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その9. ライブ感を保持する

演劇の何がいいのか。それを演劇でなんとかしようと考えた動機は何か、演じてみようと思った、台本を書いて、演出してみて実現したかったことは何かという初期衝動の様なものがあるとして、それはどこに向かっていくものでしょうか。
乱暴な言い方で簡単にするとしたら、何故演劇をやるのかという問いになりますが、演劇でしかできない事というのは在る筈で、それは、観客となって演劇を見る人たちにどんな体験をしてもらうかということでもあります。
整理しなければならないのは、作る側の意図ではなく、結果としてどんな体験をしてもらうかという点です。

血パンダでは、『その1-1.台本』で触れた様に、「ある日、日常を過ごしていて、「演劇を見たのか、実際そんな目にあったのか、夢を見たのかが曖昧で気色悪い」そんな風にお客さんの心に入り込んでいけること」、そんな体験を提供するために演劇を作っていくことを主眼に置いて稽古を重ねます。

90年前後の岩松了の作品、関西での「静かな演劇」の流れで、演技の熱量は必ずしも不要であるということを確認しました。
とはいえ、ドラマチックなものはどこにあるのかを追求するあまり、とにかくカタルシスを作っていくことだけを考えた物語と、それを演劇に仕立てるという行為がそこかしこで繰り返されます。
熱量の差を見ているうちに、果たして本当にこの山を作って登る様な作業が必要だろうかという疑問が生じたわけです。

結論から言ってしまえば、個人的にはカタルシスを求めて、わかっていて背負い投げを食らいに行く様な体験をするのも良いのですが、その実現のために、とにかく熱量の加減を模索し、自分たちの意図通りに時間を追える様にするだけが、演劇作りではないと考えたものであります。
意外にも方法はある。

ライブとしての空気感

他所の劇作家や演出家がどうするかはともかく、私個人としては、台本の段階から、とにかく登場したが最後、登場人物は人前では思考が途切れない様にして欲しいと願い、そうしやすい様に台本も書いています。『その3. 発話』でも触れましたが、結果として、ニュアンスさえ外さなければ、一言一句言い違えない様にという要求はしません。
ただし、「やらないこと」「考えそうにない思考の流れ」として見て取れる場合や、何か意図したことと完全に外れて新たな流れを生まない場合、見ていて退屈だと感じたら、それを排除していきます。
自分が言いやすい様にセリフを変更したとして、その結果相手の反応も変わるため、想定していたのとは違う対処を余儀なくされる場合もあるわけです。
登場人物は、互いのかみ合わせの中で、予め予定された役割、セリフを持っているので、どんなに対等であれと舞台上で気配を発して食うか食われるかをやっていても、完全に公平な力関係を持てるわけがありません。
そこでとにかく、互いに了解できるかみ合わせを増やしていくこと、台本を基本にして、どの様なニュアンスを出していけるのか、できることの幅、互いの手の内を明かしていき、互いの出方について見極めることを重ねていきます。
結果的にはセリフ通りにしていく方が楽なのでは?と台本書きの視点からはそんな風に思いながら稽古を重ねていきますが、可能性は可能性として残していきます。

そうして、舞台上の時間からは「誰かの行為をきっかけに動く」様子が消え、「誰かの行為をきっかけに何かを考えた様に動く」様子の連続になっていくことを目指します。
稽古で繰り返すのは、同じことを繰り返せる様になることではなく、互いの呼吸を読み合える様になることです。

一言一句の言い違いには寛容ですが、全くセリフに無い言葉の付け足しは認めません。
セリフを手がかりに「何を考えているか」が構築できていれば、セリフが抜けても、つぎはぎで切り抜けやすくなりますが、これまで、どんなに役者が役に馴染もうが、台本に言葉として現れなかった語彙が舞台上に現れてバランスが良かったことはありません。
ひょっとしたら、これもいつか稽古のテーマになることはあるかもしれませんが、今のところ、『その1-2』でも触れた雑談の再構成を超えて予定していなかった語彙が舞台上のやり取りの中でバランスを保って存在する瞬間を見たことが無いので、試みとして取り掛かるのはまだ先のことでしょう。
互いの存在の土台となる台本を外して対峙するのであれば、ほんの一瞬のことであっても、それ専用の呼吸を互いに知る必要があるのではないかと予想します。

演劇の特徴として、「生身の人間が台本を立ち上げている様子を、その場で見る」ということがあります。
この特徴を最大限に引き出すのであれば、空気の生感をどうやって出していくのか。また、ベケット以降「待つ」という受動的な行為でも演劇が成立すると発見され、静かな演劇で日常的な熱量の行為でも演劇になり得ると発見された以上は、その方法を模索していきたいと考えるものであります。
強い問題提起や極端な非日常感、激情などの衝撃を用いて客席の体勢を力づくで崩す方法では、爽快感は提供できるかもしれませんが、いちいちすっきりして忘れ去られる可能性もあるので、とにかく体験として見た人に浸透していきたい。
そのためには、ライブの「生」の特性を定義して利用していくのが効率が良いだろうと考えました。小さな会場で上演する以上、どこまでも緻密に見える空気感を求めていけるということも、この選択を押し進める理由になりました。

狭い空間で演劇を直に見ていると、ただひたすら互いの呼吸を読み合っている時間を、別の何かをしているかの様に見せることができます。それが、その時間の流れに何らかののフィクションが乗っていることの利点で、これが血パンダの演劇の出発点です。
こうして出来上がっていく血パンダの作品の印象は、「着地点の無さ」「とにかくもやっとすること」。何か一連のできごとの途中からをわけもわからず覗き見させられて、何かの区切りで放り出される感触というのが特徴になります。
同じ作品を何度見ても微妙に違うニュアンスを受け取ることになるのは、筋書きに慣れて余裕が出るからということもあるかとは思いますが、同じ様に繰り返すための稽古をしていないし、同じ様に繰り返さないからということでもあります。

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