パン派・ご飯派議論について考えてみた件
我々は様々な事象を認識するに際して、ほぼ不可避的に二項対立的な思考をしている。
「お昼にカレーを食べるか食べないか…」
「電車に乗るか乗らないか…」
「飲み会に行こうか行くまいか…」
このような思考をすることで、この世界で起こっている事象を、単純化し、認識しやすくしている。
例えば、お昼にカレーを食べれば、カレーを食べないというもう一方の選択肢はなくなる。
例えば、この電車に乗らないという判断をしたとすれば、この電車に乗るというもう一方の選択肢はなくなる。
どちらかを選択すればどちらかを選択しないでよいので楽で分かりやすい。ただ物事はは往々にして二項対立で考えられないことがほとんどだ。
パン派かご飯派か
「朝ごはんは『パン派』か『ご飯派』か」という議論があるとする。
この場合、回答できる選択肢がパンかご飯という2つしかないので、パンを選べばご飯という選択肢はなくなるし、ご飯を選べばパンという選択肢はなくなる。
今回はこの『パン派』『ごはん派』議論の問題点について少し考えてみたい。
第一に、そもそも「パン」と「ご飯」が二項対立になっていないことが問題だ。
二項対立とは文字通り、「二項の対立」である必要がある。つまり基本的には、「パンでなければご飯」「ご飯でなければパン」という図式が成り立つ必要があるが現実世界ではそうではない。
例えば、そもそも朝食を全く食べない人もいるかもしれない。
例えば、パンやご飯ではなく、(日本では少数派かもしれないが)じゃがいもを食べたり、麺を食べたりする人がいるかもしれない。
第二に、「朝ごはんは『パン派』か『ご飯派』か」という問い自体が曖昧である点が問題だ。
「いつも食べる朝ごはんは『パン』か『ご飯』かどちらの方が頻度が多いか」
という頻度を問うているのか、
「朝ごはんに食べると健康に良いのは『パン』か『ご飯』どちらか」
という健康に良い方を問うているのか、
「朝ごはんに食べるとするならばパンとご飯、どちらか好きか」
という好みを問うているのかが不明確である。
二項対立への甘え問題
ただ、ここで申し添えたいのは二項対立を全て止めようと言っているのではないということだ。前述した通りこの世界で起こっている事象を、単純化し、認識しやすくしているという意味において二項対立はある意味よい働きをしてくれている。混沌とした世界を意識的に2つに分けることで、違いを明確化させ分かりやすくしてくれている。
ただ問題は二項対立の分かりやすさに甘え、単純思考しかできなくなることにある。
ではその二項対立への甘え問題を乗り越えるにはどうしたらよいのだろうか。
それは恣意的な二項対立では?
例えば2001年の解散総選挙。小泉元総理は「今回の解散は『郵政解散』だ。(郵政民営化に)賛成してくれるのか反対するのか、はっきり国民に問いたい」と述べ、総選挙の争点を「郵政民営化に賛成か反対か」であるとし、メディアもそのように大きく報じた。
確かに選挙の大きな争点は郵政民営化の是非にあったことは間違いないが、それ以外の争点もあったはずだ。つまり、その二項対立は誰かが恣意的に作ったものであるかについては十分検討する余地がある。
それは完全なる二項対立なのか?
パン派かご飯派かの議論では、本当はじゃがいも派や麺派の人間もいるが、あえて整理しやすいように、おそらく少数派であるそれらを除外して二項対立とさせていることは前述した通りだ。
つまり二項対立を考える際に、本当に二項対立として捉えてよいのか、つまりを考えておく必要がある。
何を考えるための二項対立なのか?
「朝ごはんはパン派かご飯派か」なんて急に問われても、前述の通り、好きな方を選ぶのか、頻度多く食している方を選ぶのかわからない。
二項対立はしばしこの点をうやむやにする。ここも留意して考えたし。
つまりは、物事には単純にどちらかを言えないはずのところを、誰かが強引に割り切って対立している(かのような)構えを見せているのかもね。ということをふと思いまして。
という夜の呟きでした。
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