ニューヨーク三部作/ポール・オースター
オースターのニューヨーク三部作を読んでいた。緩やかに繋がった連作というのは好物なもので、事前の期待程には奇妙な小説で無かったものの、満足の行くものだった。大雑把に表すなら、探偵仕事に就いた男が狂気に囚われ、変質していく様を描いた小説だ。自己の探究を主題としているらしい。
この小説は、基本的に探偵と作家しか登場しない。そして、物語が形成する枠内において、二つの職業は重なる部分が多い。『ガラスの街』の主人公は作家で、赤いノートを片手に一人の男を追跡する。探偵仕事は常にノートと共にあり、そもそも、話の全体自体が残されたノートから話の全貌を推察する体裁を取っている。『幽霊たち』においては、主人公の探偵は一人の男の監視を行い、その内容を文章で報告し続けることを指示される。『鍵の掛かった部屋』の主人公もまた作家で、失踪した友人の伝記を書こうと試みる中で、探究心の闇に潜り込んでいく。
他の登場人物に目を向けたとしても、人間関係は広くなく、物語の都合以上の価値を見出しがたい。交際関係にある女性の描写も、概して雑である。(時代相応と言えばそうかもしれない)
一人のターゲットの追跡、そして言葉によってそれを捉えること。それが主となる営為であり、それ以外の要素は削り落とされている。尾行というのは確かに現実的な探偵の主要業務であるが、謎解きの要素をほぼ含まないという点で、探偵の小説的ステレオタイプからも外れる。また、作家の物語であると同時に、商業的に文章を書き続けることは主題ではない。要するに、追跡も執筆も職業的な要請ではない、非社会的な動機によるものと言える。
人と人の閉鎖的な相互作用によって生まれる狂気、というと極めてありきたりな主題で、それを踏まえると、追跡という行為が実存的不安定を齎すのは自然な流れだ。興味深いのは、執筆というフィルターを経ることで、彼らの狂気が増幅されるように見えることだ。彼らは書くことを自らに強いる。しかし冷淡な読者の目線を通じれば、そこに必然性は無い:何故そんな仕事に本気になるのか。適当な内容を書けば良いだろう。書けないなら無理だと言ってやめれば良い。断っておくが、主人公の行動に興味が持てない詰まらない小説だと言っている訳ではない。物語上の必然性という線は確かに守られている。それでも、個の目線を通じた時、彼らの所業は必然性を欠いている。その動力は内発的であり、強制的ではない。
例えば、架空の小説家の類型を考えてみるとする。執筆の動機とは何であろうか。芸術的至高を目指し、研鑽を続けるため。名声を得るため。畏敬する者の心を動かすため。創作衝動を鎮めるため。
主人公らの原動力はそれらと異なるものだ。より分析的な、ドキュメンタリーを作る欲求と言うべきか。社会的な作品を作る欲求でなく、好奇心に基づく記録の欲求。すると作中で描かれる、観察対象が遠ざかることの苦しみ(それだけではないが)は得心のいくものだ。
絵画にしろ小説にしろ写実主義が一定の地位を占めて久しいこの時代ながら、写実という指向性がこうも印象的に感じられるものだろうか、と思う。これが真の実録小説の体裁を取るのであれば、その動機に疑問をさしはさもうとは思わない。しかし探偵小説という極めて通俗的なフォーマットを転用し、それを表現されるのは、ふいを突かれる感覚だ。
この際に生じる疑問として、何故、媒体は書かなければならなかったのだろう。主人公らの分析的な欲求を満たす上で、何故ペンを取らなければならなかったのだろう。時代背景として、それが最も自然な選択だったから、というのもありえる(つまらない)答えではあるが、究極的には、他者への表現という側面は二の次なのだ。媒体は本当に文字でなければいけないのか。記憶に留めたとしても、欲求は解消されるのではないか。
より厳密な、正確な認識を得る為、というのも一つの答えかもしれない。執筆は手段に過ぎないという立場も取れる。しかしそれは、人間の意識を極めて頑健なものとし、言語によって認識が正確に転写されると仮定しなければ妥当性を持たない。実際、人間というのは言語によって大きく認知を歪められながら生きてきた生物だ。ともすれば、言語を持つことが作中の狂気の源泉だ。
執筆に対する欲求というものは呪いのように映る。作中において、これは分析的に自己と世界を見ざるを得ないという呪いと表裏一体のものだ。そして、小説のメタ性は作者自身にも呪いが掛かっているかのように思わせる。『ガラスの街』序盤に唐突に挟まれる作者の名前。名称の再利用。反復モチーフ。自伝的符合。(所詮、メタ的な読みは大体邪推の域をでないが、ともかく)個人的に、創作者の気配の存在はそんなことを考えさせる。
思考を巡らせていると、執筆という観念は人を飲み込む大きな水流のようにも、一本の藁のようにも見える。
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