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雨は半分やんでいる

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 ねれないね。コーヒーでものむ?余計ねれないよ。じゃあレモネード。僕はホットミルク。あたし牛乳嫌い。しってるよ。

 やかんを火にかけマグカップをふたつ用意しキッチンにもたれスマホをいじっている間にユズは寝息をたて始めた。やかんの蓋がおかしそうに震える。火を消して湯気をたてるやかんを放置し牛乳を注いだマグカップを電子レンジにかける。レモネードの粉末が入ったマグカップにはラップをして、どうしようもないなと思う。どうしようもなく苛々する。理由はない。目の前にはない。うまく説明できない。ユズのせいではない。誰かのせいではない。僕のせいだ。気圧のせいでしょ、と母はいった。男の子の日、とユズは笑った。目の前の行動をひとつずつ言語化する。意味は必要ない。冷蔵庫を開ける。卵を数える。冷蔵庫を閉める。水道をひねる。手を洗う。手を拭く。おまじないのように。今だけに焦点をしぼる。けれど何かがぼやけてしまう。ああ、苛々する。理由はない。レンジが鳴った。ホットミルクは飲みたくない。今夜は暑い。暑くて静かで、苛々する。どうして生きているのか、わからなくなる。

 扇風機のタイマーを一時間に設定し、ユズの耳元に寄る。「ちょっと出てくるね」こたえはなくて、怖いものなんてないみたいな寝息が胸をくすぐる。ユズがいればいい。それ、ほんと?半分ほんとで、半分は、ほんとだったらいいなって気持ち。

 そっと外に出て熱気。雨の匂いがしたような気がする。星が見えないからそう思っただけかも。ゆっくり鍵を回す。鍵がかかったことを確認する。スリッパが擦れる音。ポケットのキーが揺れる音。車のロックを解除する音は、なんとなくだけど罪悪感。静かな夜に場違いな。場違いな僕。居場所がないなんて思わない。ユズがいて、親も祖父母も生きている。静かな夜に、車の中でひとり煙草を吸っているのが避難だなんて思わない。ときどき。ときどきどこにいればいいのかわからなくなる。どこにいても落ち着かない。逃げ出したい。きっと、自分自身から。エンジンをかける。今日はたぶん、うまくいってしまうのだろう。義務的にアクセルを踏む。

 コンビニでポカリスエットを買って助手席のボトルホルダーに差し込む。それからダッシュボードテーブルを引き出してそこに蛙のぬいぐるみを寝かせる。カーエアコンはいれず、全ての窓を細く開けておく。準備はそれだけ。あとは偶然を待つしかない。条件はひとつ。まっすぐ続くバイパスを走っているうちに雨が降り出すこと。あとはできるだけ恐怖を引き出しておくといい。感覚が鋭くなる。ぼやけた闇が過ぎ去っていく。夜の輪郭の中に人型を探せば怖くなれる。ちらちらとバックミラーを確かめてみるのも使える。ほら、もう首筋が気になり始めた。僕は臆病だから怖がるのは得意。蚊が腕に触れたような気がする。気になるが払わない。ちくちくを蓄積させる。いつも初めに皮膚感覚が過敏になる。そうなればあとはそれほど難しくない。怖がる気持ちができてしまえば体が勝手に見たくないものを探す。あるいは作り出す。存在しない何かを。生存本能なのだろうか。未知への恐怖は加速する。アクセルを踏む足に力が入る。暑いのに寒くなる。何かに覆われているような感覚。何かから守ろうとしているのだろうか。体が。体を。僕ではなく。背中を汗が一筋流れ、ぞっとした。あまりにも静かだから。真っ白な無音に入る。真っ黒じゃなくて真っ白。ハンドルから伝わる振動に集中しなければ操作を誤ってしまいそう。それで手の感覚に注意をひかれていたから、いつ雨が降り出したのか僕にはわからなかった。気がつけば大粒の水滴に向かい突き進んでいて、車体を打つ音に心地よく包まれていた。どうしてか、海の底みたいと思う。全然違いそうなのに。第二宇宙速度で宇宙へ飛び出す感じ?やっぱり海の底みたいだ。沈んでいく。ひとりで。隣の彼と一緒に、ひとりで。

 それで?と彼がいう。何が問題なんだろう。周辺視野に彼を意識しながら僕は「わからない」と応えた。彼のことを見てはいけない。きっと後悔するだろうから。彼がみじろぎする。きっと足を組んだのだろう。

「こういうのはあまりよくないと思う。何が問題か、君もわかっているのだろう。君はただ受け入れたくないだけだ。自分を、現実を。僕を呼び出しておいてそして君はわからないなどという。そうさ、話すべきことなんてありはしない。考えるべきことなんてないのさ。君はただ行動しなければならない。霞を食うようなことを続けても仕方がない。そんなことを言われたいわけでもないだろう。結局君はそれを気に入っているのさ。傲慢な憂鬱だ。つまらないね。精神科へ行ったんだって?」

「内科の勧めでね。僕の胃はすこぶる健康だったそうだ」

「それで哲学書を処方されたわけ」

「生きている人間は誰も助けてくれないのさ」

「実に滑稽な陶酔だ。そのハンドルを切ればいいじゃないか。海の底へ飛び込めばいい。君にはできっこないけどね」

「苛々する」

「どうすればいいのだろう」

 どうすればいいのだろう、と僕は繰り返した。彼は窓を全開にした。あるいは僕が。それで、おしまい。隣を見ても彼はいない。僕はひとり。けれど内側に熱を感じる。怒り?なんでもいい。生きている。僕は生きてきて、生きていて、生きていく。これで大丈夫。何も変わらないけれど。赤信号。ガラス越しではない路面は銀色に輝いていて生々しい質感。焦点が合っているんだ。今に。よかった。何が?うるさいな。苛立ちは残ったけれど、さっきまでとは違うもの。うすっぺらいか?仕方ないさ。ここからまた始めるしかない。ああ、僕は恵まれている。雨に欲情するのはおわり。

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