雨の日に踏んだ物
その日の塾の帰り、ケンジはすっかり暗くなった道を自転車で急いでいた。ママが妹を出産して家に帰ってきたので、家族でお祝いをする予定になっていたからだ。
駅から家までは、自転車でわずか十分程の道のりだが、その辺りは古い住宅街で空き家も多く、普段からさみしい地区だった。
しかも街灯の間隔が広いので、夜はなおさら暗く陰気な道になっていた。
おまけに、その日は台風の影響で激しい雨が降っていて、カッパを着ていても雨のつぶてが顔をたたきつけ、まったく見通しのきかない夜だった。
突然、自転車のタイヤがグシャッと何かを踏んでバウンドした。ケンジはあわててブレーキを握り、急停車した。
小さい物ではなかったと思う。でも、石や空き缶みたいな固さでもなかった。犬か猫の死体でも踏んでしまったのだろうか。
ケンジは、恐る恐る後ろを振りかえってみた。だが、気になる辺りは、ちょうど街灯の光のとどかない暗がりで、よく見えなかった。雨がカッパを叩く音だけが、ケンジの耳を覆っていた。
でも、あの感触は気のせいではないだろう。じっと、街灯の灯りの落ちている先の暗闇に目を凝らしているうち、ふいに、全身の毛が逆立った。
暗がりの中で、たしかに今、何かがわずかに動いた。闇の向こうに、じっとこちらをうかがっている者がいる。
暗さに目が慣れてくると、おぼろげながら、姿形が見えてきた。それは、大型犬くらいの大きさで、地に這いつくばり、全神経をケンジに向けていた。みじろぎ一つせず、だが、頭から生えた二本の長い触角だけは、用心深げに、いやらしく上下左右に宙をさまよわせている。
ケンジの耳には、雨の音さえ消えてしまった。全身の筋肉が硬直し、ブレーキを握りしめた手も開かず、足でペダルを踏み込むことさえできなかった
そうするうちに、そいつは、ズズッズズッと街灯の光の中へ這い出してきた。そして、再び動きを止めて、触角をぐるぐると彷徨わせ、黒くて丸い両の複眼でケンジの姿をとらえ直した。
そいつは、さきほどケンジが自転車でひいたからなのか、背中の羽はひしゃげ、腹部の下半分もつぶれて中から黄色い液体がはみ出していた。しかも尻の先には、子どもなら一抱えもありそうな巨大な小豆のような物体をはみ出させていた。ケンジは、それを図鑑で見たことがあった。卵しょう、と言って、中に数十個の卵が入っており、ゴキブリは、それをどこかに産みつけるのだ。産み付ける場所は、当然、エサの近くか、場合によっては、生き物の体内であることもある。
ケンジは、何かを察して怖気立った。普通のゴキブリは、人間を見たら逃げるものだ。たとえ、これほど大きなやつでも、進化の過程で人間は敵だと学んでいるはずなのだ。
なのに、こいつはあえてこちらに向かってきた。少なくとも、ケンジを敵とは見ていない。もしかしたら、エサだと思っているのかもしれない。いや、それよりも、卵しょうを抱えているところからすると、ケンジに卵を産みつけようとしているのかもしれない。
と、そいつのするどいアゴが開いてだ液がこぼれ、茶色い羽の合わせ目がわずかに開いた。ケンジは咄嗟に背を向けた。そいつのひしゃげた四枚の羽が一気に開いた。
ケンジは、全速力で自転車をこぎ出した。
だが、巨大な体に傷を負っているとはいえ、ゴキブリの素早さは残っていた。あっという間にケンジに飛びつき、するどい爪でケンジの肩や頭をつかんできた。ケンジは自転車から転げ落ちたが、がむしゃらにふり払い、カッパを脱ぎ捨てると何とか逃げ延びた。
雨の中を泥だらけでただもう家の方角へ無我夢中で走った。しかし、家の近くまで来たところで、足を滑らせ転倒してしまった。思わず振り返ると、すぐ後ろで、つぶれた腹部とひしゃげた羽にも関わらず、母ゴキブリは、もう一度飛ぼうと必死の力で身構えているところだった。
ケンジは、慌てて立ちあがりかけたが、ゴキブリの方が早かった。六本の足の爪を手足や顔に突き立てられ、ケンジはパニックに陥り、わめきながら、それでも這って進んだ。
ようやく、家の門まで来た時、ケンジの声を聞きつけたパパとママが飛び出してきた。
「ケンジ!」
「ケンちゃん! どうしたの!」
だが、ケンジにのしかかる黒い巨大な昆虫を見て、両親は声を失った。ケンジはすでに腹を食い破られ、そいつは一生懸命、中に卵しょうを押し込んでいる最中だった。
終
※苦手な人、ごめんなさい。食事中の人も、ごめんなさい。特に、怖くもないし、面白くもなかったと言う人にも、ごめんなさい。いろいろ、ごめんなさい。ちょっと、自分が苦手な分野も手を出してみたかったのです。