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心意六合拳の「十失」ー「社会」から「原初」を省みる

以前、神田神保町の叢文閣書店で「武術(うーしゅう)」のバックナンバーがたくさんあるのを見つけ、これはと思うものを購入しておいた。
「武術」は2005年に休刊になってしまった中国武術専門誌。当然ながら現地取材しないと成り立たないコンセプトなので、貴重な記事がたくさんあり、現在でもその価値は高い。

その「武術」の心意六合拳の記事をまとめたムック「心意六合拳SPECIAL」に、「心意六合拳の十失」というものが紹介されていて興味を惹かれた。

これは李新民老師が従来秘密だったものを紹介したもので、心意門でも知っている人は少ないそうである。
「十失」とは、「人と手を交えて失敗する十の理由」を指す。

「十失」は以下の通り。

一、
まだ手を交えていないうちに気が浮つき、中が空になり、気を発しても疾猛にならない、これが一失。

二、
両手を胸の前に置くことを知らずに上下の攻撃を防ごうとする、これが二失。

三、
まだ手を交えていないうちに無駄に勢を構え、見せてしまう、これが三失。

四、
向きを変えながら進み、まっすぐ入ろうとせず、近を捨てて遠を求め、無駄な苦労をする、これが四失。

五、
進めば必ず歩を出し、身を横に向けて勢を変え、敵に向いている面が狭くて有利だったのを広くしてしまう、これが五失。

六、
ただ手先だけで手を交え、身を進めることを知らない、これが六失。

七、
最初に出した手で相手を打とうとしない、これが七失。

八、
両手で守っていて攻めようとしない、これが八失。

九、
三度四度と手を出してはじめて相手にあたる、これが九失。

十、
身をかわして防ぎ、相手に貼り付くことができない、これが十失。

「この十失があっては、手を交えて敗れないわけがない」とされている。

流派・拳種によっても考え方が異なるので、これはあくまでも心意六合拳のものとお考えいただきたいが、それにしてもこの「十失」と現代武道・格闘技との違いはどうしても感じざるを得ない。
牽制やフェイントをすべて否定している。ブレイクや「待て」など存在しない。

こうした考え方の違いには、武術に求められた「結果」の、時代による違いが関係している。
心意六合拳には、「ただ勝つ」ことが求められた。
それこそ、相手の生死は問わず。
心意六合拳の試合では、死者が出ることが少なくなかったそうである。

しかし、いくら昔の武術家同士の試合でも、相手を殺し続けていたらいずれ問題が生じる。
有名な八極拳の李書文をはじめとして、相手を殺し続けた武術家は、毒殺されたり不審死を迎えたりすることがしばしばあった。

「人を殺めてはならない」というのは、社会を維持する上での最初のルール。
武術も社会の中に存在する以上、このルールを無視していたら社会の中に存することが許されなくなる。

「勝利」とは、社会が認めることによって初めて「勝利」となる。
相手を亡きものにしても、社会が認めなければ、それは不名誉な「敗北」となる。

故に、武術も社会性を帯びることになる。
ルールを定め、勝利条件を作り、反則は負けとする。
それは当然の社会的要請だ。

ただ、私は感じることがある。
現代人はただでさえ社会を離れては生きていけないのに、武術にまで「社会性」がなくてはならないとしたら、「生物としての人間」はどこで発見できるのだろうか。

武術/武道にも上下関係があったり、接待に付き合わなければならなかったり、金と名誉が絡んできたり。
甚しきは「俺が技をかけてるのに、なんでかからないんだ」なんてことを先輩が平気で言い出したりしたら、それはもう最後の武術性まで売り渡した状態である。

せっかく武術を学んでいるのだ。
自分の身体に向き合っている間くらいは、社会性以前の状態、「原初の生物性」を省みてもいいのではないか。
社会性でガチガチになり、生きづらさを抱えている現代人こそ、武術からこのような「観」を得ることが救いになるのではないだろうか。

もちろん、物理的には法とルールを守って。
人を傷つけてはいけません^^

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