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第15話 犯罪者を叩く人間はほんとうに犯罪を憎んでいるのか。

刑事裁判報道で、被告を執拗に叩いたり、刑の軽さを問題にしたり、とりわけ無罪判決を批判する人は、犯罪者に対する憎悪からであろう。また、被害者の無念をおもんばかるためであろう。

犯罪および犯罪者を憎む心は、私も同じだ、いや、わたしは、彼らの誰よりも犯罪を憎む心を持っていると言い切れる。

ただ、ほんとうに犯罪を憎むなら、もっと別のところを問題にするべきだろう。日本は、変死に対する司法解剖率が非常に低いので、犯罪見逃し大国と言われている。殺人事件だけに限ってみても、いったいどれだけの犯罪が見逃されてきたことか。

多くは、単なる失踪、自殺、病死扱いにされ、事件とは認識されず、この世から葬り去られている。よく保険金殺人など起こると、10年前にも容疑者の周辺で不審な死があったなど報道されることがよくあるが、これこそ、多くの犯罪が見過ごされてきた証拠である。

どうみても自殺とは見えない殺人事件が警察の怠慢によって自殺扱いにされた例もいくつか存在する。

その隠れた殺人事件の件数は実際どれだけあるのか。これは推測でしか言えないが、明らかになった事件の最低でも2倍はあるのではないか。もしかしたら、もっと。

実際に人を殺して、捕まるのは、ほとんどが素人であろう。プロのなれた手で殺人が行われれば、ほとんどが捕まらないだろう。だから、凶悪犯は凶悪になるのである。生まれた時から凶悪な人間はいない。犯罪を重ねて、凶悪になるのである。

日本では司法解剖率が低い。担当の刑事が事件性なしと判断すれば、それで、完全犯罪成立である。担当の刑事は医者でもなければ専門家でもない。

これこそ、被害者にとって無念ではないだろうか。殺された上に、事件にもならない。そんなことがごまんとある。ほんとうに犯罪を憎むなら、このことを一番に問題にするべきだ。たとえ、無罪判決が出ても、裁判にかけられただけマシだ。

凡人は、見える問題だけにギャーギャー騒ぐ。賢い人間は見えない問題にこそ、問題の本質を見る。

冤罪も見えない問題である。明らかになる冤罪はごくわずかである。その何百倍、何千倍と冤罪が存在する。毎日、毎日、今日も冤罪が発生し、善良な人間の人生が台無しにされる。そして、無実の人間が死刑執行されている。

その遠因が、事件報道でいちいちギャーギャー騒ぐ人たちであることに誰も気づいていない。



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