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君に踏み込む気が無くても

福井で、高校演劇が一本、無かったことにされた。
台本を読んでみたが、小気味よく田舎の空気感を出した高校生には丁度いい感じかもしれないという内容で、福井のご当地ネタとして福井地震や原発に踏み込んでいる。

無かったことになった主な理由が、結構ストレートに原発だったが、台本の方は巧妙に事実だけを踏まえている手つきの良さだし、無かったことにする側も、もうちょっとなんか言い訳考えたまえよと思ったが、この、別のことに気を取られて、表現の自由とか、大き過ぎるお題目についてすっかり忘れているかもしれない様子には、既視感がある。

この投稿のサムネイルになっている、先日行った劇団の公演に際して、地元の市役所に後援をお願いに行った時に「劇団の政治的宗教的な中立性」について問われた。
別の企画で別の課を通じて市の助成金を利用しようかと試みた時も、こんな風に聞かれたものだが、それと同じロジックだった。

補助金を出すにあたって、政治的・宗教的な中立性に難があると良くないという考えかと思います。

行政として、特定の党派、特定の宗派に対して補助を出すという形になるのを避けたいということであれば、「この補助事業はそういったものを助成しないのでよろしくね」だったり、「市として後援を出す時に、党派性のある政治活動や、宗派の宗教活動を、市として後援することはないから、よろしくね。立場的に、そこには触らないことにしてるので「後援」とかもできないよ」と、そんな風に宣言しておけば良いだけだろう市役所よ。

それをせずに、こちらの思想信条について難があるのではと思ったら、黙って自分たちで裏を取りたまえということだし、『政治的・宗教的な中立性』という風に問われると、俺は浄土真宗大谷派の門徒で、上演作品の最後のセリフは、

「ここになら、死人が蘇る魔法もきっとある」

ときたもんだ。魔法ですよ。
役者の中には和菓子職人をやってる人間も居て、葬式のお供えものやら、鏡餅も作っている。何を以って中立と言うべきか、ふと立ち止まってしまうわけ。
なんて、そこは実際のところ、真面目に考えるみたいな取り方をする方がコメディのタネを逃さないものの見方で、何の気なく聞かれただけのことを、大袈裟にしているのだ。こっちが。莫迦はこっちだ。
そこまでぐるぐるしてしまって、役所の窓口の若者に軽く苛立ちをぶつけても、彼らがそもそも、特にこちらの思想信条に踏み込んでどうこうという事を考えていないことが容易に見て取れる。ただのディスコミュニケーションだ。
なので余計に問題を感じたわけだ。こうも考えずにやっているからこそ、もっと踏み込んでくる時にも考えない可能性はある。

これまではずっと自主上演でやってきたし、これからもそのつもりだが、実際のところ、あまり深く考えずに役所と接触してみたら、窓口の意識の無さが結構な様子だったので、びっくりしたということだ。人の理性は信用しておきたくはあるけれど、役所は組織だ。

じゃぁ、行政に関わるなよというご意見もあるだろう。
こちらもアホらしいし距離を取っておくことにすると、彼らにとっては無いも同じになってしまう。これもちょっと問題だと感じるくらいのレベルの低さだ。レベル低すぎて、何かあったらかえって面倒にならないか。
つまり、今はまだ、表現の自由や思想信条の自由が、ただギャースカ言っておくだけで良さそうだけど、これが後退した時に何かするのは、とにかく余計にエネルギーが必要になる。香港見た?日本は中国じゃないにしても、権力ってのは、概ね圧力を持ってるんだ。

さて、こちらの状況はこうという長い説明から、福井の様子をみてとる方に戻ると、福井は役所じゃなくて、ケーブルテレビと高校演劇の面倒を見る組織が、スポンサーとの関係上こりゃまずいやと考えてやったこと。
諸々の関係の中で、取り仕切る演劇部の活動よりも、組織にお金くれる方を優先したものだ。
上演はオッケーだったけれども「おまえらの作品、スポンサーのご機嫌考えたら不味いから無かったことにします」ってのは、放送や文化系部活動に関わる大人が作品を無かったことにする態度として、あっけらかんと爽やかすぎる。だからこそ、下手をすると本当に字になっていることの他は考えていないし、表現の自由に踏み込んだ意識も無い可能性について、気をつけておきたい。
差別用語の使用についても、台本を読めば間違いなく「差別はいかん。けど、作品の扱い方として差別する意図、文脈では差別用語は使われていない」というのが、通常の読解力だという扱いになっている。微妙な線上でもなんでもなかった。皆さんにも『明日のハナコ』台本を読んでみて欲しい。

詰まるところ、ここまでの日本の環境が変に良かったせいで、いろいろ形骸化してやばいことになっているというのが、そのまま出ている様に見えてドキドキするわけです。
演劇やったらアカになるとか、高校の演劇部の顧問の先生にも、アカ寄りの人が居た頃の影響で、なんとなく保たれてきていたものが、今、どんどんなくなってきつつある。活動家が死滅しつつあるから、なにはともあれ表現に関わっている人間が我がことにして声を出していかないと、何があるかわからんくらいのところまで来てると、少なくとも、私の見える範囲ではあるものの、そんな空気感を感じております。活動家が居ないから、こっちは演劇やりたいだけだけど、こういった主張も自分らでやらなきゃダメな世の中になり始めているということだ。担い手が居なくなって誰もケアしなくなったので、都合と空気の蔓延が始まっているぞ。

あと、当事者としての高校生はどうしてるんだとか、そんな声も少し見かけますけど、これを受けての高校生の活動には私も大いに期待する。事情さえ許せば積極的にそそのかしたいくらいのもんですが、なんせ、部活動ですよ。普段の学校生活もある未成年が、必要以上に複雑な状況に置かれているわけで、そこに何を期待するのかと、なにかあれば拍手喝采するし、応援もするけれども、それは表現する者としてのこと。この圧力に対して高校生がなんかすることだけが本筋かといえば、むしろ規制側の大人の感覚の問題が大きいわけで、そちらをとにかくなんとかすべきと考えます。
同じことされたら大人でも面倒臭くて心折れる可能性は高いケースに見えるので、とりあえず、こいつは不味いなと感じて何かできそうなガヤの大人として、できそうなことをやっていきたい。

とりあえず、『明日のハナコ』近所で上演する動きには協力するし、上演企てます。ここは富山県だ。
表現の自由ってのは、萌え絵の中に含まれた消費可能なエロ記号の有無についてだけじゃないんだと、少しでもいいので世間に知らしめておかないと、芸術活動としての演劇なんて、「見たことない」「興味ない」「お笑いやればいいのに」って具合で、存在自体すぐに無かったことにされるわけです。

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