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お昼を食べながら、老いについて

 何人かでお昼を食べていたときに、年をとることの悲しみについて、話が向かっていった。究極は死への恐れでしょうね、と年長の女性。そこに至る前に、これができる、この地位にいた、っていう能力やポジションで自分を支えていたのに、そういうのがなくなり、実際に視力も、聴力も、そういうのも衰えていって、拠るべきものを失う絶望感みたいなもの。若い人たちにはわからないよ。それでも、私たちだって、じきにわかると思うよ、と私。

 そうだよね、これができるのが私、ここで頼られているのが私、と思っているなら、そういう私が薄くなるわけだから。すごい喪失感だよね。

 年長の女性(アメリカ人)は、彼女の親戚で、若いころは活躍していたのに、老いてすっかりうちひしがれてしまった男性の話をした。カウンセリングに連れていくとかしないと。

 若いうちに、老いること、死ぬことの準備をしないとね。年をとってあわててからでは遅いかもね――その男性には気の毒だけど、おそらくそうだと思って、はっきり言った。

 夕方、図書室で本を眺めていたら、知人の若いころの写真が挟まれていた。たぶん彼が写真を挟んだまま寄付したんじゃないかと思う。少なくとも20年は前のもののようで、今はおっさんとなっている知人は写真の中で、ういういしく、一生懸命だった。たぶん20年後に自分はこんなことになっている、なんて思いもしていないはずだ。

 さらにまた20年後には、もっと多くを失っている――少なくとも肉体的には、おそらく社会的にも――だろう。その知人も、私も、大人になっているなら誰も彼も。そのときに残るもの、このために日々を積み重ねたいのだけど。


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