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雲梯の神様

※短編小説です。7,800字くらい。

昼子はできそこないの神だった。

力は大きかったが手も足もなく、頭すら持っていなかった。胴だけがぶよぶよと不安定に存在し、眠たげな眼がひとつだけくっついていた。

昼子のいる世界には地面が広がり、多くの神と生き物と、おびただしい数の人がいた。

何物にも縛られない昼子は世界を漂った。人が甑で米を蒸すのを眺めたり、似合わない烏帽子を風で飛ばしてやったり、内乱や飢饉で苦しむ者の命をきまぐれに吸い取ったりした。神をも超える力が世界をめちゃくちゃにするのを見たこともあった。そこから再生した世界が急激に変化していくところも。

そうして長くも短くもない時を過ごした昼子は、自分のできそこない加減が外見に留まらないことに気づいた。

昼子が見たところ、神というものは何かを司っていたり、何かに宿ったりしているものだった。

昼と夜を司る神は美しい双子だった。大地の神は頭に蚕を乗せていた。ある磐座の神は酔っぱらったような赤ら顔をしていた。それぞれの土地を司る神もあれば、石や野の花、土瓶に宿る神もいた。

昼子はあるかないかも不確かな自分を思った。なぜ自分は何をも司らないのか。何にも宿らないのか。この身には確かに大きな力を感じるのに。

昼子は嵐を呼ぶことができた。暗闇の中に太陽の光を引っぱってくることもできた。枯れ木を甦らせることも、そこらの命を吸い取ることも造作なくできた。それらすべてを行える神は昼子の他にはいないようだった。

だけど、司り、宿ることだけはできなかった。他の神ができないあらゆることができたのに、どうしてもそれだけはできなかった。

昼子は小さな公園を見つけた。古びて人影のない住宅街に、落し物のように所在なさげにあった。すぐ横は六階建の公営団地だったが人の気配はなく、カーテンのないぽっかりとした窓が生気の無い目のようだった。その視線が周囲の雰囲気を薄暗いものにしていた。

公園にはベンチすらなかった。入口近くの鉄棒には針金で大きな空き缶が吊るされ、吸殻が溢れていた。他に遊具は雲梯がひとつあるだけだった。

雲梯は全体が金属のパイプでできており、上の梯子部分が緩いアーチ状になっていた。足元は泥で汚れていたが、全体は白かった。昼子は鳥のようだと思った。川の流れに餌を探す、足の長い水鳥だ。

公営団地と葉の繁る欅が雲梯を影で包み、その辺りの地面だけじっとりと湿っていた。その影の指先には徒長した梅の木が頼りなく植わっていた。

昼子は雲梯に近づいた。剥がれかけた塗装を視線でひっかくとホロりと落ちた。
これにしよう。昼子は決めた。

何かに宿る神がどのようにしているかはだいたいわかっていた。ずっとそこにいて、気に食わなければ祟る。それだけのことだった。昼子はそれをしてみようと思った。

公園はいつも人気がなかった。昼間はほとんど誰もこず、放課後の子供がたまに一人、二人と遊ぶだけだった。昼子は退屈したが、ここに宿る神として、雲梯を離れるわけにはいかなかった。

春、ぽつぽつと生えるスズメノカタビラを気まぐれに増やした。日陰になりがちな雲梯のまわりが少し明るくなった気がした。

オオバコ、スギナ、カラスノエンドウ。風に種を運ばせて、陽の光を引っぱってきて浴びせた。ノゲシ、ナズナ、ヒメジョオン。次第に雲梯のまわりは小さな野原のようになっていった。雑然さのない、ほどよく抑制された可愛らしい野原だった。バッタの幼虫が跳ね、テントウムシがアブラムシを食べていた。年中じめついた印象だった雲梯のまわりは、草花のための光で明るく、温かくなった。

その変化に気づいたのは、ときおり遊びにくる男の子だった。

その子はよく晴れた日に母親とだっこ紐で抱えられた妹を連れてきた。母親は腕の中の赤ん坊をゆったりと揺らしながら、男の子が雲梯を軽々といったりきたりするのを見ていた。

「気持ちのいい場所ねぇ。」

母親はそう言い、陽射しに目を細めた。

子どもが笑い、赤ん坊が泣き、母親が歌った。

その声たちが昼子を震わせた。心地よい振動にじっとしていられないような感じがした。浮き立つ気持ちで落ち着きなく漂いながら、雲梯とそのまわりを眺めた。

昼子は小さな野原も集う人々も、宿るべき雲梯に含めることにした。その方がずっといい雲梯だと思った。

人を増やすのは草ほど簡単ではなかったが、昼子は丁寧に手入れをした。雲梯から落ちる子供がいれば、小さな竜巻で受けとめてやった。泣きやまない赤ん坊には小鳥の声を届けた。疲れ果ててベンチに座り込む者には、その手元に花びらを運んでやった。

昼子の雲梯にはだんだんと遊びにくる人が増えた。昼間はベビーカーを押した母親たちが立ち話をし、夕方には子供が遊びにくる。夜は夜で煙草を吸いにくる人や電話をかけにくる人などがいた。

いつの間にかそばにベンチも置かれた。青いプラスチックでできたそれは中古品らしく、日焼けのせいで少し白っぽくなっていた。それでも、雲梯のまわりで過ごす人々をより寛がせた。

無駄に伸びるだけだった梅の木が少し幹を太くし、やっと蕾をつけた頃、昼子は男の子に気づいた。どんぐり頭でまだ幼く、やっと歩きはじめたくらいの歳に見えた。なのに、そばに親はおらず一人でいた。ずっと、いた。

夜になっても帰ることなく、雲梯の上で転がったり、座って足をぶらぶらさせていたりする。そして、人は誰もその子が見えないようだった。

その子はあまりに幼く、力も弱かったが、神だった。

紛れもない、雲梯の神だった。

そんな風に神が宿る瞬間を、昼子は何度か見たことがあった。人々が崇拝する岩に、愛用する筆に、それにふさわしい神が宿る。ただ、その神がどこからか来たものなのか、生じたものなのかはわからなかった。だから昼子は前者に賭けたのだ。それならば、自分も宿れるのではないかと思った。だけど駄目だった。来たのか生じたのかはわからないが、新たな神が宿ってしまった。それは、昼子がこの雲梯に宿れなかったことの何よりの証しだった。

昼子は、去ろうか、と思った。雲梯に神が宿ってしまっては、もはや昼子のいる意味など無いではないか。

だけど。

昼子は神に視線をやった。

幼い神はまず昼子が見えていないようだった。そもそも、昼子を認識する神など、これまでいたことがなかった。それどころか神々はお互いに話すとか、意思の疎通を図るということをしないのだ。少なくとも、昼子はそう理解していた。

見えていないなら構わないじゃないか。どうせ宿り神など何をするわけでもないのだ。昼子はそう思った。

昼子の予想通り、雲梯の神は他の宿り神と同じく、そこにいるだけで特段何をするわけでもなかった。ただ、神が笑えば雲梯は輝いて見えた。口をへの字に曲げているときにはくすんで見えた。神の機嫌が雲梯の雰囲気を左右していた。それだけのことだったが、昼子の胸は不思議と軋んだ。雲梯は昼子の機嫌で変化したりはしなかった。

昼子は自分の方がよほど良い神だと思おうとした。雲梯のために、ほどよい加減でしてきた様々なことを止める必要はない。どうせ雲梯の神には見えていないのだから。昼子は努めてそう思い、これまでと同じように雲梯での日々を過ごした。

急に、神の機嫌が悪くなった。

理由は知りようもないが、とにかく不貞腐れていた。そのおかげでまわりはどんよりとした。とはいえ、まだ幼く力もない神だ。その影響は小さなものだった。大人が雲梯に触ろうとすれば、ぱちっと静電気が走る。子供が遊ぼうとすれば、梯子部分がなんとなく湿って滑りやすい。その程度だった。それでも雰囲気の悪さは隠しようもなく、それが続くうちに雲梯にはだんだんと人が寄りつかなくなっていった。するとますます神の機嫌は悪くなっていった。

昼子は幼い神のために、人の子供が喜びそうなことをした。小鳥の歌を聞かせ、花びらを舞いあげて降らせた。オンブバッタを集めてジャンプを競わせた。だが、神はそれらを見ようともしなかった。

昼子は悲しかった。


秋と冬の境目に、一組の男女が雲梯を訪れた。まだ若く、お揃いの指輪をしていた。

落葉した欅が三次元の扇の骨を夕焼けに晒していた。低い軌道を行く太陽が、その日最後の眩しい光線を放っていた。二人はきつい西日に目を細めていた。

女性の方がマフラーをかけ直しながら言った。

「昔ね、この雲梯でずっと遊んでいたの。」

「へえ。思い出の場所なんだね。」

「うん。お母さんのとこに彼氏がくるとね、ちょっと公園で遊んでおいでって言われるの。夜の九時とか十時とかまでよ?」

男性の方が、口に飛び込んできた虫を噛んでしまったみたいに顔をしかめた。

「あのお母さんならやりかねないな。危ないじゃないか。怖かっただろ。」

うーん、と女性は視線を上にやりながら答えた。

「不思議とね、公園の中でもこの辺だけは怖い感じがしなかったの。雲梯をしたり、本とかゲームを持ってきたりしてね。なんか自分の部屋みたいに思ってた。ほとんど人にも会わなかったし。」

昼子は思い出していた。神にとってはほんのちょっとだけ前のことだ。彼女は少し離れたコーポに住んでいて、いつも暗くなってからやってきた。小さな赤い手提げを持って、心細そうな顔をして。

彼女の体は芽吹き始めた若木のように清々しい力に満ちていたが、その根元にはべっとりと重たい泥がまとわりついていた。昼子はその泥を毎回落としてやったが、次にくるときにはまたついていた。

昼子は街灯の光を引き寄せて周囲を明るくし、春の小鳥の声を小さく響かせた。夏には寄ってくる蚊を追い払ってやったし、寒くなってきたら空気を暖めてやった。悪い考えを持った大人や、彼女が見つかりたくない人がくれば、そういう者たちの視界から彼女を消
しさえした。

今の彼女には、もう泥はついていなかった。膨らみ始めた綿の実のような柔らかなエネルギーを蓄えて見えた。

女性がまるで楽しい思い出を話すようだったので、男性も思わず頬を緩め、冗談めかして言った。

「雲梯の神様が守ってくれたのかな。」

その言葉に女性は一瞬だけ動きを止め、まわりまで温めてしまいそうな笑顔を見せた。

「うん。それ本当かも。」

嬉しそうな声に、男性も口元をほころばせた。

「楽しみだね。」

自分のお腹に手を伸ばす男性を、女性は嬉しそうに見てうなずいた。

「うん。怖いくらい。」

彼女は愛おしそうに雲梯に触れた。

昼子はぼんやりと彼女の柔らかな横顔を見ていた。いつまでも見ていたいような気持ちがした。

彼女の指の隙間から滲むような光が漏れた。ねっとりと、豊かに輝く蜂蜜のような光が彼女の手から雲梯に注がれた。それは生きているように波打ちながら雲梯を伝い、やがて全体を包み込んでいった。昼子は見惚れた。

幼い神は雲梯の上に座っていた。とろりとした金色の蜂蜜は雲梯を伝って神に触れた。すると神の頬がほわんと光った。

雲梯の神はうっとりと目蓋を閉じた。そして目を開くと、ゆっくりと立ちあがって背伸びをした。空に向かう指先が体をぐんと伸ばした。そうして手を下ろしたときには、神は少しだけ大きくなっていた。赤子が幼稚園児になったくらいの変化だった。

それを見ていた昼子は引き寄せられるように雲梯に近づき、そっと触れた。自分も彼女のぬくもりを受け取れるような気がした。

しかし、昼子がそこから何かを感じることはなく、あるのは金属の殻に囲まれた虚ろだけだった。

わかっていたのに、なぜ触れてみようなどと思ったのか。

そうせずにはいられなかった自分に昼子は苛立った。

そうしてふと目をやると、雲梯の神と目が合った。

神はついっと目を逸らした。

ふっ、と冷たい風が吹いた。

昼子は神を見つめ続けた。

見えていたのだ。神は昼子が見えていた。できそこないのくせに雲梯に宿ろうと懸命になっていたことも、今、神の真似をして、できなくて落胆したこともわかっていたのだ。

昼子の中に重たい渦が生まれた。暗い色をして冷え切った、泥のような渦だ。

あの子の気持ちを受け取るべきは昼子ではないのか。彼女を守ったのは昼子だ。神はなにもしていないではないか。なぜ当然のようにあんな満ち足りた顔をしているのだ。

渦は自らの重みで勢いを増していくようだった。泥をまき散らしながら、昼子を内側から振り回そうとしていた。

夕暮れは終わりつつあった。美しい双子が共存する僅かな時間、太陽を追う金星が真直ぐにこちらを見ていた。

地面から湿った風が巻き上がった。

昼子は神の背中に飛びついた。そして首に食らいついた。口も歯もなかったけど、確かにそうした。神はなにも抵抗しなかった。

昼子は妙な痺れを感じた。とても細かな振動が昼子と神を同じように震わせていた。

流れ込んできたのは、少し冷たい春の風と土埃の匂い。

見えてきたのは、ヘルメットに作業着の男だった。

陽に焼けた顔に目尻の笑い皺が頬まで伸び、うっすらと無精ひげを生やしていた。皮手袋をした手で昼子をぽんと叩き、よし、完了、と言った。

見えていたのは雲梯の記憶だった。

昼子は雲梯そのものになっていた。宿るということはそういうことなのだと初めて知った。

設置されたばかりの雲梯は青かった。新しい遊具に子供たちが群がり、まわりでは大人が笑っていた。

すぐそこに見える公営団地では、ベランダにたくさんの洗濯ものが風にはためき、太陽の光を浴びていた。

まだ苗木に近い梅は白い花を咲かせ、その腕にメジロを遊ばせていた。雨が降ると雲梯の下には大きな水たまりができた。雨上がりには子供が水たまりを蹴散らした。

これを飲み込んでしまえば。昼子はそう思った。

この記憶を自分のものにするのだ。

雲梯の神になるのだ。


昼子はないはずの口を大きく開けなおし、あたらめて神を飲み込みにかかった。

小さな子供の形をしていると言っても、飲み込むには大きい。昼子は少しずつ体の奥に押し込んでいった。神は最後まで抵抗することはなかった。

そうして飲み込み終えたとき、昼子が見たのは空を這う大きな蜘蛛だった。銀色で少し透き通っていた。

昼子は世界中に蜘蛛の糸が張り巡らされているのを見た。糸は太陽の光とは関係なく輝いていた。蜘蛛は糸の捩じれをほぐし、破れを繕っているのだった。

昼子は糸に触れていて、そこから世界と繋がっていた。世界も昼子と繋がっていた。意識は糸を辿って世界中の生き物や草木や地面、そして神々へと広がっていった。すべての神々が自分のことのように感じられた。

そこに境はなく、太陽の神も月の神も、岩の神も土瓶の神も、そして雲梯の神も皆同じものだった。

何もかもが手に取るようにわかった。雲梯の神は昼子のことなど気にも留めていなかった。雨が降り、風が吹き、それらと昼子を別のものとはしていなかった。そういう在り方だった。

ふと、視界に違和感を覚えた。それは昼子の作った野原だった。可愛らしかったはずのそれは、どこか歪み、世界の調和をほんの少し乱していた。昼子はこれまでの自分が、その外にあるものだったことを知った。

今、昼子は世界の一部で全部だった。

昼子はこれまで感じたことのない幸福を感じていた。見えるものはすべて輝いて見えた。背筋に微弱な電流が伝うような刺激を感じ、お腹の辺りは妙に温かかった。今までこの感覚を知らずにどうやって生きてきたのか不思議でならなかった。

世界は喜びで満ちていた。命を奪われる恐怖でさえも、生の喜びの一部だった。昼子はプランクトンを食べるオキアミで、ピューマに追われるガゼルだった。死肉を求めるコンドルで、紅藻を食むアメフラシだった。

昼子は蟻になった。仲間のつけた匂いを辿って、乾いた土の上を歩いていた。大きな土の粒を乗り越えながら一心に。黒い体は太陽に照らされて焼けるように熱いが、そんなことはどうでもよい。とにかくこの匂いを追いかけるのだ。

そんな昼子に大きな影が覆いかぶさった。視界は一気に暗くなった。ふいに体を両側から挟まれ、そのまま空中に持ち上げられた。急な圧迫から逃れようと手足をばたつかせたが、なんの効果も生まなかった。

早く仲間の匂いを追いかけたい。昼子は切実にそう思った。そのとき、体がひっくり返され、女の子が見えた。まだ赤ちゃんの領域を出ないくらいに幼く、指で昼子をつまんでいた。つばのある帽子が太陽の光を遮り、顔に濃い影を作っていた。表情はよく見えなかったが、口の両端をにーっと上げたのがわかった。それと同時に幼い指にぎゅっと力が入った。終わりは一瞬だった。

暗闇の中、昼子の奥の方で何かがぐねりと動いた。

と思ったら、それは尻尾を叩きつけるように暴れ出した。太くて短い蛇がお腹にいるようだった。

蛇はどんどん膨張した。動きが大きくなり、昼子の体を持ち上げては地面に叩きつけた。

それを何度も繰り返され、昼子はなにをどうすることもできなかった。内側からの圧迫は度合いを強め、昼子には痛みと苦しみ以外何もなかった。

もういい。もういいから。

あまりの苦しさにそう唱えると、蛇は出口を見つけたように体を震わせながら昼子の背筋をのぼった。そして突き破るように空中に踊り出し、尻尾をうねらせて昼子を地面に叩きつけると、そのまま空へと昇っていった。

蛇と思ったそれは、空中に出ると真白なサギになった。昼子がはじめて雲梯を見たとき、水鳥だと思ったそのままの姿だった。

サギは嘴を天に突き上げ、覆いかぶさってくる夜を引き裂いて真っすぐに昇っていった。そうして雲の手前でふわりと一瞬止まると、世界を包むように大きく翼を広げた。昼子はその美しさに思わず見とれた。しなやかな曲線と清らかな白が目に痛いほどだった。

サギは翼をしならせ、風を味方につけて飛び去った。昼子は我に返って地面を蹴った。しかし、出遅れた昼子はサギを見失った。必死になって水場をめぐり、神だったサギを探したが見つけることはできなかった。もしかしたら見つけていたのかもしれないが、それをわかることはできなかった。試しに何羽か喰ってみたが、昼子には何も起こらなかった。

昼子は公園に戻った。力が抜けて、落ちるように雲梯に降りていった。

昼子は空中で動きを止めた。何が起こったのか理解できなかった。体が震えるほどだった。

雲梯にはビニールテープが張られ、『危険! 使用禁止!』と書かれた薄っぺらいベニヤ板がかけられていた。その札さえも雨風でふやけ、文字もよれていた。

よく見ると雲梯は塗装が剥げ、地が錆び、小さく穴さえ空いていた。可愛らしい野原だった雑草たちも、あるところは伸び放題に伸び、あるところは枯れきっていた。湿った地面には吸殻が落ち、スナック菓子の袋がはりついていた。

ほんの少し離れただけなのに、雲梯にとってはそれほどの時が過ぎていたのだった。

昼子は雲梯にもたれて空を見上げた。薄紫色の空には、欠けはじめの金星が輝いていた。昼子にはここを飛び立ったときの続きの空にしか見えなかった。

もう銀色の蜘蛛は見えなかった。糸も見えなかった。世界はただの世界だった。

ほんの少し前と同じはずなのに、何もかもが失われていた。昼子はあの繋がりがただ懐かしく、恋しかった。それを感じないでこれから存在してくことなど考えられなかった。終わりのない自分の生だけを感じ怖かった。

自分の中にできた重たい空洞を抱えて、昼子は泣いた。

口はなかったが、大声で泣いた。

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