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悪魔みたいなこと

とりとめもなく毎日のことを書くと、本当にとりとめもなくなってしまうから、文字にすることは気がひける。でも書かないとそれはそれで忘れてしまう。

普段抑え込めている気持ちが、どんどんかたちになっていくことは「良くない」ことだと思っている。でも圧縮した気持ちは結局うまく取り込むことができなくて、とけずにずっと残っていたりもする。

だから少しだけ、残しておこうかな。


最近、息子(はーちゃん)の性格が、すこし変わった。

はーちゃんはいつもにこにこして、すこし引込み思案で、恥ずかしがり屋で、優しい。わたしのお願いも「いいよー」と聞いてくれるし、けんかをしても「さっきはごめんね。」と自分から謝ってくれる。わたしがうまく言葉にできなくてやきもきしているときに、ケロッと懐に入ってくる。月並みだけど誰の子だろうと思うくらい、本当に素敵なひとだとおもう。人間として別個体である以上、親であっても私は彼の人生の登場人物でしかない。だから、素敵なところは、本当に素敵だなと思う。

そんなはーちゃんの、心の土台というか、基盤みたいなものが、作られていく大事な3歳の1年。私は常にはーちゃんよりもわたしを優先して、こどものために時間をかけて生きることができなかった。いま時間を戻せたとしても、きっと同じようにしかできないと思うことにも、心をえぐられるし、そんな漠然とした後悔が重くのしかかっている。

焦り、不安、葛藤、疲労に、まるごと飲まれて、どれだけこどもの時間を搾取したんだろうと思う。取れそうなところから、取れるだけ取る。そんな悪魔みたいなこと、望んでいないのに、いつもそうしてきた。後悔しても、また翌日も、翌週も、翌月も、そうしてしまう。

もともとは「ある特殊な、ある瞬間の出来事」だったことでも、繰り返していくうちに習慣になって、簡単には切り崩せないほど、何層も何層も少しずつ堆積する。それは、わたしの中にも堆積し、同じようにはーちゃんの心にも堆積していく。そのことにうっすらと気付いたときから、その事実に向き合うことが怖くてたまらずに、無関心と不安をずっと行き来している。

こんなに大切な存在なのに、
自分の手で遠くに追いやってしまったような。
すぐに抱きしめることができるのに、
取り返しのつかない何かを、失ったような。

もしかしたらただ自然の摂理の通りに成長して、できることが増えただけかもしれない。表現できる気持ちのレパートリーが広がっただけかもしれない。他の人からみたら、本来は喜ばしいことなのかもしれない。

でもこのガラガラと重たい気持ちから、最近抜け出せずに、改まってなにか伝えようと思うと、咄嗟に「ごめんね」が出てしまう。勝手に、かわいそうだと思わないでよ、と言われるかもしれないけど。だからといって、毎日には為す術もない。


そんなことを思いながら、帰宅したときには夢のなか。
今日はどんな1日だったのかな。



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