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書くリハビリ

ほんとこう、たまに、稀に程度の頻度であっても、我ながらタイミングが良すぎなのでは?と言うことをやってる。

自分自身が、まずおかしいと嫌でも否定してしまうほどに、自分の取った行動の結果が、繋がりすぎて嫌になる。

なんとも、理解し難いかも知れませんが。

感じる側としては偶然で処理しようにも、脳がのうだけにNoって言うんですよ、なんておバカもやってないと落ち着けない。

それ程に奇妙なことってあるんですよね。

その辺を今回は書いてみようかな、と思います。


まず最初に、感じるということについて

例えば、長時間正座して立ったあとの足のビリビリ感。

今のような寒い時期に、冷たい強い風が当たると、体に走る感覚。

そういう物があると思います。

また、怒った場合は頭に血が上る、カッとなるような、体側の反応。

悲しい、辛いというときには、胸が詰まるという、胸のあたりに圧迫感のようなもの感じる。

この様に、体が何かしら感じ取ったときや、感情の変化が発生した際に、体の中の、恐らく神経と言う部分。

そういう部分に何かしら伝わるかのように、信号が走ってるのでは?

という感じ取りは、出来るのではないかなぁ?と思います。

そして、個人として、こういう神経の動きというか、体の感じ取りと言うか、

何の理由も無い、探ってもわからない、ただただ漠然と感じる奇妙さ、違和感という時にも、

ものすごい頻度で体がザワザワすることがあります。

ただ、言葉にするのが少なからず得意。また、自分自身の体のについても、何を感じ取ったから、胃炎に繋がりそうなほどに、恐らく胃酸がでたんだなという掴みが出来るし、ここが細かすぎと言われるほど。

そういう身なのですが。

なんでこうなるの!(ピョン!

って、これまた、やりたくなるほどに、おかしい状態になることがすっごく稀ですがあるんですよ。

そして今、その状態が頻発してて、頭を抱えてたりします。


自分自身がまず否定する、ということ

そういう言葉にできない感じ取り。

また、出来たとしても、他の人に話しても感じ取れないのではなく、普段から些細な変化に気づいてないからこその、否定をくらうので話せないと言うことになります。

相談が出来ないんですよ。

どうにもこうにも、なんともいえない気持ち悪さ、言い換えるなら焦燥感に近いものがあるのに、相談すると自分だけでなく、相手もわけがわからなさすぎて気分のアップダウンになる。

こういう事がわかってるので、予め自分自身が否定をして、うちけそうとする事って多いです。

そうしないと、意識を強めて、偶然だ、気にするなってのも体に作用させられないんですよ。

というのも、感じ取ってるが故に、神経が動いてるとかそういう状態は、脳に情報が届く以前の物でもあるので、意識して抑え込もうにも、無理ゲーが過ぎるということがあるんですね。

こういう体の変化すら、些細すぎて、伝わらない。

そのくらいに、体が感じ取るし、神経も動くと言うか、ジリジリ、ピリピリと信号が走ってると言わんばかりだし、ザワザワするという落ち着かない時の状態になってしまうんです。

うん。

それでも、やっぱりこれはおかしすぎる。

自分の体だからこそ、そう思えるので抑え込もうとするわけですが。

どうにもこうにも出来ず、時間経過による落ち着きを待つしか無い、みたいなことも多いです。

で、なにかに集中すれば?と、言われるわけですが。

集中切った途端に、もとに戻りますから。

集中でつかれる分が、意外と余計だったりします。

とはいえ、ね。落ち着くまでやっぱりしんどいんですよ。

兎に角気持ち悪いというのが頭に浮かびますし、それなりにコントロールしますけど、1人になってないと、感情的になりやすいどころではない。

それ程に、イライラとかしやすくなるので、周囲に人がいると困るという所から、周囲にはわからない程に、1人になろうとしてしまう。

自分としても、どうしようもないのですが、実はこういう部分に凄い落とし穴があったりします。


前例が無い=ありえない、と言うこと

自分がどうか?は別としても。

HSPという概念を使えば、兎に角否定ばかりされてた部分に、完全ではなくとも納得は出来なくもない。

そういう事が増えてきました。

感受性が高いだなんだ言う割に、感受性とは何か?については、周囲もあまり分かってない、という状態も長かったんですよね。

で、コレがどういうことかと言うと。

・根拠となる情報がない

・更に確実にするための知見、学術的なものもない

・突拍子がなさすぎて、そもそも着目されてない

可能性は0ではないけど、という部分から、追求し始めるというのも科学なわけですが、そこから遠い一般の人って、

自分が知らない、自分が感じ取れない=非科学的だ

こういう言い方を凄くするんですよ。

無いということの証明は難しい。

悪魔の証明とか言われたりもしますが、絶対に無いという事を証明するほうが実は難しかったりします。

また、技術的な部分も関係して、あとの時代になって、新しい知見からの予測、科学的技術の進歩という部分から、今まで無いものとされたものにメスを入れてみようという動きすらあるので、0でなければ、あるかもしれないの方が触れやすい。

今なら、宇宙空間の暗黒物質ですかね。

もう、あるとしか言いようの無いデータ=知見が取れてるから、存在を証明しようという段階になってます。

と、少し小難しい話になりつつありますが。

こういう部分で、普通の人ほど、安易に非科学的という表現を使う=無意識からの良し悪しで、自分が不利にならないように否定してなくそうとする。

心理学で、HSP=感覚処理感受性や、環境感受性という概念が提唱されだしたことに、ようやくか・・・としみじみ感じたという部分には、こういう根っこがあったりします。

また、加えて多様性。

何がどうあれ、みな違う部分を持ってるし、それは自分が持ってないからこそ、理解できない部分もあるので、頭ごなしに否定するばかりでは良くない。

そういう流れになりつつあると思います。

うん。

ほんとこう、まだ完全ではないけど、長かったです。

と、感傷に浸ると色々零れそうなので。

個人としての、相談上手と言う部分。そこにも、ありえないという非科学的だから、というのも実は寧ろ除外してたからこそ、うまく行ってたと言う部分もあります。

受容と共感、そのためには、そういうつもりはないといういい加減さからの否定すらも、除外できなきゃ失敗するんですよ。

だからこそ、余りにも人が良すぎる、と。

いや、違うんだよ。

否定って、相手が傷つくだけでなく、不安にさせてしまうし、塵も積もれば山となるで、喧嘩する理由はそれだから、と。

これが通常運転だったりします。

まぁ、とにかくね。

現状では、ちょっと体のほうが、色々探しても知見どころか、同じ様に感じてる人の話も無いほどに。

明らかに異常、でも、自分ですらもわからないという状態になってます。

が。

一つ手がかりはあるんですよ。


あくまで可能性として

自分だってね、まず否定しますよ。

というか、それをし続けてねじ伏せようとしても、何でか頭の中に「もしかしたら?」が浮かぶ事として。

先日のトンガでの噴火。

コレがなにか関係してるのかも知れない。

でも、気のせいかもしれない。

なので、必要以上に自分の中に落とし込まないし、そうなりそうなら否定して打ち消すわけですが。

そういう自然での大きな出来事があると、変にざわついてしまうことがあるし、それも毎回ではないので、自分ですらもよくわからない。

まぁ、なんだかんだで、そういう時に、自分の体に何か変化が発生することはあるんだよなぁ、というのが一つの結論だったりします。

よく、動物が自然災害まえに、慌てだしたかのように逃げるとかあるじゃないですか。

そういう名残っていうんですかね。

うーん、そうと言うのはなんかこう、憚られる。

でも、なんとなくだけど、可能性としては否定しきれない。

こういう部分も、少なからず知覚出来ることがありますし、知覚してしまうがゆえに、それは何故か?を考えて、こういう部分にたどり着くこともあります。

とはいえ。

自分でも、おかしいよ、流石に(笑)になるので、否定もして打ち消す、と。

まー、なにはともあれ。

理由は判明しないでしょうし、そもそも、うつ病という症状も持ってますし、口にした所で、そういう気分の浮き沈みとか、変化とも言えるような部分なので「うつ病の影響じゃない?」とはなりそうで。

そういう事も、事前に織り込み済み。

良くも悪くも、感じ取れてしまうだけでなく、同じ様な人が居ないということは否定を受けることを前提で、あれこれ掘り下げるんですよね。

なので、否定するにも、相当に根拠を持ってこないと、だから何?になったりします。

下手すると想定済みなので、打ち返してしまうくらい。

ほんとねぇ。

感じ取りすぎるって、大変なんですよ。

感情だけとか、自分が苦手とする事だけとか、そんな限定的な部分だけで語れるほうが、寧ろ羨ましくなる事すらあります。

些細どころか、微弱すぎて、自分がまず否定するわけですが、それでもしきれないからこそ、焦燥感みたいになってしまうほどに感じてしまうんですよ。

すごくレアケースですが。

ただ、直近で、結構レアケースとも言える噴火があったし、その衝撃波が1日経っても回ったからなのか、遅れて津波注意報が出たほど、となると。

もしかしたら、何か感じてそうだなぁ、というような可能性は0に出来なくなる。

そういう体の変化に、今は苛まれてたりします。


試験的な話でもあります

実はコレ、なにはともあれ、敢えて記事化してみようと思ったんですよ。

良い悪い、正しい間違いではなく。

良くも悪くも、HSPだ感受性だという話も世に出てきたし、多様性と言う部分からある程度否定はされたとしても、もしかしたら、受け止めてくれる人がいるかも知れない。

そういう、希望的観測からの、試験的な記事、という側面が今回についてはあったりします。

それ程に、ね。

感じ取ってる自分自身が困るほど。

時間経過で落ち着いてはくれますが、それが後々、ほらやっぱり・・・という事も何度と無く経験してるので、ね。

やっぱりになる前に、出してみようかな、と。

ただ、同じものを感じた、何となくそうある、だから感受性が高くて、あの人HSPについてうるさいから、自分はまさか!?なんてのは、

無しにしてください、ね!

良くも悪くも、感じ取る物って、自分の体があるからこそと言う部分があるんですよ。

五感ですら、ちゃんと知ろうとすれば、感覚器の仕組みってありますし、そういうのを含めての体の仕組みです。

そして、人体はまだまだ神秘とも言える部分が眠ってる。

追求や解明って、どうしても知見や知識、技術の問題もありますし、だからこそ歴史上では、今では毒である水銀が治療で使われる時代もあったくらい。

なのでね。

誰かの話は、あくまで参考。

自分で自分自身と、体に問いかけて、よく煮詰めた上で、自分で判断するしかないんですね。

この煮詰め具合が甘いと、足元を掬われます。

だから、まずは自分が否定するという、普通に考えたら自分に厳しくみえるようで。実は、根拠や流れがあるからこその、道理のある否定だったりします。

こういうのを、ね。

幼い頃から積み重ねてるので。

安易に、自己肯定感とか言うのは、阿呆だ、と。

分かったつもりで分かってないのに、肯定が良いことだからと、安易に肯定する。ソレが出来ない他者を、事情を知らずに否定する。

よくある自己肯定感の正体って、こういう、うさんくささも含んでるんですよ。

と、蛇足が入りましたが。

まぁ、ね。

正直、こういう話をしても、結論は現状では出ないと思います。また、個人としてはこういう難易度高すぎで結論を先送りした結果、後々、あーやっぱり?という事も結構あります。

そして、それを成してる部分に、個人としての感受性が絡んでますし、大凡の人が感じ取れず、踏み込めないところに踏み込んで、言語化すらしてしまってるので。

良くも悪くも、何かしらのキッカケさえあれば、精進しつづけてる。

うん。

先が暗くて不安で踏み込めない。

でも、踏み込む人もいるし、踏み込んでるからこそ既に知っているというのは間違いなくあるんですよ。

人としての差。

そこには目に見えた結果だけでなく、結果が出せない部分があるのも然り。

そうじゃないかねぇ?と個人としては思ってます。


あとがき

今回の内容は試験的な部分もある。

なので、それがリハビリになるの?と言う部分があるわけですが。

伊達に感じ取りやすいのが幼い頃から続いてるわけじゃないんですぜ。

へへっ。

まぁ、自分にとってはどちらに転んでも、得るものがある。

そういう判断に至ったので、記事化してみました。

結構、こう、ね。

正しい間違いというのは、バカバカしいというくらいなので。

自身の行動がそれに偏らない事も多いですし、そこが理由で、おかしいだ、ありえないだ言われもするんですよ。

自分たちがそうあるからって、正しいか?間違いか?のどちらかに寄らないのはおかしい!って。

しかも、普段から色んな違いを目にして、口にしてと言う感じで、現実として場を同じくして観測してる人ほど、妙に否定的、なんですよね。

そもそも、討論なんてしたこと有りません。

しようにも、お前には勝てないからって、相手も冷静さを保ってる分、そうやって逃げられるのが常ですし。

その割に、他愛のない日常の会話程、自分と違うから、で、すっごい否定をくらいます。

いい加減にしなさい、と。

言いたいから言うのは良いけど、そもそも、正しい間違い、良い悪いという話の流れでもないのに、何で突然そうやって否定するのか?なんですよね。

正直迷惑、です(笑)

事の成否、善悪、正誤を日常会話でも言及してるのなら、まだわかるんですよ。

でも、そういう流れが一切ないのに、突然降って湧くように、否定やら、おかしいやら、真面目すぎやら、気を遣いすぎやら言われる始末。

そういう流れという部分もあって、自覚が及ばなくなるんですよ。

ほんとこう、突然です、突然。

言いたいから言うにしても、タイミングや状況すらも見てないので、余計に言われた方としてはしんどいし、ストレスになります。

だから、そういうストレスの部分に配慮して?とお願いした所で。

言いたいことが言えなくなるじゃないか!

(゚Д゚)ハァ?

会話がドッジボールな人が多いんですよ。なんでやねん!っていうか、冗談であっても、呪われてるんじゃない?ってくらいに、同世代であっても、突然こう、ね。

ちょい待ち、今このタイミングで、何故そういった?と。

ほんとこう、相談上手、聞き上手というのも、少なからずふざけんな!ってのもあります。

否定にしろ肯定にしろ、相手に影響を与える言動なので、相手、状況、話の流れ、その後の影響etc注意を払ってしないことには、寧ろ相手には伝わらないどころか迷惑になるんですよね。

それを、ねぇ?

なんか良くわからないけど、勝手に怒った。

褒めてやってるのに、態度が悪い。

そりゃそうだ。当然だ。

だってあんたが相手をみてないんだもの、と言うことが相当に多いだけでなく。

面倒なのが、同意を求められて、しないと矛先がこちらに来る。

人間って愚か、モルカーになりたくなりますわよ。

それが状況が異なった時に、会話や相談をうまくやる方法、コツを教えてくれって人も居ますからね。

祝は儀式化させたもので、形を整えた上で、決められた手順、言葉をもって行うことですが。

それを口で言うだけ、と簡略化したのが、呪という。漢字の成り立ちみたいな部分もそうあるだけでなく、ほんとこう、そういうのあるんじゃない?って程に、無遠慮、無配慮、無神経に口を動かす人がどうにも多すぎて。

人がいい、聞いてくれるはずと、散々ぶつけられてきたので、精神病んだというのも、一つの理由というか。

幼い頃の方が、そういう決めつけが多かったので、余計に酷い、と。

そういう意味では、ね。

あまり言いたくないのですが。

自分のせいではなく、周囲が兎に角、自分優先、自分主観が過ぎたがゆえに、呪いが蓄積するかのようになった結果、私は病んでしまったのです。

とはいえ、ね。

責任は追求できないですから、ゆっくり向き合って消化するんですよ。

面倒ですけどね。

ということで。

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