アイノカタチハナス

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 カタチなくとろけてゆくものをチーズと呼びアイと呼ぶ。ただし彼女はナスと呼ぶ。ナスにはカタチがありとろけない。カタチなくとろけるものはチーズであり、アイはナスである。道端にナスが落ちていた、と始めてもよいのだろうか。どうして道端にナスが落ちていたのか、僕には今でもわからないのだけれど。ましてやアイが落ちているなんてことは。
 道端にナスが落ちていた。
「アイが落ちてる」
 手を伸ばす彼女を制止しナスを見た。
「どうしたの」
 彼女の瞳に少し動揺したが、誰かの愛に気安く触れないでほしいと伝えた。彼女は少し考えてから「そうだね」と頷いて歩き出した。家に帰りつくと僕はスーパーの袋から食材を取り出しながら「そういえば僕のナスはどうしたの?」と尋ねた。
「昨日麻婆茄子にして食べたよ。私のと一緒に」
「チーズをかけて」
「そう。だから明日には」
「でも僕は、ほら、便秘だから」
 ならもう少し時間があるかもね、と彼女は笑った。僕はお風呂をいれてくるといってリビングを出て、少し泣いた。どうして彼女が笑ったのかわからなかった。明日には、僕らのアイは、僕らの身体から離れていってしまうかもしれないのに。今はまだ、僕が彼女をアイしていると思っているように、彼女も僕をアイしていると思っているはずなのに。けれど僕は何も言わなかった。今という刹那的なアイまで失くしてしまうのが怖かったから。
 二人でベッドに入ってからしばらくすると、彼女はやっぱり道端で見たナスが気になるようで、僕らは手を繋いで散歩へでかけた。けれどもうナスは落ちていなかった。だって、彼女がお風呂へ行っている間に僕が回収してしまったから。彼女はきっと夜中に、それを探しに行くと思ったから。
 ベッドに帰りつくとすぐに僕は彼女を抱き、彼女は僕を抱いた。そしてアイの始まりのような困惑を抱え眠りに落ちた。今が少しでも永く続きますようにと、そう祈りながら。
 夢の中で、先生に扮した彼女が笑った。
「アイはこの世に存在しません」
 僕はその言葉を疑わず、数学の問題を解いていた。彼女は何も知らない僕に、いろんなことを教えたり、教えなかったりしてくれた。たとえば、未来にアイがあるなら今のアイはなんなのかとか、過去のアイがナスならそんなもの美味しく食べたり食べなかったりして思い出になるだけなんじゃないかとか、そういうことは教えてくれなかったけれど、そうやって今を大切に紡いでいくしかないんだということは教えてくれた。彼女はナスを見て「青い心臓みたい」というけれど、僕には青ざめた胃に思えて仕方なかった。
 僕のナスを彼女が見つけたとき、僕は初め彼女の話を笑って聞き流していたけれど、彼女は泣きながら「ありがとう」といった。
「これはね、あなたがあたしを本当にアイしてくれた証拠だから」
 手の甲で涙をぬぐう彼女を抱きしめながら、アイの証拠なんて欲しくないと思った。アイしあっていることを信じ続けたかった。けれど現実に今は過去となり、アイはナスになった。
 目が覚めると、彼女の姿はやっぱりなかった。僕の手元には道端に落ちていたアイが、アイだけが残されていた。けれど、誰のものかわからないアイなんて、僕にはただのナスでしかない。そして彼女のナスは、確かにアイだったと思った。思いたかった、だけなのかもしれないけれど。
 そんなことを考えながらトイレに座っていた僕ははっと気がついた。僕は、彼女のナスを見ていない。彼女が僕のナスと自分のナスで麻婆茄子を作ったという話をきいただけで、彼女のナスを見ていない。もしかすると、彼女のナスは存在しなかったのではないか。それはつまり、彼女が僕をアイしていなかったか、もしくは、彼女が僕をまだアイしている、僕へのアイをまだ過去にしていないということ。その可能性。
 僕は慌てて家を飛び出そうと扉に手をかけ、そこでひどい倦怠感を覚えたのだった。

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