんでしょう、日本は(笑)

って、あとがきが長くなってるなぁ。

まぁ、何はともあれ、感受性の部分から幅広く見すぎてしまうので、体系づいた学問が合わなかっただけでなく、突っ込んで特化するという部分に辿り着けなかったのも納得っていうんですかね。

良いも悪いも、やっぱりそこですか?みたいに付きまとうんです。

でも、その真逆として、体系化されたものに縛られない柔軟な発想というのは結構出来る方になったかなぁ。

まぁ、器用貧乏も過ぎるって感じも否めないですし、学生時代は私ははぁ?って気にしなかったですが、勿体ないって言ってた人達の深い部分を今更しりたくもあるようなないような。

と、いうことで。

日本ってこう、遅れてるのは固定観念っていうのかな。らしさ、による縛りや、家父長制度という部分の影響って根強いと思うので。

まずは、そこを外さないと、欧米で発生したものを受け入れる事ってまず出来ないと思います。

という事で。

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