見出し画像

血パンダはどうやって演劇を作っているか その5. 無駄な間の排除と体の動き

懸命な熱演であるにも関わらず妙にダルい、いろいろ頑張ってみたけれど、どうしても上演時間が縮まらず、では、もっと早口でやるのか、テンポをどうするのかという壁に当たったことはあるでしょうか。
という書き出しで始めてはみたものの、踊れる踊れないに関わらず、役者の無駄な一歩や、振り返った時に改めて数歩かけて立ち直すという仕草は、そこかしこで見られる現象で、血パンダではこれを徹底して排除します。
多くの役者は、体の動きの初めや終わりと連動してセリフを言うので、セリフとセリフを順序よくやりとりする方式で演劇をやっていると、セリフとセリフの間に、適切な間なのかなんなのかわからない、コントロール不能の隙間を目撃することがままあります。
これをとにかく取り除くわけです。簡単な話しで、このひとつひとつが1秒に満たないものでも、セリフの前後に100回あれば80秒ほどになるわけですし、ここに配慮がなければ、積み重ねて3分程度の無駄というのは、案外簡単に生じます。

再び体の向きと、二つの禁止事項

前回の向きや距離と語調の回では割愛しましたが実は血パンダでは、台本を持ったままうろうろしている段階で、会話の相手に対して自分がどんな向きになっているかを意識する様にしています。

・相手に向かって正面で相対している。
・なんとなく相手の方向に体が向いている。
・なんとなく相手と逆の方向に体が向いている。
・相手に背中を向けている。

演者は大まかに、この四つの方向のどれかの状態の筈ですが、基本的に、何かに反応して顔だけを向けたり体を捻ることを禁止します。
見る、視線をやるなどの反応がしたくば確実にその体の向きのまま反応した風に見える素振りをする。完全に向きを変えてしっかりと相対したり、背中を見せる動作の必要があると判断した場合は、明確に向きを変える様にします。
そして、向きを変える時は必ず一歩でそれを完了する様にし、向きを変えてからの立ち方の微調整を禁じます。
基本的に、鍛えられてもいない、踊れもしない体を前提に、どう見えるかを重視して演劇を組み立てていく場合、体をねじる動作は曖昧なノイズにしかなりません。
自分がイメージしているのとぴったり同じ様に喋れる人間が少ないのと同じ様に、自分が考えているのとぴったり同じ様に動ける人間も少ないのです。

面白いもので、体の向きが相手の方を向いていれば、視界に入れるほど体をねじらなくても、少し相手側に顔を動かすだけで「見た」に近い意味が伝わります。喋りでは禁じていた演劇的な先入観に近いものかとは思いますが、「見た」「見ようと」したと見て取れる動きと、実際に視界に入れたかどうかは、あまり関係がありません。

体を捻る時、向きを変えて立ち直す時が、演者に隙が生じる瞬間で、この動作をしながら全く時間を滞らせずに演技をする人は少ないのですが、実は、踊れる人間というか、そこそこ舞踏、舞踊の経験があって、体の向きや足の動きと発声のタイミングが独立している演者には、禁止事項を、無駄が生じない場合があります。
結局は、何処まで体の動きと、発声や、どう見えるかをバラバラに制御できれば、いろいろ自由自在になるわけですが、なかなかそうもいかないということです。

乱暴ですが、ポイントは三つ。
・中途半端に体を捻らない。
・方向転換は一歩で。
・実際に見なくても見た風に見える。

見る見ないに関しては、正直なところその動作が必須かというレベルで吟味して然るべきだと考えます。
あと、方向転換を一歩で完了するとして、180度の回転が可能なのかといえば、それはほぼ不可能です。しかし、180度の方向転換が必要不可欠となる場合も、ほぼ皆無であるということは、妥当な見え方を探る試行錯誤の中で確認できるものと思います。
回れ右的な動きや軸足の事は忘れて、何か平面的な体のイメージを捨てて、二本の足の根本も案外離れていることを確認して、最低限成立する方向を変えた動作というものの感覚が得られれば、これまでの無駄な動きというのは、案外簡単に確認できる筈。

さて、稽古は続きます。待て、次回!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?