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藤原義懐の出家①ー『枕草子』を通してー

小白河の法華八講

まだ、定子に仕える9年くらい前、清少納言は、小白河の藤原済時の別邸で行われた法華八講に参加しました。

早朝から家を出たのに、屋敷の庭には牛車がすし詰め状態。左大臣右大臣以外はほとんどの貴族が集まっていたそうです。

まだ、講師の僧侶が現れず、みな待っています。

そこへ遅れてきた謎の女車を茶化そうと試みる公達たち。その中心にいたのが権中納言藤原義懐(よしちか)でした。

清少納言からみた義懐は今を時めく貴公子でした。

義懐の出家


義懐は花山天皇の叔父です。

冷泉天皇の妃懐子は義懐の姉でした。

花山天皇が即位したおかげで、外戚である義懐は異例の出世を遂げ、権中納言に昇り、寛和の新政と呼ばれる政治改革を推し進める力をつけていきました。

天皇はとても義懐を信頼し、重用していたのです。

一方で天皇には深い出家願望がありました。

藤原為光の娘忯子女御を亡くした悲しみからと言われています。

当時の花山天皇の歌からも、出家願望が伝わります。(※)義懐や蔵人の藤原惟成(これしげ)はなんとか出家を諦めさせようとしました。

ここですが、史実としては、それが原因で出家するには時間があきすぎでは、とも言われています。

忯子が亡くなったあとにも天皇は、藤原兼家と対抗できそうな公卿の娘の入内を受け入れています。
義懐は公卿に、惟成は蔵人ながらに「五位摂政」とあだ名されるほど、朝廷への影響力を強くしました。
むしろ、政治的に兼家にとって不利な点が強くなったのでしょうか。そのために、まだ青年となったばかりの天皇は騙されたと言われると、頷かずにはいられません。

でも、忘れられないものは忘れられないし、どうやったらまんまと帝を騙せるものでしょう。わからないことばかり。頭中将であった実資の日記が残っていたらよかったのに、残念です。

なににしろ、二人の苦労は報われず、寛和二年(986年)6月18日から四日間行われた法華八講から間もなくの6月23日の夜、花山天皇は藤原道兼の手引きで出家してしまいました。

花山天皇が譲位しては、もはや立場がない。翌日、義懐は惟成に促され、共に剃髪しました。

義懐の息子たち

権中納言藤原義懐と五位蔵人藤原惟成が、花山天皇のもとに駆けつけたのは、剃髪が済んだあとでした。

二人もすぐに剃髪し、出家しました。

義懐の子たちも皆出家しています。尋円、延円は父義懐に従って、成房はそのあとを追い、長保四年(1002年)出家しました。

権記には、寛弘五年(1008年)2月11日、花山院の葬送の際、入棺の奉仕をしたのが、義懐、尋円、延円、成房だと記されています。

義懐が花山院の最期を送り出したというのは、とても感慨深いです。

その弟の伊成の出家は寛弘六年(1009年)12月1日。

のちに、藤原道長の娘彰子が一条天皇の皇子(敦良親王。後の後朱雀天皇)を出産します。この祝いの宴の日、同じく道長の子で、彰子とは別の母の子、藤原能信やその従者たちに陵辱され、翌日には出家してしまいました。
伊成は家のことで誹られたとも。

ちなみに、義懐の娘たちは、父の出家後、花山院住まいである東院と斎院に住んでいたようです。(拾遺集)

甥藤原行成

枕草子にも登場する藤原行成も花山天皇のいとこでした。

彼も相任とともに、花山天皇の侍従でありました。

花山天皇も叔父義懐も出家し、彼の後ろ盾は母方の祖父源保光だけとなり、蔵人頭に推挙されるまで、不遇の身でした。

伊尹の子や孫は朝成の祟りといわれるほど、短命でありましたが、行成は出家をせず、大納言にまで出世し、56歳で亡くなりました。
(藤原朝成は伊尹に騙された恨みを抱えたまま亡くなったという)

義懐やその子どもたちとも交流が深かったことはその日記からも窺えます。

枕草子には、いくつもあったはずの政変の事ははっきりと書かれていません。しかし、定子に出仕するかなり前のことをあえて書いたことは、意味があると思っています。

花山天皇や義懐たちが出家したことは、こののちの中関白家と呼ばれた一族と定子の不幸を思い出させますし、清少納言自身にも関わったでしょう。また仲がよかった行成を通しても、考えることがあったかもしれません。

藤原義懐と寛和の変


※出家の志があると窺える歌

同じ歌合(花山天皇主催寛和二年6月10日の内裏歌合)に、月を

月かげをやどにしとむるものならば思はぬ山は思はざらまし(実方集)

【歌意】月の光をやどにとどめておけるのならば、にわかに入山(出家)しようなどという気を起こさなくてすみましょうに。(『平安私家集』より)

世をすてむとおぼしめしける頃、三条関白の女(むすめ)の女御のもとにつかはさせ給うける
世の中をはかなき物と思ふにもまづ思ひ出づる君にもあるかな(玉葉1551)
【通釈】世の中をむなしいものと思い、いっそ捨ててしまおうと思うにつけ、真っ先に名残惜しく思い出すのは、あなたのことですよ。
【補記】前歌と同じく「三条関白の女」、諟子に贈った歌。花山院の出家は寛和二年(986)六月二十二日。

しかし、この歌だと、花山天皇の藤原頼忠の娘諟子への愛情も感じられる。

【参考】
池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫
松尾聰・永井和子訳注『枕草子[能因本]』笠間書院
『新日本古典文学大系 平安私家集』岩波書店
倉本一宏訳 藤原行成『権記』全現代語訳 講談社学術文庫
倉本一宏 『平安朝皇位継承の闇』角川選書

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