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この想いが消えてしまわぬように〜藤原道信と北の方〜

前回、藤原道信と婉子女王のことを書きました。あの、山梔子の園の歌、どう思われましたか。


病に隔たれて


これは前回の記事に載せた千載集の歌と似ていますが、私家集の歌です。

いたうわずらひ給ひければ他にわたしたてまつりけるに、かぎりにおぼしければ、北の方の御もとへやまぶきの衣たてまつり給ふとて

くちなしの色にやふかくそみにけん 思ふ事をもいはでやみにし(道信集)

道信の中将様のご病気が悪化なさったので、他の所にお移りになっていただいたが、道信様はここまでの命とお思いになられたので、北の方のもとへ山吹色の衣を差し上げなさる時に添えられた。

くちなしの色に深く染まったようだ。あなたに告げたいと思うことも言わないで、終わってしまった。

(山梔子の実で染めた色は黄色くなるので、山吹から連想される。また「山梔子」と「口無し」を掛けている)

これを読むと、道信は病をうつさないために、北の方と離れました。そのため直接最期のお別れは言えなかったようです。

道信は何を伝えたかったのでしょう。

また、なにのをりにか
やどごとにありあけの月をながめしに君と見しよのかげのせざりき

また、何の折にか

あなたと寝所を別々にして、有明の月を眺めていたら、あなたと見た夜のことが目に浮かぶのだった。



すぐにまた会いたい


藤原道信の北の方は、従姉妹である藤原遠量の女です。『栄花物語』によると、彼女は、姉が藤原道兼の北の方で、道兼が世話をしていたと思われます。

道信は、藤原道兼の父藤原兼家の養子であり、道兼とも従兄弟です。

道兼は妻の妹の聟に、道信をのぞみました。

左大臣殿のむこになりてのつとめて

あまのはらあくるにくるるよなりせばなかなかさらになげかざらまし

この頃の左大臣は源雅信です。藤原道長の妻倫子には妹がいますが、適当ではなさそうなので、内大臣であった道兼がふさわしいかと思われますので、道兼とさせていただきます。(ちなみに右大臣は源重信)けれども、道兼は義理の父親ではないので、「聟」がふさわしいかも悩ましいところですが。


道兼殿の聟になった早朝

天の原は夜が明ければ、日が暮れるものだから、夜にはまた会えるんだ。なまじっかまた嘆くものではないだろう。(そう思っても恋しくてたまらない)

『道信集』に収録されている歌ですが 百人一首の歌に似てますね。

明けぬれば暮るるものとは知りながらなほうらめしき朝ぼらけかな


これは相手が遠量の娘ではないかもしれませんが、好きな後朝の歌なので載せておきます。

ある女のもとに、はじめてゆきのふりけるあしたに 
はつゆきのきゆるがきえぬよの中にふるやなにぞのこころなるらん

ある女のところへ、初めて雪が降った早朝、

初雪は降れば消えるものですが、今朝は夜のうちに消えずに積もっていましたね。どうしてなのでしょう?あなたと過ごして育んだこの想いも淡く消えたりはしないで欲しいものです。


正歴五年七月十一日(994年8月20日)、藤原道信は患っていた天然痘が重篤化し、亡くなったそうです。享年23歳。


どんなに早い時期に結婚していたとしても、短い結婚生活だったでしょう。

道信の歌は、贈った相手がわからない歌が多いので、どれくらい北の方に贈っていたのかわかりません。

でも、とても深く想い合っていたような気がするのです。


道信に子はいなかったようです。未亡人になってしまった道信の妻はこののちどう過ごしたのでしょう。

角田文衞先生の『承香殿の女御』の中に、左大臣藤原顕光がその妻の妹の「宰相の内侍」を引き取ったことが書かれています。

藤原道信が亡くなったので、道兼の妻は妹を引き取ったかもしれません。けれども、それからまもなく道兼も亡くなったので、彼女は出仕し、やがて、顕光の後妻となっていた姉のもとに身を寄せたのではないかと。そして、寛仁元年6月に亡くなったようです。

夫を亡くして24年ばかり。女官になっていたのですから、才能豊かな女性であったのかもしれません。亡き夫のことを話すことはあったのでしょうか。

(この件、御堂関白記の記載を確認したところ、藤原遠量の娘である宰相の内侍であることは確認できたものの、道信の北の方かはわかりませんでした。しかし、とても興味深いです。)


《参考》
国歌大観『道信集』
松村博司『栄花物語全注釈』角川書店
角田文衛『承香殿の女御-復原された源氏物語の世界-』中公新書

(2022年7月11日加筆修正)


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