海底を流れる時間

『夜と海』の最終巻を読んだ。稀有なまでに綺麗な完結だったと思う。読者として無名の関係性を求めることは多いが、そういった例を実際に見届けられる機会は多くない。意図して描かれたものであればなおさらだ。商業的多数派の漫画はどうしても画一的な方向に流れるもので、個人的にそれに流されている感も否めないが、久方ぶりに突き刺さるものに出会えると、充足度合の違いを実感せずにはいられない。

読み返すと、非線形的な時間の流れが印象深い。時間軸の余白が、主観的な断片性を強調する。誰もが持つ、些細ながら記憶に残る出来事を回想する時のような、人が時間を捉える時の不確実な揺らぎがある。三者視点でありながら、主観を渡り歩くような、不思議な感覚。言うまでも無く、海生生物の視覚表現ともよく調和していて、読んでいて心地が良い。酩酊に近しい状態に至るくらいに。

とりわけ最終話は、こうも自然に、時間を飛び越えることができるものかと思う。共感的に読んでも、俯瞰的に読んでも、そこに断絶は無い。長い時間に及ぶ緩やかな変化の内、ページの上に描かれる時間が少し伸びただけのような。理想的な終わりであって、余韻は容易く消えてくれない。

期待を越える最終話だった、というのは自分でも意外だった。何にしろ期待度は高い方だと自分では思っている。アニメにしろ映画にしろ、短編のPVやオープニングを下回る内容に失望するのが常だ。未完結の漫画を追うことを長らく趣味にしてこなかったのは、期待が満たされないことを恐れていたからというのも一つの理由だ。(漫画の一巻を気まぐれで手に取るようになったのは、ここ5,6年くらいだろうか)一巻を買ったのは装丁に惹かれたのがきっかけだったが、その時点でも、想像以上に良質な内容に驚いたことを覚えている。高まった期待を、3年後に更に上回ってくれるとは思いもしなかった。

印象的な作品に触れると、作品とは無関係な時間を想起する。元々、作品と作品外の物事を分別することが苦手であって、読むのに掛けた時間はそのまま作品そのものの記憶と癒着してしまう。過去に、精神の相対的な谷間の時期に追っていたとある漫画があったが、それを読み返す度に、沈んでいた精神とその漫画によっていかに救われていたかを思い出す。それと比較して、『夜と海』を読んでいた3年弱の時間の経過とその間の変化は言葉にし難い。精神に緩やかな変化はあったものの、未だに意味を持たないくらいの些細なものだ。好む作品の傾向も緩やかに変化したかもしれないが、大枠では変わっていないことが分かる。

流れで、いつまで同じ作品を好きでいられるかと考えてしまう。数年に一度の傑作と断じることの作品に出会ったとしても、二桁の年数が経った後に同じ輝きを放っているとは限らない。あくまで、現時点での過去と比較して、良し悪しと展望を語ることしかできない。少なくとも現時点での私は『夜と海』を数年に一度の傑作と見做していて、当分の間その存在を忘れることはないだろう。それはコンテンツ過供給の現代においては十分に惜しみない賛辞だとも思っている。

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