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「普通」へのモヤモヤについて


自己紹介を書いてから随分と時間が経ってしまいました。書きたいことは山ほどあるのだけど、読む人にわかりやすいような順番に、とか専門知識は誤った情報を書かないように、とか考えてたらあっと言う前に時が過ぎ去ってしまったのです。(ほんとにあっと言う前に!)なので私のペースで心の赴くままに書いていこうと思います。

私が療育に携わったり、自閉症スペクトラム(疑い)の息子を育ててよく考えるのは「普通って何?」ってことです。ときに残酷なこの言葉にまつわるあれこれついて言語化したいと思います。

発達の遅れ=発達障害?


発達障害は他の障害と比べて、支援を受ける対象であるかということが分かりにくいのが特徴的だと思います。

一つの指標になるのは発達の遅れがあるか?ということですが、これがなかなか厄介だと思っています。「遅れ」を見るにはいわゆる「普通」と比べて見るしかないからです。

ここで私がモヤモヤするのは、発達障害は「普通」より劣っている人のことだ、とか、療育を頑張って「普通」の人に近づけなくちゃ、という考え方です。この考えのもと、療育に来る方って多く感じます。皆さん本当に一生懸命療育されています。でも非常にモヤってしまうのです。なぜなの?!自分でもぐちゃぐちゃしていたので整理してみますね。

この考え方、仕方ない部分もあるかもしれません。『普通より発達が遅れている=発達障害』なのだとしたら、『普通の発達水準に近づく=発達障害ではなくなる』と考えてしまいますよね。

でもこれって、目の見えない人に、見えるようになれって言ってるのと同じなのでは?と思うのです。根本のところは本人の努力ではどうにもならないし、治すことが(現時点での医療では)不可能なのにそれを求められたら苦しいです。
もしも見えないのなら、点字を読めるようにするとか、盲導犬と過ごせるようにするとか、その方が社会の中で生きやすく、可能性を広げられるようにすることこそが必要な支援だと思います。

私の考える療育とは

発達障害の方にとっての必要な支援をすることこそが療育だと私は思います。決して「普通」にすることではないと思います。

発達の遅れそのものが問題なのではなく、遅れが分かることで気づけるその方の“生きにくさ”に目を向けることこそが重要なのではないでしょうか。
言葉が遅いのは、音声の刺激のみだと情報を受け取りにくい特性のためかもしれません。
指示を理解できないのは、生活の雑音の中で特定の音のみを認識するのが苦手だからかもしれません。
癇癪が激しいのは、こだわりのルーティーンが崩れることで不安が強くなってしまうからかもしれません。
そうしたその方の特性を知ることで必要な支援の方法が分かります。

世の中の多数派の「普通」でなくても、どんな発達特性があっても、生きやすい社会の実現のために、これからも療育に携わっていきたいです。

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