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芸術家のオートエスノグラフィー #5 〜藝大〜

#4 はこちらから

東京藝術大学での学び

 法晃が過ごした美術科高校入学から東京芸術大学を卒業する1990年代から2000年にかけての日本では、公共性に支えられた近代の美術館の制度から離脱し、横浜トリエンナーレや越後妻有アートトリエンナーレなどのパプリックアートと呼ばれる、美術館だけでなく自然野外や街の中などでのインスタレーションや、市民を巻き込んだプロジェクト型の芸術活動が盛んにおこなわれるようになった時代であった。

 また、「現代美術」の傾向に関して松井が、

①60〜70年代の前衛の姿勢と方法のリサイクルと、その現代的な問題点や感覚を通した変容を図る新たなコンセプチュアル芸術
②作品を通した事物の現前や、直接の身体的知覚的な効果を重視する彫刻、映像、アクション、絵画の表現によるモダニズム精神の現代的再生
③地域文化や大衆文化を含めた現代社会の現実を構成する様々な意味の体系や文脈、手段の行動原理や集合的感情を反映するイメージを創造の母体や批判の対象として、個人の現代社会への解釈を示す絵画や映像
④ポスト構造主義的社会分析を軸として、現代社会の制度の矛盾を明確にし、断片的な視覚を通して観客の政治意識の覚醒や現状打破的な行為を引き出す左翼的表現
⑤グローバル化や時代の社会環境の激変や、ポスト植民地時代や移民を通した文化的越境に対応する形で現れ、現代美術表現のあらゆる方法を借りながら、特殊な地域的現実を反映し、それに集合的な意義を与えようとするアジア、南米、イスラム圏、東欧などの『ハイブリッド(異種混合的)』な現代美術[松井2010, p.176]

松井みどり(2010)『混沌を抜けて進化するもの -人間化する現代美術-』美術手帖 62(933) pp.176-180

であると、5項目に分類している。法晃はこのような背景の中で大学時代を過ごすことになる。しかし法晃は、「現代美術」という言葉さえも知らないまま入学したような学生であった。本項は、東京芸術大学においての法晃の学びと気づき、出会いを通して制作に対する考え方が形成されていく過程を記述する。

 1998年度東京芸術大学美術学部彫刻科に入学した時は1学年の定員が22名であり、合格倍率は約21倍であった。東京芸術大学を受験する者は全国各地の美術予備校で受験対策をし、人によっては何浪もして入学する。法晃は現役で合格することができたが、同期に同じ年齢の学生は22名中2名であった。1、2年次は基礎的な実技として塑像、金属、石、木などのアカデミックな素材を使用し技法を学んだのちに、与えられた課題制作をする。3年次からは研究室に入りそれぞれの教授のもとで自らの作品制作をおこなう。

 東京芸術大学彫刻科は、基本的に教授からの指導はない。というより、指導を受けた記憶が筆者にはない。教授の仕事や個展などから技術を盗み、それを自分の制作に活かすことで学ぶものであると認識していた。中学や高校とは違い、教師との関係というしがらみがないということで法晃にとって理想的な環境であると感じていた。就職指導は一切なく(当時はそう感じていたが現在はキャリアセンターが存在する)、就職支援は個別に教授に相談したりコネクションで会社などに入ったりすることが多いようであるが、それは少数である。東京芸術大学に入学するイコール作家として生きていく。という決意のもとで入学する学生が多い。4年間で学科は20単位。その内必修科目は法学と美術解剖学で各4単位。大学に在校するほとんどの時間が作品制作の時間であった。

 法晃の大学生活の4年間は芸術観を養うための場であったと同時に、様々な人との出会い、つながりを構築した場であった。出会いに関して、大学時代の記憶で多く蘇ってくるものは野球部においての活動である。彫刻科は1学年の人数が他の科と比較すると少なく、彫刻棟や絵画棟、デザイン棟など、各科が建物によって分かれているため、彫刻科の先輩や後輩との交流はあっても、日常的に他科の学生と交流する機会があまりない。法晃は野球部に入部することで他科の仲間を増やしたいと考えたのである。

 その要因として、彫刻科の同期との関係がうまくいっていたとはいえなかった事情がある。法晃は現役合格をしたが、同期に多浪生が多かったという理由があげられるかもしれない。暗黙の上下関係が構築され、同学年の中でも年功序列のようなものを感じていた。塑像の課題制作をしていた時に、同期の学生との会話のなかで、「教授から好かれないと未来はないよ。」と言われたことを記憶している。さらに、「教授の嗜好に寄せるような表面処理を考えている。」などといった言説をいくつか聞いたのである。法晃にとってこの大学は、自由で創造的で、芸術は「なんでもあり」であると考えていたが、同期の学生は将来を見据えて制作をしていたのである。法晃にとっては、大学に入るまでの経験が長い浪人生がもつ、現役生にはない明確なビジョンを感じたが、一方で、教授に対して媚を売っているようにしか思うことができなかったし、失望したことを記憶している。そういったこともあり、同期とは少し離れた距離感を保つようになった。

 しかし、野球部に入部したことで、多くの仲間に恵まれることになった。現在においても、連絡を取り合うのは同期よりも野球部の仲間のほうが多い。様々な科の学生が存在したが、野球部の活動は、たまに開かれる試合後の飲み会が主であった。学年も年齢も出身地も多様であり、自分から話さなくても、話を聞くだけでも楽しかった。飲み会の後は全員道に倒れこむような、めちゃくちゃな有様であった。そして、その場では年功序列がなく、法晃も皆と同じように接することができた唯一の場であった。「お前が同期といたところ見たことないわ。ひとつ上の学年に入ってたらもっと楽しかっただろうな。(MTへのインタビュー2015,11/21)」と野球部であり彫刻科の先輩は回想している。彫刻科の同期との飲み会では、教授の動向や美術業界の動勢など、真面目な話ばかりであった。法晃はそれについていくことができず疎外感を感じていたが、野球部の学生とは美術の話を全くといって良いほどしたことがなかった。人間と人間どうしの関わりあいの大切さ、その充実感を実感した経験であった。

 そして大学4年生の時の、東京都美術館で開催された卒業制作展において、驚くことであるが、法晃は初めて野球部の彼らの作品を見たのである。美術の話をしたことがない先輩や他科の同期たちの作品を見て、心底感動したことを覚えている。権威や美術業界の動勢が芸術家としての基礎を形成するのではなく、「人間が芸術を作りだしている。芸術が人間を突き動かしている。」のであると実感したのである。


#6 につづく


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