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誰を生きたか忘れちゃった
素直であることは、私のアイデンティティのひとつだ。
『すなおデザイン』をいう屋号を掲げて個人事業主として生きている私にとって、「素直さ」は恐らく切っても切れないものである。
ところが、それによる避けがたい問題が起きている。
その「素直さ」が、成長どころか自分を苦しめる最大の要因になってしまっているのだ。
自分の性格に飲み込まれそうになっているという、まさかの事態である。
中学校の卒業アルバムの寄せ書きページ。
担任が、「楓花は低反発クッションのようになんでも受け止めてくれる」という言葉を記してくれた。
嬉しい言葉だが、その反面危険を孕んでいることに気づいたのは最近だ。
低反発クッションのまま大人になった私の最近は、常に言われっぱなしで論破されるのを恐れて大した反論ができず、ただただ泣いて終わる、というのがお決まりパターンである。
あれもこれも向いてないとか、だから言ったのにとか、良くも悪くもとれる言葉を悪い方向に捉えて全部を全部吸収してしまってかなり汚れてしまったように思う。
そもそも、「反論」しようと思っている時点で間違っているのかもしれない。
自分の考えを思ったまま伝えればいいはずだ。
コミュニケーションの取り方まで分からなくなりかけている。重症だ。
いつから自分の考えを出すのを恐れるようになってしまったのか‥と過去の自分に思いを馳せながら、今日も朝が近づいてくる。
変に怖がって殻に閉じこもってしまっているのは私なのではないか?
ぼんやり感覚としてあるが、ここがきっと分岐だと思う。
誰の人生を生きているのか分からない。
「自分を大切に」という言葉すら未だに意味がよく分かっていないのだ。
26年も生きてきてそりゃないぜ‥と自分自身に絶望する日々で、けっこうしんどい。
私は生きていていいのだろうか?
このままの人生でいいのだろうか?
漠然とした不安だけで埋め尽くされた頭は、まるで使い物にならない。
冷たく言えば、さまざまな言葉をくれる人たちは私の人生の責任を取ってくれる訳ではない。
”私のことを想って”言ってくれている言葉のしんどさ。
私にも非は大いにあれど、私の好き勝手に生きてもいいのではないか。
・・というくらいどんと構えるにはあと何十年かかるのだろうか?
勝手に生きろよ、と思うだろうが、それができないめんどくさい性格を愛し恨むまでだ。
自分の性格上極力無理のないように、欲しい情報だけを選択して生きていきたいものである。
なんなんだ、この人生。
今後どうなるか分からないが、26年生きた率直な感想はそれである。
しかし、完全に希望を捨てた訳ではない。
生きるのは簡単ではないと思うが、死ぬ勇気もないので、このままだらりと生きていくのだろう。
そして2024年は、もう少し明るい話題を書けたらな、と密かに自分に期待をしている。
一番嫌いな言葉は「過度な期待」だが、あえてそうしてみようと思うのだ。
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