見出し画像

新刊「てのひらの夢魔 中乃森豊ショートショート集」のお試しとして第1話を公開いたします。

第1話 夢蜂と獏

 この数ヶ月の間、毎晩のように同じ夢を見る。
 正確に言うと同じ夢ではなく、一連の夢が続いている。まるで長い連続ドラマでも見ているかのように。
 その夢は決まって、ある静かな森の奥に広がる花園の光景から始まる。季節は初夏のように思えるがよくわからない。深く鮮やかな青空を覆うように新緑の枝葉を伸ばした樹々のトンネルを抜けると、色とりどりの花々が咲き乱れる園が現れる。花は薔薇に似ているような気もするが、私はその名を知らない。空からは陽の光が降り落ち、園のただ中に置かれたアンティークのテーブルと二脚の椅子を白く輝かせていた。
 その椅子にはタキシードに蝶ネクタイを締めた一頭の白い獏が腰を下ろし、虹色の瞳をこちらに向けている。獏は優雅な仕草で手にしていたティーカップとソーサーをテーブルの上に置くと私へと微笑む。
「ようこそ、お待ちしておりました」
 この花園を訪れるのも今日でちょうど百夜目だった。
 獏がジャケットからはみ出た腹を揺らしながら椅子から立ち上がると、その巨体に似つかわしくない俊敏さで自らの向かいにある椅子を引き、そこへ座るよう私を促した。
 私が腰を下ろす絶妙のタイミングで獏は後ろから背凭れを押す。椅子が腰に吸い付いてくるように私は自然に席に着く。
「今宵も夢蜜入りのお茶をご所望ですね?」
 私を見下ろす獏の細められた目が妖しい光を放った。
 私は即座に頷く。もう何杯も味わったにもかかわらず、「夢蜜」という言葉を耳にした途端、口の中には唾液が満ち、手足が震えた。
「では、今夜は特別にあなたに夢蜜を採取するところをお見せ致しましょう。どうぞこちらへ」
 獏が私に手招きすると花園の奥へと続く石畳の小道を二足歩行でゆったりと歩いて行く。私は椅子から立ち上がって、礼服姿の獣の後を追った。
 
 石畳の先には円形の小さな噴水があり、その中央に羊の頭部を模した石の彫刻が鎮座して、口から澄んだ水を吐き出していた。
 獏は噴水の傍までやって来ると私へと振り返る。それから羊の彫刻の頭部をそのふっくらとした白い手で撫でた。
 どこからか大気を小刻みに震わせるブーンという音が響いてきた。するとエメラルド色に光る小さな蜂達が群れをなして方々の茂みから飛んできては次々と羊の彫刻の両耳に開けられた穴へと潜り込んでいく。
「どうやら今夜も夢蜂達は夢蜜の回収に成功して、無事に巣へと帰って来たようです」
 夢蜂と呼ばれた緑色の蜂達が羊の石像に吸い込まれて行く度に、噴水の波打つ水面にとある光景が浮かんでは消える。それはどれもベッドや布団の上で眠っている人々の姿だった。蜂達はその睡眠中の人々の耳に取り付くとモゾモゾと小さな尻を振って耳の穴の奥へと潜り込んで行く。
「夢蜂達は夜な夜なこのようにして眠る人々の下へと飛んで行き、耳の穴から頭の中へ潜り込み、そこにとろりと詰まった夢蜜を集めて回るのです」
「つまり夢蜜というのは我々が寝ている間に見ている夢そのものということなのか?」
 私の問いに獏は長い鼻を持ち上げて二本の牙の間からくぐもった笑い声を漏らした。
「ご名答です」
「それで? どうやって夢蜜を採るというんだ?」
 待ち切れなくなった私は苛立ちを露わにして話の先を促した。
 獏が「まあ、そう焦らずに」と言うように片手を挙げて私を制すると、胸ポケットから小さなスポイトを取り出し、羊の石像の目頭から涙のように湧き出た琥珀色の液体を吸い取った。
「それが夢蜜なのか? は、早くそいつを飲ませてくれ!」
 伸ばした私の手をかわすようにスポイトを高く掲げると、獏は野太い声でぴしゃりと言った。
「お席でお待ちください。今、お茶を淹れて参りますので」
 園の奥へと消えていく巨体を見送ると、私は半ば放心してすごすごともと来た道を引き返して椅子の上に腰を落とした。
 とっさにテーブルの上に残されたティーカップを覗き込んだが、茶は一滴も残されていなかった。カップを払い落としてやりたい衝動に駆られたが何とか堪えた。私はあくまでこの園に迷い込んだ闖入者に過ぎず、主人たるあの獣の言いなりになるしかないのだ。
 やがて石畳の向こうから銀のトレーを手にした獏がやって来ると私の前にカップを置き、ポットから淡い菫色の茶を注ぎ入れた。それから胸ポケットから例のスポイトを取り出し、琥珀色に鈍く光る夢蜜を垂らした。菫色の茶は金色に変わり、眩い光を放ち始める。
「さあ、どうぞ、お召し上がりください」
 私は震える手でカップを握ると湯気を上げる熱い茶を喉が焼けるのもかまわず一息に流し込んだ。舌が根元から溶け落ちるような甘露に脳と体が激しく痙攣する。
 刹那、私の頭の中に幾多のイメージが爆発するように花開いた。理性のタガが外れた非現実的かつ甘美で恐ろしい幻想が私の意識を呑み込み、木っ端微塵に吹き飛ばす。その後に来るのはきまって恍惚とした多幸感だった。
「またのお越しをお待ちしております」
 獏の妖艶な笑みを視界の隅にとらえて、私は夢から覚醒する。
 
 ベッドから跳ね起きた私は転がるようにアトリエに駆け込むと絵筆を手にして描きかけのキャンバスに対峙した。まだ頭の中に渦巻く夢の残滓を頼りに絵の具をパレットに絞り、画布に絵筆を走らせる。そうやって私はこのところ絵を描いていた。
 あの夢の園で夢蜜を味わって以来、私の絵は劇的な変化を遂げた。それまでまったく買い手のつかなかった作品も瞬く間に売れ、海外のオークションでも高値で取り引きされ始めている。日々の食事にすら事欠くこれまでの貧乏暮しは一転し、美術雑誌では夢と現実を織り交ぜる画風の驚異の画家として特集まで組まれた。もはや夢蜜の力なくしては私の画家としての人生は成り立たなくなっていた。
「最近、画風が変わったな。何かあったのか?」
 美大時代からの親友でありライバルでもある堀木が私のアトリエを訪れるなりそう言った。
「まあ、自分の中に眠っていたインスピレーションが少しばかり目覚めただけだ」と私は誤魔化した。
「でも、俺は以前のおまえの絵の方が好きだったよ。たとえ一般受けはしなくてもな」
 私はムッとして黙った。学生時代に難なくデビューを果たし、作品が高額で取り引きされている堀木に売れない画家の惨めな暮らしの何がわかるというのか。
「堀木、おまえ、ひょっとして俺の才能に嫉妬してるのか?」
「俺はそんなつもりで言ったんじゃ――」
「もう帰ってくれ! 偉ぶった貴様の説教など聞きたくもない!」
 こうして私は唯一の友を失った。
 
 それから二週間あまりがすぎた夜、いつものようにあの花園で夢蜜入りの茶が出てくるのを待っていると、獏が言った。
「お客様、今宵の夢蜜は格別に美味しくお召し上がり頂けることと存じます」
「どうして?」
 獏が口の端を上げて、にいっと笑うと手招きした。
 私はその後について石畳を渡り、噴水の前に来た。辺りからブーンという羽音が近づき、飛んで来た夢蜂達が羊の石像の耳へと吸い込まれていく。噴水の水面に堀木の寝顔が映った。寝返りを打つ彼の耳の穴へと数匹の夢蜂が入り込んでいく。そこで映像が途切れると羊の石像の目に琥珀色の涙が滴った。
「まさか……」
 獏はスポイトで吸い取った堀木の夢蜜を見せて笑う。
「ただ今、お茶の用意を致しますので、お席の方でお待ちください」
 
 堀木の夢蜜を私が飲み干したその夜以来、彼はすっかり絵が描けなくなり、筆を折った。
 私はというと、夢蜜を過剰に摂取した副作用なのか、いつしか現実の生活に夢の要素が入り込むようになった。花瓶に生けた花が突如、猫の顔になって鳴き出したり、画布に向かって絵を描いていたつもりが、気がつくと周囲の何もかもが音と動きを失い、自らが何者かによって描かれる絵の一部になっていたりした。もはや悪夢のような現実を生きているのか、現実のような悪夢を見ているのか区別がつかなくなっていた。
「どうにかしてくれ! このままではおかしくなってしまう!」
 ある夜、花園を訪れた私が訴えると、獏は菩薩のように柔和に微笑んだ。
「どうして人は夢と現実を区別して考えるのでしょうかね。あなた方が現実と呼んでいるものも、その頭蓋の中にある脳という肉塊が紡ぎ出した浮世の儚き幻想、一夜の夢魔にすぎないというのに」
「そんな御託はいいから、とにかく何とかしてくれ!」
「わかりました。では少々お待ちください」
 そう言うと獏は花園の奥へと消えた。
 ずいぶん長い間、獏は戻って来なかった。私は心地よい日差しに眠気を誘われ、いつの間にか居眠りをしてしまった。夢の中で居眠りというのも実に奇妙な話ではあるが。
 獏に肩を揺すられて私は目を覚ました。テーブルには黒い湯気を上げるコバルトブルーの茶が入ったカップが一つ、ソーサーの上に載っていた。私が手を伸ばすと、獏がそのカップを取り上げる。
「何をするんだ。そいつをさっさと飲ませてくれ。それがこの酷い副作用を治す解毒剤か何かなんだろう?」
 獏は静かに首を左右に振った。
「これはあなたではなく、私が飲む夢蜜入りのお茶です」
 そう言って、獣は喉を鳴らして茶を飲み干した。そのとき、聞き覚えのある羽音が鼓膜を打った。その音の大きさに私はドキリとする。何だか耳の奥がこそばゆい。私の耳の穴から飛び出した一匹の緑色の蜂が陽の光を浴びて宝石のように煌めいた。
 花園の彼方へと消えていく夢蜂を見送りながら獏が笑った。
「どうやら最後の一匹も無事に巣へと帰るようです」
「まさか……今、おまえが飲んだのは、私の夢蜜……?」
 獏は焦点の定まらないうっとりとした虹色の瞳を私に向けると、口の端から垂れかけた涎を素早く舌で舐め取った。 
「あなたが〈現実〉と呼ぶ悪しき夢現は最高の美味にございました」
 突如、視界が暗くなり始めた。安らかなる眠りが救いの手を差し伸べてきたのだ。
 
 どこからかブーンというあの夢蜂の羽音が響く。
 
 次に私が目覚めるのは、果たして、夢か現か……。〈了〉


*残りの27話は以下の電子書籍にてお楽しみください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?