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自戒と懺悔 亡くなった祖母へ

幼少より、両親は勤めに出ており同居していた母方の祖母と過ごす時間は多かったと思う。自分には3歳年上の兄がいたが祖母は自分より兄を可愛がっていた様に感じた。でもそれは別に自分を蔑ろにしているわけでもなく特段気になるような事でもなかった。

成人した頃の自分は、とにかく何もかもやる気が起きず一浪して挑んだ大学受験も全て失敗し、失望している両親をよそにすごく興味があるフリをしてある専門学校に入学させてもらう事にした。正直両親に訴えかけるほど興味もなかったが、周りが大学生や社会人になっていく中、自分が何者にもなっていないということが堪らなく苦痛だった。専門学校入学の年に父を病気で亡くしたがまたこれも違う懺悔があるので今回は割愛させていただく。

専門学校に入ったはいいものの、対して通わず卒業したと嘘を母親には報告したが、問題は就職の方だった。とりあえずバイトから正社員になれる求人を漁り、受けに行ったりもしたがなかなかうまく行かなかった。そもそも希望の職種などないのに名前だけは誰もが知っている企業にばかり学歴もないのに受けに行っていた。散々バイトの不採用をもらったが渋谷の某IT企業に受かりバイトとして働くことになった。正直その会社が何をしているかも大して調べずに面接に行ってよく受かったと今でも思う。今あの会社に応募しても書類で落とされるだろう。

そんなこんなで渋谷勤務のバイトが始まったのだが高校を卒業してから、何年も堕落した生活を送っていた自分は真っ当に会社にいけない(遅刻ばかり)ダメな人間であることを改めて自覚した。なんとかクビにならないギリギリで働いていたがいつクビになってもおかしくなかった。

渋谷への通勤は郊外に住んでいた自分には苦痛でしょうがなかった。毎日行きたくないと考え眠れなくなり朝方に意識が飛んで気づいたら…なんて事が多かった。

と、バイトでのストレスもあったがその頃の家の状況は母が働きに出て祖母は家にいる状態だった。父が亡くなる前くらいに祖母が脳梗塞になりその時には大きな後遺症はなかったものの、それから緩やかに認知症が始まっていた。自分がバイトしていた頃には火を扱うことは任せられないし頼んだことは忘れる、排泄を汚す、など色々な事があった。バイトに遅刻する、仕事は覚える事が多く勝手にストレスを溜め込み祖母に当たるようになった。頭を叩いたり、手を叩いたり。家の状況、とりわけお金が厳しかった時期でもあったことで母も同様に祖母に当たっていた。お互いが祖母に当たるのを見ると止めたりもしていたが一人一人の時は違ったと思う。

そんな祖母が転んで怪我をして入院することになった。祖母に当たる母の怒鳴り声なども相まって近所からは虐待だったのではと多分通報があったのだと思う。その頃祖母はデイサービスを利用していたのでそういった声が施設側に伝わり、退院後に家には戻せないと言われた。兄はその時家から出ており介護士をしていたが、自分や母には何も言わずに施設の人と話し、そういった事を淡々と伝えてきた。今になってわかるが兄は自分たちが虐待していたと思っていたのだろう。施設を色々探してなんとか誰かが通える距離で見つけてきてくれた。ただ個室しか空きがなく年金では足が出るということで自分と母で負担して払っていった。母はその事も気にくわないのか退院してからの祖母に会おうとしなかった。服などを持ち帰って洗濯しなくてはならなかったので週に最低一度は誰かが行かなくてはならない。その役はその後3年間自分がすることになった。施設に入所してから1年後くらいから母も少しずつ顔を出すことはあったが基本的には自分が行くことがほとんどだった。自分が虐待したからこんな事になったのだと思ったが毎週必ず行くこの用事は苦痛とまではいかないが煩わしさを感じていた。何よりその3年間で兄が行っているところも見たことないし頼んでも断られていた。次第に自分も顔を出しても持ってきた洗濯物をいれ、新しく出た汚れ物を回収し、部屋を掃除して大して話もせずに帰る様になっていった。

3年ほど経った時に、母からもう洗濯も施設にお願いしようと提案された。自分は週一の煩わしさから解放されるのであればと賛成したが急に行かなくて良くなってしまったが為か全く顔を出さなくなっていった。その3年の間に兄は同じ介護職の人と結婚して子供が出来た。子供が自分で歩ける様になる頃には兄は祖母のところによく連れていっていたらしい。もう祖母もひ孫のことを覚えた頃に一緒に行こうと言われてその時に知った。なんかいいとこ取りみたいだなと思った。その後は母も含めた家族で行く時のみ祖母に会いに行くようにしたが年々回数は減っていき正月に一時帰宅するのを迎えにいくことも煩わしく感じた。

そうして自分が35歳になる頃、仕事はあれからなんとか正社員にしてもらいその後に異動になった部署がたまたま自分に向いている部署で大きな成果も上げたりもしたが結局若い頃の遅刻癖も治らず成果を上げているという傲りもあり、閑職への異動を言い渡されたころだった。その時にはもうほとんど祖母に会いに行くこともして行かなかったが兄や母は行っていたらしく、「最近特に認知症が進んでいる」、「もうあんたの顔見てもわからないかも」などという話を聞いて何故か怖く感じた。

それから会いに行ったが、母の言う通り自分のことはほとんど覚えていかなかった。認知症が進んでいるのに会いにも行かないのにと思われるだろうが寂しく感じた。最後にあった時は家族全員誰のことかわからない様な困った顔をしていたのが印象的だった。それから程なくして祖母は亡くなった。94歳だった。周りからは大往生じゃないかと言われるが祖母は幸せだったのかな。少なくても施設に入ってからの10年、いや自分や母に虐待された時から考えたら12年ほどについては幸せではなかっただろう。自分がそう決めつけるのは間違いだが。祖母は祖父とは離婚している。だから自分が物心ついた時には祖父はいなかった。兄も可愛がってもらったが同様に自分も可愛がってもらっただろう。祖母が亡くなってもう3年近く経つが最近よく祖母が夢に出てくる。恨み言を言うとかそういうことではなく普通に。目を覚ましてしばらく祖母が亡くなっていることを忘れている時がある。最近特に思い出す。思い出して寝れない時が多くなってきた。あの時自分がした事で祖母の人生の余暇を潰したのは自分だ。ただ介護という言葉を見るたびに思うのは、自分の身内だから特にあんなにイライラするのだろう。正常な時を知っているから特に。他人だからじゃあできるかと言われたら自分にはまず無理なので、介護に携わる仕事をしてる人には頭が下がる思いだが。

これは自戒と懺悔を初めて文字にしたもので読めたものではないが、自分の人生はいろんな人を不幸にしてきたなと思い、また振り返ると自覚してしまう為振り返らない様にしていた自分への戒めの為に書いてみた。こうやって振り返って書いてみてまた祖母への悔恨が募ってくる。そういう気持ちを忘れずに生きていかなければと今は本当にそう思う。

機会があれば懺悔、今度は父の話も書きたいと思う。

もしこんな文章をここまで読んでくれた人がいたら感謝いたします。


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