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学生時代と就職後の話

2023年12月末をもって、新卒で入社し勤めていた会社を退職することとなりました。

これから何をするかと言うと、小田原や湯河原での地方の仕事に本格的に移行します。

そして早いうち自分で地域活性化のための事業を始めていく予定です。 (湯河原でゲストハウスをこれから起業しようと思っていますので、もし興味あって手伝って頂けるという方、大募集中です。)

いきなり思い切ったことのようですが、そんなつもりはなく、割と自然体に正直に生きてる感じがします。

大きな会社の一員という所属が無くなり自由になった分、ありのままをやっと公に発することができるように解放された感じがするので、これから色々な思いをnoteに綴らせて頂きます。

まずここには、なぜ今の会社に入り、4年弱で辞めるに至ったのか、なぜ地方創生に熱を持って取り組んでいるのか、書いておきたいと思います。


野球中心の学生時代

学生時代は野球に打ち込み大学まで野球中心の人生を送っていた。全然上手くいかないから、今思えば狂ったように練習していた学生時代。大学では少しだけど自分の成長も実感でき、後悔ないところまで野球をやり切った感覚があった。野球が下手で、上手くいかない劣等感のような気持ち、それに抗い自分にプライドを持ち期待を抱く気持ちが、今の自分の根底にはずっと残っている気がする。

大学で野球部を引退し、学部で卒業、次熱中して打ち込めるものは仕事だ!と、そう思った。けど、頭の中が野球しかなった世界で、社会のこと何も知らないな、、とも気づいた。知らないながら、次に自分の人生のために、やりがいを求めて就活し、仕事を選んだ。大学4年秋、野球部を引退してからは、第二の人生が始まったようだった。


プラントエンジニアリングという仕事について

新卒で入社した会社の仕事は、プラントエンジニアという職種の仕事。
プラントエンジニアリングは、私達の当たり前の生活を成り立たせているインフラを支えるものづくりの仕事。(ここはみんなに知ってほしいな、と思っている。)簡単にいうと、「プラント(工場)」を作る仕事だ。

普段何気なく使う電気は、どこでどうやって作られるのか。ガスはどこから届けられるのか。他コンクリート、プラスチック、アスファルト、食べ物なども、普段生活に溶け込む様々なものはどうやって作られるのか。仕事柄もあり、よく考えるようになった。

このような、モノを生み出していく仕事がプラントの仕事。これが無かったら、我々の生活は成り立っていない。こんな大きなモノづくりの仕事があるんだ。アツい。ある意味物質的に満たされた世代と言われるだけあって、今まで生活環境に不自由を感じたことが無かった私は、そこに強くやりがいを感じた。大学時代から、生活インフラ・エネルギーという分野になぜか興味関心が強かったということもある。部活の置き換え版を求めるかのように、社会のために仕事をするぞ、そう意気込んだ。

会社に入ってからは、人にも仕事にも本当に恵まれたなと思う。
格好いいと思える指導員の先輩、
仕事の方は、コロナ禍で業務量が低下していた中にしては、ちょうどタイミングよく色々な仕事を任せてもらえる。
設計の仕事で、技術的なことはもちろんのこと、社会人としての基礎的な業務を身に付けていった。ただ一方で、仕事以外の時間は、いろいろな場に顔を出し、より自分と向き合い、部活に置き換わる熱を仕事に注ぎたいと思っていた割には、心から仕事に熱中出来てはいない自分に気づいていた。


地域分散と小規模な地方でのものづくり、という価値観の変化

仕事の意義についてという意味で、考え方の転機となるきっかけがいくつかあった。その1つが、環境プラントと言われる環境問題に貢献すると謳っているプラントの仕事に関わったことで、環境問題について詳しく調べ始めたことだ。
詳しく話すと難しくなりそうなので、端的に書こうと思う。
環境問題のことを勉強していくと、今までの生活を支えるだけでは(維持しようとするだけでは)環境問題は悪化する一方だな、と危機感を持ったことで、考え方や価値観が変わった。今の生活を支えるインフラを維持するのではなく、変えていかないといけない。

環境問題という視点で考えると、今の物質的に豊かな生活を享受している自分は、プラントエンジニアリングという仕事をしながら問題の悪化を招き続けているように感じてしまった。(批判ではなく、今でも仕事の意義は強く感じています。)
環境問題を引き起こしているのは、横浜という都市で自由に生活をしている自分ではないか、
被害者がどこかにいるという罪悪感・自分が加害者側にいるような感覚になる気持ち悪さ。
これは野球をしていた時代、弱い立場側に共感する気持ちがついているのではないかとも思う。だったら、そうではない社会を作る行動をするしかない。動かずにはいられないという気持ちになった。

都市での生活を変えないといけない。
環境問題の原因も、便利さの追求が行き過ぎ、都市という地に生産されたものが集まり、それがどこでどのように作られているのか過程が全然見えない。そしてその状況を維持するためのあらゆる仕事で、疲弊していくサラリーマンがたくさんいる。じゃあどうするか。

地域分散・地方創生・地域での自給自足だ、と、そう思った。

少しネガティブな動機の説明になったが、自分の気持ちに純粋に正直に行動するワクワクが一番大きかった。地方創生・田舎暮らし・農業、ということに憧れている自分もいた。

他にも色んな角度のきっかけがあったが、このように仕事柄の興味関心が繋がり、地方での農業・エネルギー事業、そういうことに強い興味を抱いた。

そうなったとき、
過疎地域に行き、まずは農家を訪ねてみよう。
そう思って、休みの日に神奈川県内の過疎地域である真鶴町を早朝から自転車で訪ねてみることに。社会人2年目の夏だった。

不思議なことに、動いてみると早速大きな出会いがあった。

真鶴町を午前中には回り終え、昼ご飯をどうしようかとネットで調べていると、小田原の「農家カフェSIESTA」という、
農家がカフェを作って、エネルギーも自給している、(らしい、、)というお店を朝日新聞の記事で見つけた。真鶴町から自転車で2時間。真夏だったので汗だくになりながら、そのお店に向かった。

そこで出会ったのが、農業、耕作放棄地再生、そして地域での再エネ普及を組み合わせたソーラーシェアリング、そのような事業を通して地域活性化を目指して熱く活動を続けている小田原かなごてファームの小山田さん。農家カフェSIESTAのオーナー。

その時小山田さんの話に大きな影響を受けた。そこでは、されている事業の内容はもちろん、こういう社会を作りたいんだ、という熱い想いで泥臭く事業をされている生き方を見た。自分はこういう仕事(というより生き方)をしたいと、そのように強く思った。

結局、部活をしていたときの自分が今に繋がっていて、私は熱い人が好きで、自分も熱く何かに熱中したいんだなと思う(笑)。

地域で小規模に自然資源を活用したものづくり、地域での地産地消、そこで再エネなども組み合わせること。そして便利さとは別次元の、地方での豊かな生活を実現したい。そう考えるような価値観の変化。そして、それがインフラの作り方として最適なのではないかと考えるようになった。

そこからは休みのたびに小田原へ通い、草刈りに行った。
小田原での活動へ参画度も深まり、
いろいろな人に出会うことにも繋がり、
私は影響を受けていった。

そして、自分でも地域でのローカル起業を目指したいという気持ちが一段と強くなった。

会社での仕事で3年続いた1つのプロジェクトを終えた節目のタイミングで、次のステージへ進み挑戦しようという決断に至った。


つらつらと書きましたが、上手く書ききれない程、色々な出来事がありました。

色々書きましたが、純粋に自分の正直な気持ち・ワクワクに従い行動しているのと、学生時代の劣等感も絡み合い、行動していたことが今に繋がっているんだと思います。

一旦今回はここまでとして、なぜゲストハウスをしようと思ったのかなど、また続きを書きたいと思います。

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