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書くリハビリ

書きたいことはあるのだけどぉ。

書いてしまうとぉ。

最近また漏れ過ぎなのでぇ。

今日はおとなしくしましょうか、ね。


正直、幼い頃からわからないことだらけ

なんでこう、一方通行な人って多いんでしょうね。

自分はいいけど、他者はダメ。

うん。

理解するにしても、伝わるにしても、正直その・・・。

自分が先に相手を受容する=受け止めてあげてるほうが、うまくいきますよ?

そうあるために、正しいだ間違いだ、善だ悪だに拘らないようにしてたら、今となっては、そんなものクソだ、なんて言うほどです、ハイ。

自分から歩み寄ると、相手も次第に歩み寄ってくるんですよ。

それでも、ね。

感受性というか、見える、聞こえる、気づく、察するほか、そういう部分での飛び抜け具合は、基準となる相手側の感覚や感受性が違う分、理解されないどころか、話も聞いてもらえない。

というのは、付きまとってますけどね・・・。

まぁ、違うって分かってるのに、違いすぎてて認められない、そして個人としては様々な感情をぶつけられるので、困ったものですが。

まぁ、それほどなので、どうしても、ね。

ワケガワカラナイヨ

魔法少女まどかマギカのQべぇみたいに、人間というか、人類がわからない・・・ってなることもしばしばあります。

個人として色々受ける以上に、世の中の流れが何ていうか。

感染症にしろ、原発にしろ、高齢化にしろ、少子化にしろ。

事前に考える時間は十分あったのに、事が起こるまで対岸の火事と言わんばかり。考えるのが無駄と言わんばかりに、無視してたからこその結果であって。

自分は考えなくていいと、ふんぞり返る。

こういう行動を選択してた、結果なんですよ。

ほんとこう、3.11では原発だけでなく、防災という部分で事前準備は必要だと実感しただけでなく、だからこそ、防災グッズというのが流行って売れたほど、です。

そうなんですよ。

事前に準備してなきゃ、痛い目をみるんです、よ!

っていう。

物事に対して、上辺だけしか見ない、ただただ点でしかみない=話を類似性で繋げられないというのは、なんというかなぁ。

何度同じ失敗繰り返すの?って思ってしまうんですよ。

今となっては当たり前のネットですらも、オタク文化と同じ様に、普及段階では、

ネットとかキモ!、くらい、ださいw

だったのに、ねぇ。

結果、オタク文化と同様、後から土足で上がって来ただけでなく、興味があったからこそ、個人の責任として周囲に迷惑をかけないようにしてたのを、自由だなんだと踏みにじって押し流す。

そうやって、最初は蔑んでバカにしてたり、見下してたのに、それが当たり前になりだすと、我が物顔って、どんなおこちゃまなんです?

と、言いたくなりますよ、ほんともう。

そして、オタク文化とどうように、呆れてしまって、もうネットもダメかねぇ?って思わされてしまってます。

って、結局漏れてしまうわー。


どうしても受ける影響

まぁ、これじゃうつ病も改善しないよね、と言うほどに。

自分さえ良ければいいという、無責任さというネガティブが溢れてるので影響受けまくりですし、正しい間違いという個人主観での感情も溢れてますし、攻撃的とか、敵意とか、

感情の制御できてなくて、ダダ漏れ過ぎな人が多すぎ、です。

Twitterなんか、匿名かつ相手が見えないからこそする配慮、それが当たり前という感じだったのが、ここ数年で著しく崩れてしまッタと思います。

ほんとね。

バイトでの、おバカ行為をTwitterにあげて、バカッターとか言われた時期があっただけでなく、

やった人は、トンデモナイ賠償を背負うっていう現実もあるほど、です。

ほんと、ね。

話題になってなきゃ、しらんぷり。なんでしょうね。

まぁ、そのHSPなんかが話題になってますけどね?

流石に、こういう部分を取りあげてもらわないと、そうある人って結構辛いんですよ。

気にする気にしないではなく、個人としてはもう目で見るだけで、負の感情が入り込んできます。

加えて、ただでさえうつ病抱えてて動くのにも苦労してるのに、その入り込んだ負の感情を制御するっていう、余計な負荷を抱えさせられてるんですよね。

自分たちさえ良ければいいっていう、都合の良い自由のせいで。

受けた影響の制御を成すために、正しいだ、間違いだにこだわらないようにしてるし、自分の感情を殺してまでも客観という、相手側の立場への配慮もするんですよ。

真面目とか、配慮するとか、そういうことじゃねーから。

入ってきたものを打ち返すかのように返すだけだと、同じことをやってしまう事すらも把握してるので、敢えて押し止めるんですよ。

そうしないと、負の感情が循環するし、ストレス社会どころか、感染症で不安や不満を抱えてる人が多い今、少しでもそういう負の連鎖を断たなきゃいけないわけで。

そうなると、生きづらいではなく。

今ある生きづらさを消すために、受ける影響と戦うということすらしてるくらいです。日常的に。

結果、体調に出るほどになったので、もう無理と。

悪いと思いつつも、少し吐き出させてもらってるんですよね。

受け止めるって言っても、受け止めた分、残って溜まる物があるのもまた然りですから。

敏感だ、繊細だ、生きづらいだいうなら、そうある自身が、その影響に対処しなさいよ(苦笑)

そういう事言ってたら、すぐさま自分の心がくじけてしまうから。

メンタル病んでようが、只でさえ高すぎる感受性のせいで、理解以前に話を聞いてもらえないのが当たり前なので、自分の足で立って戦うしか無い。

それが、幼稚園児の頃から続いてるんですよ。

バカバカしくて、やってられないって、呆れ笑いや乾いた笑いが出ることもありますが、だからといって、戦い止めたら守るものも守れねぇんですよ。

この先の未来だ将来だってのが、守れなくなる。

それが、目に見えてイメージできるくらいだから。

声を上げてるんだっつーの!

やれやれ。


無意識下、というお話

あくまで、そういうね。

無意識とは言え、これまた、無意識にも段階や層があるという感じで、話せば( ゚д゚)ハッ!として気付ける、そのレベルのクセなんかもあったりします。

逆に伝えたことで、気付きはするも、無意識の踏み込んだ先にある本能的な優劣や攻撃という部分から、感情を即座に揺らして、逆ギレという事をやらかす人もいる。

あくまで、個人の経験で、あくまで個人が見てきたレベルですが。

そういうのが見えてしまうので。

制御できなかった幼稚園児の頃は、先生の図星を突いた事で逆に怒られたり、それを自覚して制御するようになったら、どちらの方がより深刻か?という部分から受け止めたり、受け流したりが出来るようになった。

あくまで、個人の言い分ですがそんな感じです。

それ程にね。

言葉にしろ、表情、仕草、ジェスチャーにしろに、感情が乗ってるんですよ。

加えて言うなら、個人としては、臨床心理士の先生から「現実を深い部分で見つめすぎ」といわれるのが、所謂普通レベルなので。

他者の喜怒哀楽にしても、現実を大して見れてないとか、こっそり思ってるのが実情で。

部活動の試合なんかでも、負けたことで泣いてる相手が居るそばで、あてつけか?と言わんばかりに狂喜乱舞してるとかも、何度となく目にして、呆れてたりします。

何事も、過ぎたるは及ばざるが如し、というのも、そういう経験としてのポジティブ、ネガティブで発生する影響を、目で拾ってきてるからなんですよね。

どちらが正しい、間違いではなく。

なんでこう、どっちにしても、即座に相手から離れないんだろう?

と、言わんばかりにその場に留まってやってしまってる。そういう事も多いんです。

そういうのが見えてしまう、嫌でも、目に映ったら瞬間、感覚的に深いレベルまで拾ってしまうので、困ってしまうんですね。

見た時点=視認するだけで入り込んでくるので。

臨床心理士の先生から「他者の感情を取り込みすぎ」と指摘されるのも、把握してる自身としては当たり前とか日常です、うん。

ただ、それを素直に言うと否定をくらうので、濁し濁し言葉にして遠回しにして伝えてたわけです。

うん。

まぁ、結構引かれた感じを受けましたけどね。言葉に一瞬詰まったり、えっ?って顔されたりしましたし・・・。

自分でも、なんでこうあるの?ってくらいなので、驚かれて当然なわけですが。

でもねぇ。

仕方ないんですよ。

見たもの聞いたものから、多分恐らくというのが、一致する確率が結構高いですし、外れてると言われても、顔に嘘って書いてますよ?と言うほどにみえたりするくらいなので。

だからこう、辛かろうが苦しかろうが、抑える時は抑えるってしてたんですけどね。

ほんとこう、辛いどころじゃないんですよ。


幸せも不幸もわからんちん

これは、実は悩み事だったりします、

まぁ、母の最期の言葉の中に、「自分の幸せをちゃんと考えて、幸せになって」というのもあったのですが。

はて?

私の幸せなんて、物心ついたときの性別バグ発言で、完全に潰されてしまったのだけど。

私の幸せってなんだ?

こんな感じです。

どうしても、ね。見えすぎてしまうというのは、難になる部分があるので、見えすぎないほうが良いんですよ。

知らぬが仏、という言葉と同じ様なものです。

見えさえしなければ、知ることすら無かった。

そういう物なんですよ。

それに、見えすぎてしまうので、他者の幸せを参考にしようにも、難ありです。

いやそれ、見えるラインが途中で止まってるし、それで幸せって言えないでしょ?

まだ、将来はどうなるのか?がわからないのに・・・。

これは逆側の不幸も同じなんですよ。

ただ、周囲の感情を受け取りやすいので、葬儀などでただただ悲しいだけでなく、懐古だったり、思い出だったり、感謝だったりと様々に溢れてると、影響を受けて私も泣いてしまう、と。

社会人やってたころの上司のご母堂の葬儀の際は、その様をみて受け止めてくれる方が居たので、すごく癒やされもしましたが。

そういう人が居ないと、すっごく疲れます・・・・。

と、余談をはさみましたが。

まぁ、幸せにしろ、不幸にしろ、言葉や概念の解釈は出来てるけど、だからといって自分にとってのそれは何だ?と。

悩むんですよね。

結局そういう言葉も喜怒哀楽の一種なので、現実見えすぎてると、感情以前に客観が働くので、自分の感情も殺しがちなんですよね。

こういうのは、ホントこう、今更ですが幼稚園~小学校の間の家庭環境だけでなく、学校ですらも、イジメや、話を聞いてもらえないのに一方的に上げ下げされたり、スケープ・ゴートにされるという、

総じて虐待じゃね?というものの、影響とも言えなくないと言うか。

他の子と違いすぎる、他の子どころか、下手すると大人よりも大人。

そういう評価をしてる大人たちが、あんたは子供か?ってくらいに、バチクソ感情をぶつけて来ただけでなく、立場は相手の方が上なので、立場による攻撃というのも多かったんですよね。

結果、1人にならないと、辛いと口に出してつぶやく事すらできなかった、と。

うん。

こういうのって、恨み言とかではなく。

どうしても、自分の幸せってわからないし、何をするにしてもうつ病としての気分の低下以外に、虚無感をもってしまってるという部分があって。

そうなったのは、何故か?と探すと、幼い頃の経験が上がりますし、それがもう社会人になっても続いてしまった結果。

精神病んじゃった!(てへぺろ

と。

うん。

難儀しちゃうんですよ。


あとがき

自分基準で、ネガティブ、ポジティブを測っても、見えるラインや感受性の関係のせいで、おそらく最後の話も、相当にネガティブにみられるかもなぁ、とは思うものの。

でも、それが現実というか。

自分に正直にって言われるけど、すこしそうするだけで、おかしいだなんだ、ありえないだ、と。

違うって分かってるのに、知ろうとしてくれないから、いつまでも違いに周囲が振り回されるばかりで、相当にしんどいです。

なので、人を避けるようになったわけですが。

もう、ね。

楽しかったものも、楽しめなくなってしまい。

ごく限られた娯楽しか触れられなかったりします。

ほんとねー。

真剣に病院で働いてる精神科の医師も居るのに。

Youtubeやら芸人やらやって、僕の考えた最強の研究と理論をぶちまけてる人を最近発見して頭痛くなりましたよ。

ほんとこう、ASDとAD/HDが組めば、業務効率最高!とかのたまわってて。

人によって、収まってる部分、影響が大きい、小さいという差、様々に違う人が居るのに、症状でくくるだけでなく、定型発達の人よりうえだなんだって、えええええ!?なんですよ。

そもそも、クリニックやって、Youtubeやら芸人やってて、研究する時間ってどこにあるの?

設備は?費用は?っていう。

こういう人が居るから、誤解を生む事にもなるというのに。

精神関係にしても、心理関係にしても、点だけで見ての情報って多すぎなんですよ。

こういう人は、こう、なんてのは、あくまで個人が見せた一部でしかないので、それ以外の部分があるし、だからこその多様性、個人差じゃないの?

なんでそう、夜空に浮かぶ一つの星だけを指して宇宙全体を語るみたいな真似するのか・・・・。

大学出たんじゃないの?っていう。

そりゃ、ね。情報化社会にもなったので、IT技術、Information Technologyを使って、生活費を稼ぐってのはわかりますよ。

でも、クリエイティブなスキル、素質を持ってないと、エンタメは作れないから見向きをされない世界で戦うことにもなるわけで。

そこに、強みを使ったエンタメは良いですが、誤情報の拡散にならないような配慮って必要なのでは?

DSMというアメリカでの精神疾患の基準がⅣ→Ⅴに、なった際、

うつ病について誤診の増加

とか触れられてたそうですし。

人の精神とか、心理って難しいので、そういう誤診が増加したという理由も念頭に置かないと、医療ではなく、只のビジネスじゃん、資格持った医師がやってるだけの。

そういう物になりつつあるのでは?

と思います。

うん。

最後に漏れちゃいましたが。

真剣に病院で働いて、患者と向き合ってる医師に失礼だと思いますよ。

はぁ。


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