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エウレカを探せ〜量産型人生にならないために

昨日は柊雲会で、甲野善紀先生の新展開を改めて体験しました。
新しいものとしては「持たない刀」や「蔓が伸びる動き」。以前からあったけども改めて参考になったのは「二本指にすると腕が上がる」など。
通底して重要なのは「浮きがかかった状態」。

甲野先生の稽古は、本当に「毎回新しい」。
甲野先生の稽古のやり方が、ひたすら「エウレカ」を求めるやり方だからでしょう。

エウレカ」とは「わかった!」くらいの意味ではありますが、アルキメデスの逸話にて大変有名な言葉です。
アルキメデスは、風呂に入っているときに懸案だった体積を求める方法に気づき、「Eureka! Eureka!」と2回叫んで風呂を飛び出し、裸のままシラクサの街を駆け抜けたそうです^^

私の自宅の近所には、江戸小紋の染物工房「小林染芸」があります。
その小林染芸に、私が1日体験に行ったときの話です。

小林染芸のご主人は、お父様である先代から、刷毛の動かし方を学ぶのにすごく苦労したそうです。
職人ということもあって、言葉で丁寧に説明してくれない。
何回やっても「ちげぇよ!こうやるんだよ!」としか言わず、技を見せるのみ。しかしどこが違うのかわからない。

どうやるんだ…?
と試行錯誤を続けて数十年。
ついにご主人は「エウレカ」を得ました。

そのやり方は、刷毛を少し斜めにして、刷毛の脇から染料がスーッと漏れ出てくるように動かす、というもの。
その説明を聞いて私がやってみたところ、ご主人が何十年もかかって見出したその技を、私は1日体験の中でできてしまいました。

この逸話にはいろいろな教訓があります。
まず、指導者たるもの、言葉を磨いて後進に伝える努力をする必要がある、という教訓もあります。

しかし、もっと重要な教訓があります。
結果として同じ技ができるとしても、私とご主人の得たものは、本質が異なります。
それが「エウレカの有無」です。

ご主人はエウレカによってそれを得た。
私はエウレカなくそれを得た。
何が違うか。
エウレカを得たご主人は、そこからさらにエウレカを得られる可能性があるのに対し、私にはそれはなくそこで止まっている、ということです。

複製技術が常識になり、エウレカなく簡単に「結果」が得られる世の中。
こうした時世では、仮にエウレカを見つけたとしても既に誰かがやっている・実用化している可能性も高く、「車輪の再発明」を恐れ、自分でエウレカを得るということ自体を軽視してしまいかねないという恐れがあります。

「結果」だけが重要なのではなく、それを得る過程の中で「エウレカがあったかどうか」が本質的に重要です。
甲野善紀先生が伝えようとしているのはそういうことではないか、と私は勝手に思っています。

甲野先生が「持たない刀」というエウレカを得たのは、「上達論」の共著者である方条遼雨さんとの立ち合いの際、「これは普通の持ち方では間に合わない」と感じ、「これまでやってきたことを1秒で全部捨てた」からだそうです^^

「すべてが一度きり」である現実の中では、「エウレカを見出す力」を養っておかないと、未知の事態に対応できません。
誰かが作った「量産型の結果」に甘んじているだけでは、「量産型の人生」にしかなりません。

「結果はさておき、ひたすらエウレカを探す」という稽古によって、未来を切り開く力を養うことが必要なのです。


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