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血パンダはどうやって演劇を作っているか その4. 向きや距離と語調

さて、なんとなく声も出してみたわけですが、それだけではまだ演劇になりません。
座ったままで個々のセリフの言い方、喋り方やら、タイミングを模索してみる作業は、最低限の輪郭を掴む程度のもので、よほどこの段階でどうにかして欲しいことが発見されれば別ですが、基本的にはどの役者がどの役を演じるかを固定しないで稽古を進めるので、早々に、台本を持っていたとしても、うろうろしながら喋ってみる稽古に入ります。

先のその3. 発話でも触れましたが、なんにしてもセリフ単位で言い方やニュアンスを決め込んでいくのはアニメーションや吹き替え映画のやり方で、ごく小さな会場で行われる演劇では、必ずしもこの方法を採用する必要は無いと考えています。血パンダでは採用しません。

どう見せるかではなく、どう見えるか

基本的に利用する劇場の規模が小さい場合、演者の気配や息遣い、間近でセリフがやりとりされている事実の持つ情報量というのは案外多く、客席に何かを届けるのではなく、見て取れる何かから妄想を逞しくしてもらう。という方法でも、空間は成立し演劇が発生します。
この状態で「舞台から客席に何かを届ける演劇」ではなく「客席に舞台上の何かを見て取らせる演劇」の空間を継続していく方法の模索のためにすべきことは、登場する役者同士が、互いの距離や向いている方向を把握して、こんな位置関係の人とは、どんな風に意思を伝えるのが適切だろうかという、様々なパターンを炙り出してみることです。

狭い場所では、否応無く多くが見て取れるので、それらしい身振りやセリフで何かを伝えるのではなく、どう見て取れるか。それは適切か。ということをひたすら模索してみるわけです。
ここで喋り方を工夫して伝わる意味を限定してしまうと、推測できる思考と感情の幅が狭くなり、結果的に客席ではリラックスしてその流れに身を任せることができますが、血パンダで流れる時間は、見えたものをどう受け止めるかはその人次第ということが可能になる余白を残すことだけに意識を向けて、演者間の距離の可能性を掴んでいきます。この時、舞台の正面、客席の位置については考慮しません。
結果的に客席では、ただ演劇を見ているというよりは、誰かの日常を覗き見しているのと似た印象も覚えることになります。

とにかく、その思考の流れで会話の相手と会話を交わすとなると、どんな風に切り出すのが適切か、どんな風に聞くのが適切か、様々なパターンを模索します。
ここで重要なのは、セリフが順序よく応酬されていく様子を作るのではなく、思考と思考がぶつかり合っている様に見える妥当さを見出していく様に配慮するということです。
案外、自分がそうやっているつもりもないのに、意図していない印象で喋っているということはよくあることです。この時点で、「自分はこんなつもり」と「傍からはこう見える」の整合性を探っていきます。
「どう考えている様に見えるか」を優先するために、相手のセリフが終わったら自分の演技をするというテンポではなく、言葉に反応して何らかの態度や言葉を重ねていくという流れになるため、通常の演劇に比べると、会話のテンポは少しだけ速くなり、演劇でよく見られる様な抑揚に乏しいため、棒読みと評される場合もあります。

この段階で、もうひとつ気を付けることがあります。
無駄な動きの排除による、細かな時間の短縮です。
例えば向きを変えて立ち直す余分な一歩などで生じる、無駄な一瞬の排除を心がけていきます。この件、次回!

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