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第21話 批判だけの左派批評家は日本の司法を変えられない。

日頃、政治批判を繰り返しているいわゆる左派批評家は、いちおうは日本の司法を批判はしている。

しかし、彼らが本気で、日本の司法の問題を分析し、どこに問題があるかを明らかにし、そして、どのようにそれを変えていくのかを考えているか疑問である。

彼らは、権力に対して、批判できるものは何でも批判し、その一環として司法を批判しているだけではないのか。

その証拠に、彼らが日本の司法を批判するのは、冤罪など事件が発生したときだけである。常に批判しているわけではない。

またその批判も、単に警察や検察、裁判官の倫理に訴えるだけで、システムの根本問題までに踏み込んではいない。さらには、どのように日本の司法システムを変えていくのか、そこまで考えてる左派批評家はほとんどいない。

私が、思うに、日本の司法改革を妨害しているのは、日本の法務行政を牛耳ってる検察という組織である。であるから、政治が検察に対して人事権を行使するしか、その道はないように思う。しかし、左派批評家は検察以上に政治権力を批判しているので、その人事権を認めず、ここで話が終わってしまう。

検察に対する人事権以外で変える方法があるなら、教えてほしい。しかし、彼らはその答えを一切持っていない。

元検事で今は弁護士の郷原信郎氏は検察や政治権力批判で有名である。氏の検察批判は過酷である。検察を「権力やくざ」、「権力やくざを通り超して単なるゴロツキ」とまで批判しているのである。

ところが、検察庁法改正では、その巨大な権力が安倍政権に取り込まれてしまうのは恐ろしいことだからという理由で反対している。

そんな権力やくざのゴロツキ集団を完全な独立集団にしていいのか。誰がコントロールするのか? 政治以外にはないだろう。

そもそも、検察への人事介入を批判している人たちは、安倍政権しか眼中にない。国の仕組みを論ずるのに、なぜ一政権しか見ないのか。その人事権を正しく使う政権を我々が選べばいいだけではないか。

もっとも郷原氏は、検察が独立であることには疑問があると自ら言っている。しかし、では誰がコントロールするのかという次の段階になると、政治権力を批判しているから、話が続かなくなり、言葉を濁してしまう。

私は、郷原氏のことは尊敬しているし、氏の本も持っている。しかし、何でもかんでも批判するため、完全に自己矛盾に陥ってしまい。批判だけで、ではどうするかの話に進まない。

郷原氏だけではない、他の多くの左派批評家たちも、同じ自己矛盾に陥っている。彼らに司法改革の原動力を求めるのは無理である。






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