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「しあわせのかおり」3月6日前口上

ここまで前口上はずっと、理解とは何かと考え続けているということで書いていました。
いっそ話題を変えてと思いもしましたが、引き続き、理解についてあれこと考えたことを、つらつらと書いていこうと思います。
父の従妹なのに歳下という親類が居るんですが、相変わらずちょこちょこと寄っていくのと、なんやかんやで話が合うもので、ちょっとの時間の雑談でも会話が弾みます。

歳下のおばは、読書をあまりしないまま大人になったと言いますが、なんだかんだで小説も漫画も映画も、普通以上になんらかの感想を聞かせてくれます。
それを聞いていて、こうした感受性というのは、一体どうやって醸成されるのかとても不思議に思うのですが、日常生活の中で使う語彙の数にも関係するのかと考えたりもしています。
語彙を増やすということならば、本を読むのが早道でしょうし物語に慣れ親しむことで、自分の心や相手の心の理解にも幅が生まれるだろうと単純に考えていましたが、ふと自分を振り返ってみると、今で言えば厨二なものを好んでいた時期もありましたし、これに関しては、どんな言葉をどの程度使う様になればクリアなのかもわかりません。
生活の中で言葉を使う局面や、どんな場合にどんな心持ちになるのが良さそうかということは、なんだかんだで順次学習していくのだと考えると、環境、言葉、心が密接に結びついた結果、どこかに転がっていく様にも思えます。特に、心というのは、どうやって育っていくものでしょうか。

娘を文学少女に仕立てようとして、様々な本を読ませてみたところ、まんまといい感じに仕上がってはいるのですが、自分で本を選ぶ年頃になっていくと、この先どうなるのかは制御が効きません。厨二方向に行ったきり、二度と文学少女としての姿を見なくなる可能性もあるわけです。
おばは既に大人なので、ここから大きく物語に対する感受性を鈍麻させていく様なことはない様に思います。文学少女ならば、物語に対する感受性もそれなりに持ち合わせるだろうという予測で娘に本を供給し続けていたわけですが、目の前に、特にそういう経験を経なくても、十分に考えて読み込む人間が居るわけです。
何かを判断するには少ないサンプル数ですし、何か法則めいたものを見つけたからといって、何かがどうにかできるというものでもないのですが、単純で法則化されたものしか受容しなかったり、皆が喜んでいるものを自分も楽しんでいることに安心感を覚えるといった、受け止める個の弱さについて全く考慮しない向きには徹底して抵抗したいところなわけです。

ただの直観ですが、物語に対する感受性の豊かさ深さといったものが、適度なユーモアを忘れずに日常を過ごすことと結びついた時に、人は、一目見てわからないものを理解しようとするにあたって、過剰に用心深くなったり、拒否感を先に立たせてそれにあたったりはしなくなるのではないかと、そんな風に見てとった次第。

ここからの考察はいくらでも続けられますが、ひとまず、オ・マエストのお料理をお楽しみください。
そうこうしているうちに、お芝居が始まります。

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