ロストケア
前田哲監督作品、松山ケンイチ氏、長澤まさみ氏主演の「ロストケア」を観てきた。
2013年に刊行された葉真中顕氏の同名小説を映画化した今作。
原作はもともと、日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞しているほどのミステリー小説だったけれど、映画では脚本段階で大幅にアレンジが加えられ、人間ドラマとして大きな変化を遂げている。
現代日本の介護問題に大きく切り込んでいる映画の内容には(看護師という職業柄も相まって)予告の段階で気になっていて、ムビチケを購入してまで観に行くのを楽しみにしていた。
午後5時45分。
その日初めて行く、小さいながらもオシャレな映画館で鑑賞はスタートする。
あらすじ
目を背けたくなる残酷な世界
私はこの映画を見終わった後、いろんな感情が入り混じって、
それはそれはヘトヘトになってしまった。
平均寿命が男女ともに80歳を超えている長寿大国、日本。
それは喜ばしいことではあるけれど、どうしても切り離せないのが介護問題。
でもこれは普段生活しているだけじゃ、なかなか目にすることはない。
もし看護師をしていなかったら、私もこの介護問題について、どこ吹く風と言った感じで他人事のように思っていたかもしれない。
だってそれは目を背けたくなる残酷な世界だから。
映画の中で、ベッド周囲で排泄物が散乱してたり、認知症故の理解力低下によって心無い言葉を言い放たれたり、挙句理不尽な暴力を介護者側が受ける場面の描写がある。
私も仕事中、沢山の人の日常のお世話をさせていただいてる中で、同じような場面はよく見ている。
表面上では分からない家族の問題や、病気の恐ろしさ、日々何かを失っていく絶望、それすらも忘れていってしまう現状を側で見ている。
もちろんやりがいも感じているし、自分で選んだ仕事だし、後悔もしてない。
それでも正直言って、「お金がもらえてるし」「休みの日が確保されてるし」「終わりがあるから」頑張ることができている部分がある。
あと、自分の身内じゃないということも大きい。
敢えて言い方を選ばずに言うと、赤の他人だから仕事として割り切って淡々と業務を行うことが出来ている。
でもそれが自分の親だったら?
24時間、365日いつ終わりが来るかも分からず、自分の時間と体力を犠牲にすることは当たり前で、何か報酬があるわけでもない日々に、辛くないと言える人間はこの世に存在するのだろうか?
決して綺麗事だけでは解決出来ない世界があることを、もっと多くの人々は知らなければならない。
正義であり、悪である
劇中、最初に出てくる言葉は聖書の中のイエス様の言葉。
斯波は自分の父親の壮絶な介護を経験している。
そして、父の望みで彼は自分のその父親を殺害し、そこから41人ものお年寄りの命を奪っていった。
本来であれば大量殺人鬼であるはずの彼は、逮捕されてからずっと白いシャツを着ている。
一方彼を捜査していた大友は、スーツ姿で全身真っ黒。
一般的な感覚として、正義は白、悪は黒というイメージがある。
そのイメージと真反対の2人の見た目は、2人ともある意味では正義であり、悪であることを示しているのではないか?
殺人は決して許されないけど、斯波に母親を殺された羽村真紀は「救われた」と口にしている。
つまり彼女にとって、斯波は自分を自由に解き放ってくれた英雄だったというわけ。
そして大友は、検事として法のもと斯波を追い詰めていく。
この大友という人物は一個人ではなく、我々鑑賞者、ひいては日本という国家の代表として描かれているように思う。
綺麗事を擬人化したような彼女は、もちろん正義ではあるけれど、弱者の目には手を伸ばしても助けようとしない冷酷な悪者にも見える。
正義と悪は相対するものではなく、表裏一体であり、光の当て方の違いなだけかもしれない。
死は救済という考え
「僕を救ってください」
斯波が裁判で言っていたセリフ。
彼は人の命を奪うことで、彼らを救ってきたと思っている。
それが過ちがどうか一度置いておいて「死は救済となる」というその強い信念を、斯波は劇中ずっと貫いている。
だからこそ彼も死を求めている。
自分自身が救われるために。
大量の命を奪った彼に死刑が求刑されるのはおそらく妥当だけど、その判決は斯波がもっとも望むもの。
相容れないはずの世論と殺人鬼の希望が一致するとは、何と皮肉なことか。
感情の対比と表現が素晴らしい
今回主演の松山ケンイチ氏と、長澤まさみ氏の演技が為す感情の対比はがとても素晴らしく、2人とも流石の経験値だなと、映画を見ていて感じた。
まず、松山さん。
パンフレットでも語ってあったけど、斯波は大量殺人鬼であるにも関わらず、劇中終始穏やかなテンションで過ごしている。
大友に感情をぶつけられた時も、自分が死刑を求刑されるであろう法廷でも、彼は変わらないテンションを貫いていた。
彼が感情を爆発させたのは、自分の父親を殺害した時だ。
そこからのテンションはずっと一定。
松山さんはこの映画の立ち上げ当初から携わっていて、この映画にかける思いはかなり熱いものだったと思うけど、劇中ではむしろ冷静さを常に感じる。
その集中力と、穏やかなテンションを貫く根性を持ちながら演技をする姿は流石だ。
そして、長澤さん。
彼女が演じた大友は斯波と違って、だんだんと感情的になっていく。
激昂しながら正義を貫こうとするけれど、斯波の考えに揺らぎ、最後には自分の家族のことを話すにまで至る心境の変化を、綺麗なグラデーションとして演じられている。
きっとこれは、長澤さんがこれまでいろんな役を演じた上での膨大な経験値が成せる技であり、その凛とした立ち姿はやはり美しい。
この2人の演技とテンションの対比が、見ていてより鑑賞者の没入感を高める。
この重たい内容の映画を、2時間超ちゃんと集中して見ることが出来たのは、監督や脚本家の力量はもちろんだけど、この2人の演技力の貢献度も高いはずだ。
最後に
この映画を見て真っ先に思い浮かんだのが、2006年に京都の伏見で起きた介護殺人事件。
54歳の男性が、認知症の母親の首を絞め殺害した後、自分も死のうとした事件。
加害者男性が犯行に及ぶ前、河川敷で母親に「もう生きられへんのやで」と話したという記事を読んだ時、文字情報だけにも関わらず私は涙をボロボロ流した。
今現在、介護は様々な問題を抱えている。
本作はその一面ではあるが、私たちがきちんと向き合わなければならない世界をリアルに描いてある。
何かから逃げ出したいと思っている貴方は、是非見てみてほしい。
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