ともあれ今日も母はお元気なので良いのだけど 90歳近い人と毎日とことん会話すると相手が疲れるのだろうなと 今宵はGoogle earthでもともと暮らした場所を見てわずかに残る知り合いの家も見たので、それから先はその後数十年の経緯を知る自分が覚えてる限りのことを伝えたがやはり一度見てみたいと まぁそうだろうな 息子が現地の変化を証言してみせたよなもんだから。 なのでいずれ近いうちに望みは叶えるにせよ、それでも落ち込んだり世を儚んだりしないだけのことはしてやらないと。 親孝行や
インビクタス 私を覆う漆黒の闇 鉄格子にひそむ奈落の闇 私は あらゆる神に感謝する 我が魂が征服されぬことを 無惨な状況においてさえ 私は ひるみも叫びもしなかった 運命に打ちのめされ 血を流しても 決して屈服しない 激しい怒りと涙の彼方に 恐ろしい死が浮かび上がる だが 長きにわたる 脅しを受けてなお 私は何ひとつ 恐れはしない 門が いかに狭かろうと いかなる罰に苦しめられようと 私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官 INV
2011年3月14日、会社人生で一番長かった原発事故の日の夜。 「廃炉にするまで40年」とTVの報道で聞いたとき「見届けるのは無理か。今の若い世代に託すしかないなあ」と夫婦で話した。とはいえ地縁も血縁も無い福島の地にどう関わるのか。何のアイデアも無かった。そもそも行ったことすらなかった。それでも人ごとだと思わなかった。 まず福島県出身の同僚と「東北全体の復興を、いや日本への風評被害を防ぐために海外への情報発信で支援しよう」と有志で動き始めた。その縁で南三陸で支援活動
初めて中国に行ったのは胡耀邦の時代 彼が居なければそんな頃に日本の大学生が旅を出来たかどうかもわからないので感謝している 上海のホテルでのこと。友だちと二人で泊まった日本人学生だらけのドミトリーに何故か南京の若い建設担当の役人2名が居て知り合う 彼らと話してるときにドヤドヤとドヤ顔で帰ってきた当時のエリート学生たちの、中国人は馬鹿だねぇとばかりのさんざん悪口の振る舞いに怒り心頭。ボケ!お前ら何を日本の価値観でモノ言うとんねん!とどやしつけた。シーンとなる。 騒ぎを聞きつけ
noteは読書として楽しんできたがそろそろ書こうと思う 写真は22歳の頃ですけど笑 中国学専攻なので中国語だけでなく文化や経済も学んでた頃 1980年代半ばに初めて友と何の計画も無く行った時に実はその後の生き方が決まったかもしれないなと最近思うので 当時の成都の街角で、道を尋ねたばあさんが 私ゃ字が読めないよすまんね!と答えてからのあの手この手のジェスチャーゲームでその後およそ3分で意思疎通できたときのばあさんのなんとも言えない笑顔を今でも思い出す 方言なのでろくに言葉