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いつになっても難しい

レッスン業について少し思った事があるので、数年後の自分が今の考えをどう感じるのかを知るためにも記しておきます。

人様からお金を頂いてレッスンするようになったのは18歳から19歳の間頃からだったと記憶しています。
台東区上野にある音楽大学に進学するため常磐線快速一本で行ける、千葉県柏市にアパートを借りて住んでいました。当時は品川まで行かず上野止まりだったのでボーっとしてても大丈夫でした。
当時私は超がつく程の田舎者でドン・キホーテに生活用品を買いに行った時、これが都会ってやつか…何もかもスケールが大きいな。
とワクワクしつつ買い込んでしまった大きな黄色い買い物袋を3つ両手にぶら下げて、徒歩20分の道のりを道に迷い1時間かけて帰ったのは良い思い出です。
音大進学者あるあるというか、本気で楽器が上手くなりたかった人は高校時代、あるいは中学生の頃から、あるいは小さい頃から厳しいレッスンの日々を過ごしたのではないかと思います。
私の場合、中学の吹奏楽部で夏のコンクールシーズンになると外部講師の先生が半日レッスンをしに来てくださっていました。まだ楽器を手にして間も無く、楽譜にはカタカナでドレミを書いている頃からそれはそれは厳しい指導を受け、耐え切れずレッスン中に涙を流した記憶もあります。
高校生になったころ、吹奏楽部とは別にプライベートレッスンを受け始めました。ペースとしては週に一回。まだプロになるとかそんな立派な目標も無い中、ただサックスが上手くなりたいというだけでお金を出してくれた両親には感謝しかありません。
高校時代の先生はもちろん厳しい先生でしたが、子供の自分でも上達が実感できる様な素晴らしいレッスンをしてくださいました。
その先生が居なかったらプロはもちろん、音楽大学に進学したいという気持ちにもなっていなかった様に思います。
レッスンは1回1時間という約束で通っていましたが、私の不出来さに先生も堪らず延長でレッスンをしてくださいました。受験生だからということもあったでしょう。
本当に素晴らしい先生で今でも大変お世話になっています。
上京して生活にも慣れて来た頃、柏市で行われたチャリティーコンサートに誘っていただき出演しました。
大学ではレッスンを受けた事はない作品ですが、ロバート・プラネル作曲の「プレリュードとサルタレロ」を演奏しました。
この曲は大学で師事した先生のCDに収録されていて高校時代から良く聴いていたのでいつか演奏してみたい作品の1つでした。自分としてはあまり上手くいかなかった記憶が残っています。
そこにたまたま聴きに来ていたサックス愛好家の方と、その愛好家さんたちのアンサンブルチームを指導している方から「レッスンしてくれませんか」と声をかけて頂いたのが最初の現場となります。15年経った今でも柏の隣の松戸までレッスンをしに行っています。
田舎者だからという訳ではないかも知れませんが、音楽で食べていくというのがいまいちピンと来ていないお子ちゃまだった私は、せっかくのレッスン依頼を「1回だけならまぁいいか…」程度の軽い気持ちで引き受けました。何故ならその時はお金を頂くつもりが微塵もなく、演奏を聴いてくれて感激してくださった事に対してのお礼のつもりだったからです。
それに学生であるという意識が強く、プロでも無いのにお金を頂くなんて烏滸がましいとさえ考えていました。
その考えを正してくださったのは高校時代にサックスを師事した先生の言葉です。
「中谷、軽い気持ちで自分の技術を伝えてはいけないよ。それはお金を払って得た財産なのだから。」
なんてケチな事を言うんだろう。バカな私はそんな失礼極まりない感想を胸にしまい、いまいち分からないまま「はい、わかりました。」と答えました。失礼極まりない…。
先生に言われた事は守るという性格が良い方向に繋がる事となります。
その後、月に平均2回のペースでそのサックス愛好家さんのアンサンブルチームを"仕事"として教えに行かせて頂くこととなります。
それまで厳しいレッスンが当たり前で続けてきた私にとって「レッスンを受けるのは上手くなりたいから」「私でも出来たのだからきっとみんな出来る」「先生は私より厳しかったのだからこの程度厳しくも無い」など謎の判断基準を引っ提げてその団体で猛威を振るいます。笑
如何に子供だったかがこの時点で皆さんにも想像でき、笑えるかと思います。
彼らはモチベーションの高いチームで「人前で演奏したい」という目標を持っていたため、次第に年長者に対するレッスンも慣れて来た頃には厳しさを増していきました。
幸い、前任者のレッスンは私の何倍も厳しいものだったらしく愛好家の皆さんは私が心配するより堪えていない様子です。ただ私は遥かに歳下なので普通であれば「歳上だぞ!」と年齢マウントを取られてもおかしくはないレッスンをしてきたことは事実として反省しています。
ただ1つ言わせてもらうなら何も間違ったレッスンはしておらず、どうしたらこの人達が上手くなるかだけを真剣に考え、先生としての責任を重く受け止めていたが故の厳しさです。それは残念ながら今でも変わらないレッスンスタイルとなっています。あ、もちろん今はかなり優しくなってます。笑
それから卒業して某大企業のレッスン代理店で契約講師という形でレッスンを始め、同じく同期の紹介でまた違うエリアの企業で契約講師を始めます。
この時苦労したのは入会率は良いのにレッスン生が続かないこと。
私の厳しいという範疇はどうやら世間一般で楽器を吹きたいという方々にとってはとんでもなくぶっ飛んでいたようでした。
教室側ともミーティングをして、「若い先生あるあるだから、これから直していきましょう」と優しい言葉をかけてくださいました。ただ私は大学を卒業してもまだお子ちゃま全開だったためこれまで受けたレッスンの
厳しい=優しさ
という変換により優しくレッスンするというのが
"適当にやって長続きさせよう"
という風にしか正直思えませんでした。
しかしながら流石に反省点も多かったので心を改めることになります。
厳密に言うとレッスンの仕方を「さらに、よりその人に合ったやり方で」を考えて実行する頭が出来ました。
「音を出すこと自体が嬉しい人が居る」「一音でも出せる音が増えて嬉しい人がいる」「音楽を楽器を今やってる事が嬉しい人がいる」
そんな尊い気持ちに寄り添えなかったのが生徒さんが辞めていってしまった原因だと今では理解しています。
音楽家として修練の先にある新しい音楽の楽しさを知ってもらいたい、プレイヤーとしての自立という指標は変えず現在もレッスン業に励んでいるわけですが
100人教えて、100人が到達できるとは思っていません。ただその人にとって先生が私で良かったと思ってくださるよう付き合うことが優しさであり、レッスン業の本質なんだと考えています。
これまで関わった人たちには心から感謝しています。

ようやく年齢的にも、精神的にも、社会経験的にもお子ちゃまと呼ぶには無理があるよねとなってきた今日この頃。またぶち当たる壁。
私は切り替えがあまり得意では無いようです。
先ほどまでと全く反対な事を言ってしまいますが、自身のレッスンが上手く続かない時期に思っていた"辞める人は辞める"という感情がまだ残ってしまっているようです。私自身、いつ辞めてもおかしく無いレッスン生活を送っていたのも1つそう思う要因だと思います。
切り替えが上手くいかないのは「続けてほしい」の裏側に「続けてくれるかな」という不安があるのだと思います。
15年教えたアンサンブル団体のレッスン、小中高の部活動指導、音楽科高校や音楽科のある大学のレッスン
加えて自身が挑む音楽。
先程述べた
「音を出すこと自体が嬉しい人が居る」「一音でも出せる音が増えて嬉しい人がいる」「音楽を楽器を今やってる事が嬉しい人がいる」という方にとっては少し厳しい内容のレッスンに気づけばなっているかもしれません。

そんな日の帰り道は心がとてもモヤモヤしています。
レッスンが間違っているとは思いません、ただ現時点でそういう日は「今日はここまで持っていきたい」という自分主義のペースを相手に強要しているのだろうと思いました。
人によって、現場によって切り替えていれば今の私なら起きにくい事なはずなのですが。
レッスン業はそこそこ長くして来ましたがまだまだだなと思います。レッスンが悪いのでは無く、私の心が未熟なのだと考えています。
数年後、私はどう思うでしょうか。
きっと国語40点とか叩き出す私がこんな文章を残してしまい恥ずかしくて削除するかもしれません。
人は死ぬまで子供
そんな一文だったか、一言だったかその言葉が思い出されます。
何事も正解を決めつけてしまうと選択肢が狭まります。
正解「かもしれない」を正解「だった」に繋げる努力の過程が選択肢を広げ多くの事に気付ける視野を育ててくれます。
これからも出会いもあれば別れもあるでしょうが、目の前の生徒さんのために出来ることはやり切りたいと思います。

つまり何が言いたかったかと言うと
まだまだ未熟ではありますが生徒の皆さん方と共に成長していきたいなと思います。数年後の自分よどう成長していますか。


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