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「死にたい」と仲良くする

どんなタイトルだよ、と自分で思う。

でもと仲良くしないとなあ、という軽めの義務感を最近持ち始めた。

「死にたい」はずっと私の中に住んでいる。
そして割と高めの頻度で、存在感をギンギンに放つ。

大家からすれば、正直めちゃくちゃ鬱陶しい。

こういう話を身近な人にすれば心配させてしまい申し訳ないので、極力漏らさないようにしている。
死にたいという概念がない人からは「そんな事言わないで」「ダメだよ」と言われたことがあり、正論と自身の気持ちが水と油のように反発し合って気持ち悪さを覚えた。

「明日を生きられない人もいるのに」と言った意見もあると思うが、非難を承知で言えばこの言葉が嫌いである。

それ自体、今自分が死にたい気持ちとは全く別の問題だと思うからだ。
それに、心の底から生きたいと思っている人の命と私の命の重さは同等では無いと思う。


とはいえ、死にたいを否定してくれる方の「優しさ」を無下にしては行けないという気持ちも少なからずある(つもりだ)。


こんな私だが、誰かと飲みに行くとか金曜のバラエティ番組が楽しみだとか、近い未来の希望もあれば、将来結婚して子どもが欲しいと言った遠い未来の希望も持っている。 

友達にも恵まれている。
環境だって悪くは無いはずだ。

これは有難いことである。傍から見れば、死にたくなる要素は無さそうだし。


でも、ふいに「死にたい」がやってくる。
ヘリウムガスの抜けていく風船のように、重力に逆らう力が失われていくのだ。

原因を考える事に疲れ、もうずっと「死にたい」を住まわせている。ヤツは腐れ縁の住人である。

ヤツは我が物顔で暮らしているが、「希望」は生まれた時からそこに暮らしている。なんならヤツよりよっぽど付き合いが長い。


希望と死にたいは決して対極では無い。
それらはいつも同じ空間に居て、隣り合わせで在り続けるものだと思う。

「死にたい」に限らずだが、自分の気持ちと仲良くしてあげられるのは自分しかいない。自分の中にちょっとの責任だって生じる。これを少しでも楽しめるようになれれば、仲良くするのも悪くないのかもしれない。

ただ、次の住人はもう少し手のかからない人がいいな。




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