希死念慮という名の獣
「死にたい」というと、死にたくなるほどのつらい出来事があったんだなと思われがちだが、思い返してみると私には別にそれほどの出来事はなかった。私の死にたい理由なんかいつも「明日学校があるから」とか「明日バイトがあるから」とか「体重が増えたから」とか「もっと寝てたいから」とか。まぁそれはちょっと大袈裟かもしれないけど、それくらい人に言えば「そんな事で」と言われるような事ばかり。それでも、私はいつも真剣に死にたいのだった。正確に言えば私の気持ちは「死にたい」よりは「生きるをやめたい」に近い。生きるのに向いてない、最近特にそう感じる。目が覚めなければいいと思いながら眠りについた夜が、もう数え切れないくらい積み重なってしまった。
中学生くらいの時から「なんとなく死にたい気持ち」が頭のどこかにずっと居座っていて、そいつが完全に居なくなることはこの先もないのだろうなと思っている。そいつの名前は「希死念慮」という。自分の死にたい気持ちについて色々調べていた中学生の時に知った。眠たい、何か食べたい、と同じ感覚で死にたいが頭に浮かぶのだ。そんな風に過ごしているうちに、いつからかそれが普通だと思い込んでしまっていて、そうではないのだと知った時、納得したのと同時に他人が羨ましくて仕方なかった。死にたいと思わない人生が羨ましい。
だけど羨んだところでどうしようもない。私はこの頭に棲みついた希死念慮という名の獣を飼い慣らしながら生きていくしかないのだ。うまくなだめ、機嫌を取り、小さく隅におさまっていてくれることを願うしかないのだ。いつかそいつに噛み殺される時が来るかもしれない。でもその時に「そんな事で」と言うのだけは、どうかやめてくれないだろうか。人の死にたい気持ちを否定するのは傲慢だ。押しつけだ。誰がどんな理由で死んだっていいし、だから、どんな理由で生きたっていいのだ。生きる理由が見つからないなら、「今日死なない理由」でもいい。今日は死ぬのはやめておこうって、そうやって先延ばしにしながらでも生きていられたらいいんだって、死にたい気持ちを肯定しながら共に生きていこう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?