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人が取る行動の物差しは、大概自分だろという話

相手がこうされたら嫌かもしれないな、自分はこうされると嫌じゃない、じゃあこうされたら嬉しいから人にこうしよう、と、自分の取るべき行動を決めるけど、それには自分の好みが反映されており、必ずしも相手も嬉しいかどうかはわからない。


道徳教育の類いでは、「自分がされて嬉しいことをしよう」とよく言ったりするけど、それは必ずしも当てはまらないことになる。なぜなら、初めて自分の行動を決めるときは、自分の好みしか物差しにできないから。

普段から正規分布の外れ5%に属すタイプの人は、自分の好みがハナから同意を得づらい。正規分布の外れ5%の人は、自分がされて嬉しい関わり方を自分以外の人にすると、受け入れられない恐れが高い。

正規分布の外れ5%の人は、正規分布中央の人に比べて人との関わりが少なそうである。色んな事情でね。

人との会話を減らせば減らすほど、参考にすべき関わり方の物差しも減っていき、独善性強めの関わり方が主になってくる。

本来は人との関わりが多いほど、多様な性質と多様な考え方に触れて、自分のバランスが決まってくるんだよな。バランスというのは人としてのバランス。バランスは外部環境との関係性で規定されるものだから、人と触れる機会の多い、前に出る仕事の人、政治家とかさまざまな演者の人とか、裏方よりも出役の人の方が、バランス感覚に長けていて、コミュニケーション能力が高い傾向があるんだろうな。

僕はますます、
関わり方が下手っぴになっていくなぁ




当たり前か。

あとがき:
道徳教育で言われるのは、
「自分がされて嬉しいことをしよう」
というよりは
「自分がされて嫌なことはしないようにしよう」
ですかね。
似て非なるもので、後者の方がトラブルは少ないでしょうね。でも前者は温かみがありますよね。どっちも悪くないわ。