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5分の雑談すら苦しい

 更衣室で着替えるとき、トイレで歯を磨くとき、休憩室からデスクまで向かうとき。そういうちょっとしたタイミングで5分くらいの雑談が発生することがある。それが、苦しい。

 私は両親にあまり関心を持たれずに育った。とりわけ母親の方が無関心だった。産んどいて興味ないって何やねんという話ではあるが、そういう人間もいるらしい。

 だから、「私の話なんて誰も興味を持ってくれない」という前提がこびりついている。そのスタンスでコミュニケーションをとってしまうから、苦しい。

 例えば、「連休は何をするの?」と聞かれ、「○○に靴を買い物に行くんですよ」と答えたら、「へぇ」と気のない返事をされたとき。すごくショックで、はしごを外された、と感じてしまう。

 やっぱり興味を持たれなかった。私の話に興味なんてあるはずがなかったのに、嬉しそうに答えてしまって恥ずかしい。でも、おかしな話はしてないのに、なんで? 悔しい、苦しい、悲しい。

 母親と何百回もしたコミュニケーションを、職場で再現してしまう。再現されたように、私の脳は錯覚してしまう。

「どうせ興味を持たれない」というフィルターを通して見ているから、「気のない返事をされた」と解釈してしまう。相手はそんなつもりじゃなかったかもしれないのに。もう少し話を続ければ、相手が乗ってこれるポイントがあったかもしれないのに。

 何もできないまま、私は話を引っ込めてしまう。そして、「どうせ自分の話がしたかっただけでしょ」と心の中で悪態をつきながら、「○○さんはどうですか?」と話を振る。復讐のつもりで、上手な相槌を打ってあげる。話を広げてあげる。あなたができないことを私はできるんですよ、と見せつける。
 当然、そんなの復讐にはならない。ただ相手が気持ちよく話して終わり。相手のことを、羨ましいと思う。そうして、雑談が終わる。

 コミュニケーションは苦しい。興味を持たれないのは苦しい。どうせこの人も母親と同じだ、と思ってしまうのが苦しい。

 一人だけ、私の話を興味津々で聞いてくれる人がいた。嬉しかった。色んな話をした。それでも、恋愛経験とか、お金の話とか、生々しい部分は明かさなかった。私にとって「普通」の範囲で、自己開示をした。

 なのに、「月のカード請求いくら?」と聞かれてしまった。ショックだった。そこまで踏み込まれたことが。気づかない間に、踏み込んでもいいと相手に思わせるようなことを自分がしてしまったのだろう。「お前のコミュニケーションは隠しすぎか明かしすぎの二択しかない」と言われてしまったようで、苦しかった。悲しかった。その人とは話すのをやめた。

 人は自分のフィルターを通した世界しか見ることができない。外すのは無理でも、自分が楽に生きられるフィルターに取り替えることはできる。その難しさも可能性も感じながら、仕事納めに向かう、年末。

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