1984上海

初めて中国に行ったのは胡耀邦の時代
彼が居なければそんな頃に日本の大学生が旅を出来たかどうかもわからないので感謝している

上海のホテルでのこと。友だちと二人で泊まった日本人学生だらけのドミトリーに何故か南京の若い建設担当の役人2名が居て知り合う
彼らと話してるときにドヤドヤとドヤ顔で帰ってきた当時のエリート学生たちの、中国人は馬鹿だねぇとばかりのさんざん悪口の振る舞いに怒り心頭。ボケ!お前ら何を日本の価値観でモノ言うとんねん!とどやしつけた。シーンとなる。

騒ぎを聞きつけたホテル側が早速中国人二人を別の部屋へ
おれと友だちは、彼らからその部屋に呼ばれ、
そこで何人ものオッさんたちと仲良くなり話しも盛り上がった

日本人学生たちの部屋に帰るとみんな寝てたけども一人だけ素直に謝ってきた。おれたちはさんざん楽しんだ後なのでそのことを伝えて彼を羨ましがらせた。彼も素直に壁を作ってたことを悔しがってたからその後の旅は楽しめただろう。

翌日仲良くなった中国の二人はたまたま休みだったから行動を共にして、僕の困りごと(広州で無くしたカセットボーイ、つまりウォークマンの類似品だけど、その後どの省の役人も取り合ってくれず当時高価なモノをなくすと出国時に定価相当の罰金をとられることになるので諦めてると話した)に憤慨して親身に相談に乗ってくれ、一人の親戚が上海の公安にいるからとわざわざ一緒に行って掛け合ってくれてことなきを得た。

彼らとは帰国後も建設関係の本を送るなどして交流したが、その後社会人になってから第二次天安門事件後に連絡がとれなくなる。一緒に居た友だちはその頃商社で駐在員になってたので行方を探してくれたが、一人とは連絡ができたもののあと一人とは彼も連絡がつかなかったという。

胡耀邦時代の反動も一因の事件だと言われるが知り合いに害を及ぼす原因になったかもしれないことで腹が立つやら悲しいやら、、

国境を越えて友情を育んでも政治によって分断されることを経験した。

なので今もなおその悔しさは忘れてはいない。同時に、彼らが振る舞ってくれてセイロを積み上げた南京路の名店での小籠包の味は今なお最高の味として記憶している。

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