福島に関わる理由(2013年当時)

2011年3月14日、会社人生で一番長かった原発事故の日の夜。
「廃炉にするまで40年」とTVの報道で聞いたとき「見届けるのは無理か。今の若い世代に託すしかないなあ」と夫婦で話した。とはいえ地縁も血縁も無い福島の地にどう関わるのか。何のアイデアも無かった。そもそも行ったことすらなかった。それでも人ごとだと思わなかった。

まず福島県出身の同僚と「東北全体の復興を、いや日本への風評被害を防ぐために海外への情報発信で支援しよう」と有志で動き始めた。その縁で南三陸で支援活動をしている人たちと出会った。
同僚と共に7月に現地へ行き、五感でわかることの貴重さを実感した。そこで知り合った人で、若い頃、阪神淡路大震災のときに、地縁も血縁も無い神戸に駆けつけ、情報ネットワーク復旧に力を尽くしてくれた人がいた。

自分が勝手に動いているつもりでも、実は縁なのではないか、いや、動かされているのかもしれない、とこのときに感じた。

そしてその活動の「9.11南三陸での合宿」で知り合った東京の学生の活動に企業人として協力しているなかで、地震発生1年後の3.11福島でのイベントを企画している学生たちを知った。

もともと、1年後の3.11にどこで黙祷しようか考えていた。
同僚はご縁もあり南三陸へ行くと言う。

福島に行くことにした。学生時代に学園祭に関わり続けた経験もあるからだが、今福島にいて何かをやろうとしている学生を見たかった。
そして当日、イベントをじっと観察したあと、主催者の一人に「応援するよ」と伝えた。

その後、東京の学生ジャーナリスト団体から、会社でやってきた情報発信活動と、その福島の学生たちの活動とを一緒に取材したいという申し出があった。新聞社が支援するそのイベントに同僚と参加し、そこで新たな企画を知った。
学生たちの考えた新たな企画は「スタディツアー」。夏から秋にかけて福島県の3箇所に行って現地の方々と交流するーーー「漁業」「観光」「農業」というテーマでそれぞれ開催するという。

しかしイベントの日が近づいてもなかなか人が集まらなかった。

そんなときたまたま学生時代の親友Sから「俺のやってる京都のラジオ番組に出てくれんか?」との誘いがあった。大学を中退して起業した彼は今や成長企業の社長だ。彼自身の番組で自分の原点にもなったというエピソードの相手としてずっと私を呼ぶことを考えていたらしい。
「おう、わかった」即決した。

そのエピソードとは、彼と一緒に、大学1年生だけで夏の学園祭、七夕に引っ掛けた祭をやるきっかけになったこと。彼が私の下宿に来て「大学おもろないなあ」と言ったとき、私が言い放ったのは「そしたらお前がおもろうせいや」だったらしい。そんなこと忘れてた。それからの当時の話を何の打ち合わせもなく公共の電波に乗せることすら忘れて語り合いながら、無謀だったがやる気に溢れていた昔へ戻った気がした。奇しくも七夕のオンエアだった。

「福島の学生たちを応援したいが協力してくれんか?」と収録の合間に持ちかけた。「おお、ええよ」と即決。彼もまた部下たちを連れて震災直後の5月に南三陸に炊き出し支援に行っていた。阪神淡路大震災の制度資金を使って事業転換した彼もまた共感するところがあったのだ。

そしてその後東京で、福島の学生団体の代表に会わせたあとすぐに彼は寄付と会社のHPでのバナー広告を無償で提供してくれた。そしてその後のツアーの成功を彼も喜んでくれた。

その後もいろんな人たちとつながりができた。
仕事も福島に深い関わりのあるものが増えた。

そして今、それらの縁がつながって、福島に戻った20代と一緒に、福島の中小企業の事業計画支援をコア事業にするフューチャーセンターを計画している。
そのキックオフイベントの講演者の一人を親友に頼んだ。即決だった。彼には多くを語る必要は無い。10代から20代にかけて同じ思いを共有した彼とはおそらく一生、信頼関係は変わらない。

ちなみにこの計画。うまくいく保証など全く無いが、失うものも無い。しかし得るものは大きい。「やらされ感ゼロ」の若い友人たちと共創すること。実はこれこそが自分のやりたかったこと。これは職場でも必要なことだなと感じている。

若い頃とは違い、今の自分には伝えられることもある。
そして相変わらず無茶にも付き合える。というか、もとより大好きだ。
教育者でもないし利害関係も無い。だから教え諭すような関係にはならない。むしろ教えられることのほうが多い。
尊重し合う関係を世代を超えてつくることはできる。

動機は「恩返し」目標は「次世代支援」それがライフワークになった。
自ら動けば得るものは限りなく多く、失うものは無い。
すべてが将来への糧になる。
40年から先も続く世のために、まずこの40年を!

「死ぬまでやるよ」と宣言しているのは、自分が死んでからも「一緒にやったことを憶えてくれている人がいる」からだ。

もっともまだまだ死ぬ気はさらさら無いが、
たとえ明日死んでもいいように生きようと思う。

ジョブズじゃないが、いつまでも「アホであれ」と自分に言おう。

追伸
この話、実は7月に書きました。
それから2ヶ月。その間にも素晴らしい出会いがあり、すべてがつながってきています。

2013年9月11日

てなことを書いてはや半年が過ぎました(^^;;

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