永井均先生の<私>の哲学が分かりません その5

<私>の存在の比類なさ
著者 永井 均 勁草書房 1998年
28ページから引用します。

(引用開始)

宇宙が現実とまったく同じ歴史的経過を辿ったとして、そのときそこでその
両親から生まれ「永井均」と名づけられた人間は、私でないことも可能であった。

だが、なぜかそれは私であった。
なぜ、それが私であったのか、そしてなぜ、他の人間が私ではなかったのか、それはまったくの謎である。

はっきりしていることは、永井均を含む多くの人間を産出した現実とまったく同じ歴史的経過が、私を産出しないことも可能であった、ということ、それゆえにまた、別の人間が私であることも可能であった、ということである。

(引用終了)

私であるNakayama(以下、Nakaとする)は、上のようには考えません。
Nakaは、唯物論の立場で心は神経回路網の活動である、と想定してます。
身体と心は一体であって、切り離せません。

この想定では、ある人の心が、別の人の心であった、という可能性はあり得ません。

ある夫婦の三男は、なぜ、長男として生まれなかったか?、

台風10号は、なぜ、台風5号にならなかったか?

というのと同じで、なぜと考える意味はない、謎でもない、とNakaは考えています。

永井先生は、
「そのときそこでその両親から生まれ「永井均」と名づけられた人間は、私でないことも可能であった。」

と、なぜそう言えるのか?

を説明されてるかも知れませんが、Nakaは確認できていません。

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