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「楷書」が書けないのに「草書」が書けるはずがない

先日の板橋区議会予算委員会総括質問で、私はタブレット教育の時代にどのように「漢字の書き順」を教えるかを質問した。

表意文字である漢字は、それを書くこと自体が具体的事物とつながる行為になる。
「漢字はただの記号ではない」ということを教えないと、日本と中国の文化の本質がわからなくなる。

教育ICTは重要だが、まさにこうした点が抜け落ちることを危惧し、議会で質問した。

武術でもこれと同様の「肝心な点の喪失」が起こっており危惧している。
例えば、「起式」を飛ばしたり適当にやったりすることには、私は強い違和感を感じる。

漢字の「草書」のように、一見省略してるように見えるやり方はあるものの、それは消えているわけではない。

「わかっていて流して書く」ことと「何の認識も持ってないから抜け落ちる」ことの間には、天地の差がある。

孫臏拳のとっつきにくさは、明確な起式がないことにある。
各架の冒頭が次の架と連環しているため、他の流派の起式のような機能を持っていないことに最近気づいた。

孫臏拳の中興の祖である楊明斎は、査拳・紅拳・黒虎拳・羅漢拳・埋伏拳などを修めた上で、張友春から孫臏拳を学んだと伝わっている。

つまり楊明斎は、査拳等の規範を熟知した上で「草書的に」孫臏拳を行っていたのではないか。
だから、起式なしでも孫臏拳が打てるのではないか。

孫臏拳の身体性のベースは、中国武術の歩法の中でも一番難しい「虚歩」だ。
「虚歩の世界」に「起式」という手続きなしでログインするとは、査拳等を相当熟知した上での「草書化」が行われていると考えなければならないだろう。

それを現代の私たちが形だけ真似しようとしたら、「しんどい」「不安定」という印象にしかならないだろう。

孫臏拳には現代格闘技でも通用する技術が多数あり、埋もれさせるには惜しい。
現代人が孫臏拳を学ぶのなら、まずは査拳等をしっかりやり込み、中国武術の「楷書」をまず修める必要があろう。

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