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ブルーアント

1 虎吾カン


 ガラスの水槽を上から覗き、走りまわる黒いぶつぶつを眺める。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、そんなに急いでどこへ行く。


「健気だなあ」


 ぼくは、あくせく働く彼らを見ては、時間を忘れ水槽の前に座る。返事もしないのに話しかけてみたり、コンコンとケースの壁を叩いてみたり。水槽いっぱいに入れた土のなかへ伸びる巣は漫画の吹き出しのような部屋を作りながら下へ下へとトンネルが分かれる。それぞれの部屋は食料を貯めておいたり、子ども部屋になっていたり、休憩をする部屋などになっている。庭先で拾った昆虫の死骸を餌代わりに入れてみるとせっせと分解して運んでいく。たまに薄めたハチミツを垂らしてみたりもする。


 彼らは皆、兄弟だ。ある五月の休日、結婚飛行を終えた一匹の女王アリを採集した。シングルマザー独りで巣を掘り子どもを産んだところから一族が始まった。産まれた兄弟たちがさらに巣を掘り、餌を獲り、下の兄弟たちの面倒を見る。家系図で言えば、母親の下へのびる線に、何百、何千という数の子どもたちが並列に広がる。


 ぼくはこのコロニーのなかで青い蛍光塗料を腹部に付けた個体をブルーと名付けた。ブルーはきびきび働く集団のなかでびっこを引くように進むのが目に止まり、身勝手なぼくに選ばれた。はじめてブルーを見かけたのは飼育ケースのなかで巣が出来上がってしばらくしてからだった。最初は気にも留めなかったが、いちど気になり始めると今日はどこにいるのかと探している自分がいた。それから、すぐ分かるようにとしるしを付けたのだった。


「ブルー、きょうも鈍くさいな」


 ぼくは笑いながら語りかける。ブルーは大抵、水槽ケースのなかをぐるぐると歩きまわっているが、足で稼ぐタイプのくせに他のメンバーから後れを取っている。それがなんとなく哀れを誘い、ぼくは慰められる。

 先日、ブルーの近くに餌を置いてあげようと思い立った。あまり贔屓にするのも卑怯かと思ったものの、開き直って角砂糖の欠片をブルーの進路の延長線上に置いた。ブルーは砂糖を発見するとすぐさま食料の存在を仲間に知らせているように見えた。ぼくはひとり、ヨシヨシとつぶやいた。ブルーの手柄にまるで我が子が表彰状をもらってきた気分だった。親になったことは、まだないのだけれど。

 午前七時三十六分の急行は乗車率百パーセントを超えている。戦友たちとともに既に満員の電車が到着するホームにたたずむ。左右に振られること十五分、吐き出されるように会社の最寄り駅に到着すると、雨の日も晴れの日もさらに十分歩く。自社ビルが見えると、気合を入れなおして三階にある自分のデスクへと向かう。必ず同じシマの上司と同僚のパソコンの電源を入れてから自分の席に着く。少しでも仲間の待機時間を減らすためだ。意味があるかどうかは別にして、入社したての頃からおまじないのようにやっているルーティンだ。八時半の始業とともに客先へ電話を掛け、仕事が始まる。


「おはようございます、巽です! 毎度さまです!」


 世間話にはじまり相場モノ商品の価格や情勢、顧客の機嫌などをひととおり確かめながら喋る。成約につながれば儲けもの、常にアンテナを張りながら、いざというとき顧客のあたまに浮かぶようコンタクトを取っていくことが大切なのだ。

 仕事をはじめてから性格が社交的になったと父親に言われた。精いっぱいの誉め言葉だったのだろう。ふうん、と素っ気ない返答をした。希望していなかった営業部に配属され、否が応でも人当たりを良くせざるを得なかったのだと思う。意識して笑顔を作ることも、声のトーンを変えることも、天気の話しをすることも今までは無かった。これぞというやりたいこともなく、人並みに、とその他大勢に漏れないレールに乗っかった気がする。「乗っかった」のではなく、乗っかった「気がする」というところがぼくの意思の弱さを物語っているだろう。しかし遅刻もずる休みもせずアフターファイブもこなしてきた。不思議と「もう嫌だ」と思うこともなく気付けば五年の月日が流れていた。石の上にも三年、という半ば強制じみた任期は全うした。

 大型連休の初日、インターネットで「マイナーだけど安価な趣味」と検索して出会ったのが、アリの飼育だった。飼育観察キットなるものが出回っていたが、以前に熱帯魚を飼っていたガラス水槽で代用できそうだったので、見よう見まねで自作した。ものは試しだと始めた趣味だが、今ではブルーなんて口走っている始末だ。わざわざアリを捕まえてきて飼い始めた息子に母親は不安げな目を向けたが、毎日仕事に行きさえすればたいていのことは看過される。いまだに同僚には打ち明けておらず、飲み会の席でも口を滑らせないよう気を付けている。


「ドラゴン、昼メシ行こうぜ」


 巽という名字由来のあだ名で呼ぶ同期の田中が誘ってくれた。平々凡々の田中では、こちらはあだ名の付けようがない。
「おう、あそこの食堂行くか」
 いつも通り近くにある市庁舎の職員食堂へ潜り込んで割引価格でランチにありつく。日替わりのおかずに白米、汁物にデザートでワンコインだ。民間薄給社員の若者には染みる優しさだった。


「今月もキツいわ、ドラゴンのとこどうよ」


 月末に近づくと必ず売上げの話題になる。営業部の宿命とはいえ、無理難題を押し付けられるのはやはり辛い。根性論ではどうしようもないことは多々ある。


「ウチもきついよ、分かると思うけど」


 そう言いながらぼくは、売上げの話しをするときの主語は自分ではなく私たちという集団にすることがコツなんだと思った。つまり、責任をひとりで抱え込まないことだ。ある程度真面目に不真面目することも必要だろうと自らを正当化している。

 そんな月末を苦労して乗り越えても、また来月からはゲームデータをリセットしたかのように売り上げはゼロに戻る。そしてそれが、あと何十年も繰り返される。


「ブルー、元気か?」


 青い点は、巣穴の向こうに光って見えた。終電の二、三本前に乗って帰宅したぼくは心なしか小さめの声で問いかけた。ほかのワーカーが代わりに動き回り、トンネルの先にある部屋でもぞもぞとうごめく物体が見えた。ぼくは蛍光灯の明かりが彼らを混乱させないよう急いでベ
ッドに入った。眠りにつく前、ブルーに夜勤はないのかななどと思いを巡らせるのだった。


「ドラゴンさん聞きました? 田中さんけっこう課長に詰められていたみたいですよ」


 後輩にあだ名で呼ばれながらもさん付けされるのは慕われている証拠だと思っている。そう言えばここ数日、田中と例の食堂へ潜り込んでいなかった。いつも誘われてばかりでは借りを作ってしまうと思い、昼前に四階フロアにある田中の席へ内線を掛けた。


「はい、遠藤です。ああ、田中さんならおやすみですよ」


 田中のお隣さんが代わりに応答した。


「あ、そうですか、じゃあ大丈夫です」


 あまりにもあっさりした回答ですぐに電話を切った。なぜ休んでいるのか、いつから休んでいるのか、聞かなかった。聞く必要がないように思えたのかもしれない。人づてに五営業日以上田中が出社していないのを聞いたのはすぐあとだった。ぼくは、どこか他人事のような感覚と、なぜ親身になってやれなかったのかという後悔の思いが同時に湧いてきた。どこまでいっても身代わりにはなってやれないのだから自分でなんとかするしかないのだ、という諦めのようなものと、それでも話しを聞いてやるだけでも幾ばくかの助けにはなるはずなのに、という考えが交互に頭を擡げた。会社の近くから最寄り駅まで続く用水路沿いの帰り道、ぼくの足取りはいつもより明らかに重かった。手の抜きどころが分かるようになってきて、仕事で疲れ果てているわけではないことは自分でもわかっていた。



「おまえもぼくと一緒だな、ブルー」


 片足を引きずるブルーを見て囁いた。その夜は適当にクッキーの欠片を投げ込んで寝床に入った。起きる頃には跡形もなく巣穴へ運び込まれているだろう。なんとなく、残っていてくれたら救われるような気がした。翌朝、クッキーをどこへ置いたのかも思い出せなかった。アリたちの勤勉さが初めて億劫に感じた。

「巽くん、この調子で今月いけるのか。計画立ててやれよ」


 上司は質問のようなことを質問ではない口調で言う。


「あ、はい。承知致しました」


 なにを承知したのか分からないまま返事をした。上司が席を外したのを見て、背もたれに体をあずけ大きくため息をつく。明日も、来月の今頃も来年の今頃も、同じようなことをしているのだろうなと思うと気の遠くなる。
 今日もぼくは受話器を手に顧客と天気の話をしていた。


「だいぶ寒くなってきましたね、ぼくは股引きを履きはじめましたよ」


 この顧客とはざっくばらんに話が出来るので心地よい。と言っても商売実績はない。


「そうね、風邪引かないようにね。健康が資本だから、あんたたちは先が長いんだからね!」


 快活かつ、いつも励ましてくれるような喋り口に、ぼくはエールを求めて電話をしているのかもしれない。今日も、田中は出社していなかった。

「ふう、今日も疲れたよ」


 ぼくは労いを求めるように飼育ケースに向かって息を吐いた。ブルーはほかの腹黒い仲間より遅いものの、着実に歩を進めていた。今夜ブルーに課された使命は何だろうか、昨日と今日でなんら変わりはあるまい。そのことに疑問や不満は抱かないのだろうか、などと自分を棚上げしたようなことを考えながら風呂場へ向かった。きっと、自分に問いかける勇気がなかったのだろう。

 毎月十の位が三になる日はシマの空気がピリつく。気のせいか元気よく挨拶をすることさえ憚られる。課長は部長の顔色を窺い、部長は専務の顔色を窺う。もはや儀式のようにも感じられるが居心地の良いものではない。


 外線とは異なるコール音でぼくの電話が鳴った。


「お疲れさまです巽です」


 総務部からの内線だった。


「お疲れさまです内海です。忙しいところ悪いね、いま大丈夫?」


 あまり周りに聞こえないように、という暗示が伝わる声色だった。


「田中君のことなんだけど、たまにランチとか行ってなかった? よく話とかした?」


 ジャブを打つボクサーのようにこちらの様子を窺われているような気がし、ぼくは即座に身構えた。


「そうですね、たまに誘ってくれるので行きますけど、ぼくからはそんなに、って感じですかね。なんかありましたか」


 ガードを固めたまま、誘い出すように切り返す。


「……そうね。定期的に電話を入れてたんだけど、昨日話したら辞めたいって主旨のことを言うもんだから、さ」


 驚きはしなかった。むしろ、そのエックスデーがいつになるかが気になった。ぼくは総務部にも田中にも肩入れしない回答をして内線を切った。そのあと一週間ほど、上司の声掛けが質問らしくなったような気がした。それぞれがそれぞれらしく苦労しているのだと、まるで地上を見下ろす鳥になった気分がした。このまま行きたい場所へ飛んでいければ、とこれまで何度も思った。そのたびに行くことをやめ、しばらくしてから何の制約もないのに、したいことさえ出来ない意思の弱さを嘆いた。自由がないのではなく、自由を選択することに対する責任を取る勇気がないのだ。


 人事異動は社員が利用するエレベーターホールの掲示板に貼り出される。社内では白い赤紙と噂される代物だ。この掲示により来月いっぱいで田中が退職するとアナウンスされたのは、総務部の内海さんと内線で話してからちょうど一週間後だった。

 以前は重く感じられた帰り道の足取りはいまやデフォルトだった。出社時よりもそこまで混雑していない電車が疲れた体には有難い。家に着くなり空っぽのカバンを放り出して水槽ケースを見つめた。


「おまえは偉いなぁ」


 視線の先には青白い蛍光塗料が光る。自分の手に委ねられた小さい命たちを前に、今日の餌はなにが良いか考えた。なにも思いつかなかった。


 コロニー全体を十とすると、二割のワーカーはよく働く一方、別の二割はサボっているらしい。残りの六割は働いたり休んだり、つまりは普通。みながみな一斉によく働いたとして、全員が同時に疲弊するタイミングを迎えると組織全体にとっては効率が悪い。だから疲れて休みたいものや死んでしまったものに代わってすぐ出動できる「サボり部隊」がいる。サボっていることが務めというわけだ。一般的にはこれを「働きアリの法則」と呼ぶ。ぼくが見る限り、ブルーはどうやらよく働く部隊に所属しているらしい。片脚に不自由があるならばサボり部隊に異動できるよう直談判してみたらいいのに、と思わずにいられない。そんなに頑張らなくともいいぞ、とぼくは分かりもしない相手に話しかけた。


 いつもより少し早めに仕事を切り上げられた夜は、バスタブの湯ぶねに浸かりながらカビた天井を仰いで、田中の人生とぼくの人生が交差するのはこれっきりなのかと物憂げになる。ぼくにも彼にも二十数年の歴史があり、満を持して同期として出会った。一緒にランチタイム限定の市庁舎職員にもなった。ぼくはあまりにも身勝手だろうか。ろくに相談にも乗ってやらず、ちょっとですら味方もしてやれない。それでもっていなくなれば淋しいだなんて、心の隙間を埋める道具のように思っているのだろうかと自分自身が嫌になる。それでも、いなくなって淋しいんだと伝えることはなにかの慰めになるだろうか。何度となく考えても答えは分からないままだ。


 思えば、数年前の春うららにしようもない趣味を始めたのは、こんな思いをしなくても済むようにという仏様のおぼしめしだったのかもしれない。ぼくは自分のことで精いっぱいだった。ブルーすらうまく助けてあげられないぼくは、どちらにせよダメだったのだ。せめて、次に入ってくる後輩だけでも、と思いながらぼくは明日もせっせと電話を掛ける。

2 中野真



 パーソナルスペースの内側に入り込む他人の体臭が気にならなくなったのはいつからだろうか。満員電車の中、手のひらサイズのスマホ画面を頼りに他人から自分の世界を切り離す。硬い靴底を張り付かせ与えられた空間を守ることに良心が疼く余裕もなくした。
 何かが足りない。
 惰性で毎朝眺めているマンガアプリの主人公はそう思う。彼は受験も就職も望み通りの結果を得て会社でもうまくやっているのだが、漠然とした満たされなさを抱えていた。それから出張先でかわいい女の子と出会い、そそのかされるまま「本当に自分がやりたいこと」とやらを見つける。つまらない、本当につまらないサクセスストーリー。
 何かが足りない、か。顔を上げ、近づきつつあるビル群を眺める。おもしろくなかった。マンガがではなく、いやマンガもなのだが、それよりもっと、自分自身が。勉強も仕事もこれまで自分なりに過不足なくこなしてきたつもりだった。しかしおれに足りないのは「何か」なんてもんじゃない。何もかもが足りない。入社して間もない頃に読んだ自己啓発本には、飛行機だって同じ高度を飛び続けるためには少し上を向いていなければならないと書いてあった。つまりおれのようにそれなりで満足してしまえば、同じ高度を維持することすらできず下降線を辿ることになると。腕にかけた背広が重く感じ、スマホをポケットにしまった。
 通勤電車から降りると同時に「しんどいな」と思ってしまうことに気がついたのはここ最近のことでもない。それでもまだおれの足は自動的に人の波に従い会社へ向かう。そんなことにいちいち苛立ちが募る。改札を出ると同期の巽の背中を見つけた。まだまだ残暑が厳しい中、やつは今日も律儀に背広を着込んでピンと背筋を伸ばしている。会社方面へ向かう足取りに迷いはなさそうで、当たり前のことなのだが、なんとなく羨ましくなる。
「よードラゴン、今日も外回りか?」
 後ろから肩を叩かれた巽は驚いた顔をこちらへ向け、おれの顔にピントが合うと「田中かよ」と笑った。おれで悪いか、と小突きあい、だりーだりーと繰り返しながら連れ立って出社してしまう。朝起きてトーストを焼き、電車に揺られ仕事して、また電車に揺られひとりのアパートに帰ると、見もしないテレビを垂れ流しながらスマホを触り、カップラーメンを啜って風呂入って寝る。その繰り返し。生活しかない日々の連続は、体力ではないどこかが瘉えることなく疲れ続けていく。心か、と思う。けれど巽や同僚に向かって陽気に振る舞うおれは本当におれなのか。上司や得意先にへりくだるおれ、母親の電話に素っ気なくこたえるおれ、電車の中で他人をシカトするおれ。おれの心なんて、本当にあるのだろうか。

 フロアの違う巽と別れ自分のデスクに着くなり課長の森口に呼び出され脇の下で汗が滲むのを感じる。隣りの遠藤さんは自分の分のコーヒーをデスクに置き、こちらから目を逸らしている。パソコンの起動ボタンだけ押して駆け足で向かうおれは森口課長のデスクにたどり着くまでに何を言われるのかという候補をいくつも上げることができてしまう。
「花村商事の牧村さんからクレームだ。もらったサンプルデータと納品物で色味が全然違うと。なんでそんなことになった」
 それか、と一瞬目を閉じる。おれも少し違うと思っていた。だが作り直す時間などなかったしたいした誤差でもないと思ってそのまま納品してしまったのだ。
「問題ないと、思ってしまいました」
「それは誰が思ったことだ?」
「……自分です」
「はあ? 誰が金払ってるんだ? 向こうさんだろうが。問題ないかどうかはおまえが決めることじゃあないよなあ。実物で色校しなかったのか」
「納期が厳しくて、サンプル作ってもらう時間が、ありませんでした」
 森口課長が当てつけのようなため息をつく。
「おまえ何年目だ? 答えんでいい、どうでもいい。そんな初歩的なミスするような時期じゃあないことはわかっとる。なあ、仕事舐めてんのか。あー時間なかったし仕方ないねこれでいこうかって言ってもらえるとでも思ったのか。納品のときに説明したか? 牧村さんとことはもうおまえ、三年の付き合いじゃないのか。それなのにおまえはなんにも説明せず納品するだけして帰ってきたのか。ガキの使いじゃあるまいし。なあ、おまえだけがしんどいわけじゃないんだ。みんな頑張ってんだよ。営業成績見てみろよ。自分ももうちょっとやれるんじゃないかとか思わないか。おいおまえ、なんとか言ってみろ」
 おまえ、おまえ、おまえ、と森口課長の言葉が頭の中を反復する。足元が暗くなりそうな予感に襲われた。
「……すみません。謝りに行ってきます」
「謝ってそれで終わりか。どうすんだ不良品。作り直すのか。いつまでだ。ちゃんと考えてんのか」
 ただでさえ営業成績悪いのにこんなミスまでしておまえ、といつまでも続きそうな森口課長の言葉はもうおれの中で意味を失い、ただただ足元を揺らすだけのものとなった。

 月末から急に冷え込みが厳しくなり、おれはマフラーを巻いてホームに立ちすくんでいた。電車を見送ったのは初めてだった。乗る前からあふれそうな車両に他人を押しのけて乗り込むほどの気概がふと、なくなった。何をしているのかわからない。自分はなんのために働き、なんのために生きているのだろう。これといった趣味もなく、付き合っている女もいない。だからもちろん子供もいないし、両親はまだ現役だ。なのにおれは、なにを耐えているのか。
「なにがしたかったんだっけなあ」
 声に出してみると不意に涙がこみ上げ、慌ててトイレに駆け込んだ。意味もなくパンツをおろし清潔とは言えない便座に座り泣いている自分が情けなかった。それほどのことが、自分にあったとは思えないから。仕事がうまくいかない、上司とうまくいかない、気を紛らわせるものもない。その程度でおれは、こんなになるのか。笑いたかった。笑いたかったが、こぼれるのは嗚咽ばかりで。マフラーがほどけ、先が汚い床に触れる。そのことを嫌悪するくらいの余裕はある。だからまだ、大丈夫のはずだ。そう思いながら体を起こす。マフラーを巻き直す。けれど、おれはしばらくそこから出られなかった。

 仕事をしない平日は、嫌になるほど長かった。それなのに気がつくと金曜日になっていた。五日間、会社へ行かなかった。会社へ行かなくとも携帯電話は何度か鳴った。いくつかの仕事を後輩の安田に頼んだ。安田はおれの仮病を心底心配してくれる、優しいやつだった。飲みに行きませんか、というメッセージが金曜の夜に届く。ありがたいと思う。そう思うことはできる。けれど、五日間何もしなかったおれの体からは目覚めてから何時間経っても倦怠感が消えてくれない。髭を剃ることがどうしてもできず、断わりの返事をなんとか送った。
 たぶん、何もしたくないわけではない。むしろおれは、何もかもやりたいと思っていた。ソファーベッドにだらしなく横たわり、天井を見つめ続けるような時間を望んでいたはずはない。一日が終わるとき、その日自分の目に何が映っていたのか思い出せない。眠り続けてはいなかった。眠り続けることは思っていたよりも難しい。けれどおれの目には今日、いったい何が映っていたのか。おれはどこにいて、何を考えていたのか。一日を過ごしたはずなのにそれはおれの記憶からごっそり切り落とされていた。

 夜眠れなくなり精神科へ通うようになった。相変わらずおれと世界との間にはベール越しのような実感の曖昧さがある。薬の量が増えるにつれそのベールは日に日に厚みを増すように思えた。夢を見ているように目の前の現実に対する認識がぼやけている。それは自己防衛だと先生は言っていた。おれは何から自分を守っているのかわからない。何から救われたいのかわからない。この現状を変えられるのはおれ自身の行動だけなのだろう。けれどおれはひどく疲れていた。何もしていないのに疲れていた。何もしないことに疲れていたのかもしれない。いや、そんなはずはない。おれはただ、逃げているだけだ。変えなければ。情けないこの根性を。
 せっかくの外出なのでどこかに寄らなければ損をするような気がし、たまたま目についた本屋へ入った。現実逃避を続けるならば物語に浸るのも悪くない。けれどおれの足が自然と向かうのは小説の棚ではなく、昔よく立ち読みしていた自己啓発本のコーナーだった。小説の中の登場人物が、おれよりも辛い状況でがんばっている姿を見たくなかったのかもしれない。平置きされた「Switch」という本を手に取り、働くことを拒絶した自分がまたそんなものを求めていることに口元を歪めた。笑ったのだと思う。頬の筋肉が硬く、ひりつくような痛みが走った。
 パラパラとページをめくっていると、ある文章が目に止まった。「セルフコントロールは消耗品である」という一文だった。つまり、目の前のケーキを我慢させられた人と好きなだけ食べた人の前にシュークリームを出したとき、我慢せずケーキを食べていた人のほうが容易にそのシュークリームを我慢できるという、それはまあそうだろうという当たり前のことを言っているのだが、そのことを研究しきちんと証明しているのがおもしろかった。例えば、病気の動物を描いた悲しい映画を観るときに、感情を抑えるように指示された被験者は、自由に涙を流した被験者と比べ、その後の身体持久力が低下することがわかっているらしい。その本はこう続ける。
「したがって、怠け者で頑固だから変わるのが難しいというのは、完全に間違っている。実際にはその逆だ。変わるのが難しいのは、体力を消耗しているからだ。怠けているように見えても、実は疲れ切っている場合が多いのだ」
 そうか、おれは本当に、疲れているのか。疲れているとは思っていた。けれどおれはそれを本当には信じていなかったのかもしれない。人よりも何もかもができていないのにどうして疲れるのか。新しく何かを覚えたわけでもないのにどうして疲れるのかと。そう思うことでセルフコントロールをすり減らし、疲れていたのだ。
 かすれた笑い声がこぼれた。本を閉じ、そっと棚に戻す。ここでもおれは、自分を正当化する言葉だけを探しているのだった。本屋を出ると、冷たい風が身に沁みる。心に沁みたのかもしれない。そこに傷があるとすれば、それはおれ自身の爪痕だろう。誰かの言葉を、視線を、傷に変えているのも結局、おれ自身なのだろうから。天を仰ぐ。その日は月が、みつからなかった。
 突然肩を叩かれ、驚いて振り返る。巽が笑っていた。
「ドラゴン!」
「よう、無事かね」
 巽の屈託のない笑みには、退職したおれへの気まずさや嫌味は少しも混じっていないようだった。久しぶりに、他人の顔をはっきりと見た気がした。ピントがあっていた。巽の顔はファミレスから漏れる光に照らされ、あたたかく輝いて見えた。巽の隣で背の高い白人の美女が愛想笑いを浮かべている。おれはそのことにも気づくことができた自分の唐突な回復に驚いた。
「え、彼女さん?」
 いやいや、と巽が笑う。
「駅までの道訊かれてさ、ちょうどぼくも向かってたから案内してただけだよ」
 そんなとこだと思った、とおれも笑った。普通に笑えた。入社したての頃の記憶が蘇る。巽は昔からよく人に道を尋ねられるタイプだった。人当たりの良さそうな、悪く言えば気の弱そうな相貌と、気の利きすぎる性格。研修先の埼玉では、地元の人間ではないのに何度も道案内を頼まれ、そのたびスマホのナビで一緒になって目的地を探していた。そのせいで研修に二度遅刻し、埼玉の一部地域について無駄に詳しくなっていた。
 ちょっと待ってな、とおれの肩をもう一度叩き、美女にスマホを見せて「ゴーストレート」と繰り返す。彼女は「アリガト」と手を振り大股で迷いなく歩き去った。その後ろ姿は堂々としたもので、おれたちはふたりしてしばらく見惚れてしまった。それから目を合わせ、理由もなく吹き出した。
 肩を並べて歩くのは、市庁舎職員のふりをしてワンコイン定食を食いに行ったとき以来だった。そう言うと巽は「あそこ、なんかチェック厳しくなってさー」と悔しそうに片目を細めた。
「もう入れへんの?」
「そうなんさ。まああそこ付き合ってくれるの田中くらいだったしなあ。最近どうしてる?」
「便秘と下痢を繰り返してる」
 おまえほんまウンコの話好きやんなあ、と巽が肩を揺らす。そうだっけ? そうだよ、そればっか。
 笑い疲れた巽がはーと息をつくと、ふたりの間に微妙な静寂が満ちた。さっきの美女が大股で歩いたであろう駅までの道の途中、四隅がつながる大きな歩道橋の上は、車通りの多い街の喧騒から少しだけ離れ、足音が聞こえるくらいプライベートな場所だった。
「ぼくさ、田中に謝りたかったんだ」
 巽が連なるヘッドライトの明かりに目を向けたまま言う。
「え、何を」
「田中が休んでたとき、なんにも相談のれなかったこと、とか。昼飯こっちから誘いにいかなかったこととかさ」
 あー、としか言えない。巽も、安田も、あの森口課長だって電話をくれた。それに応えなかったのはおれだった。伸ばされた手を掴もうとしなかったのは、おれだった。
 おれたちは黙って階段を降りた。不意に、巽は空を見上げた。つられておれも上を向く。月はやっぱり、みつからなかった。
 まだ誰にも言ってないんだけど、と前置きし、巽ははにかんだ。
「アリ、飼ってるんだよね」
「アリ?」
 何を言い出すのかとその横顔を見つめる。
「その中の一匹にさ、足の悪いやつがいて、ぼくはブルーって呼んでるんだけどね、そいつがさ、働き者で、健気なんだよ。でもさ、足が悪いんなら、休んでればいいのにって、いつも思う。それでさ、最近知ったんだけど、アリの集団の中で外に餌を探しにいくのって、年老いたやつばかりなんだって。若い奴らは巣の中で餌の管理したり、子供の世話したりしてる。ぼくらが外で見かけるアリたちはだから、使い捨てされるような、大事にされていない身分なんだ。ブルーみたいに、足が悪いやつとかも、そういう候補に入れられるんだろうな。一番、頑張ってんのに」
 巽が何を言いたいのか、おれにはよくわからなかった。だから黙って続きを待った。飲み屋からスーツ姿の男たちが数人出てくる。まだそんなに遅くない時間だ。家庭持ちなのだろう、なんて思いながらすれ違う。
「でもさ、わかんないんだよね、本当のところは。同じ仕事しててもさ、ひとりはめちゃくちゃ頑張ってなんとかこなしてるけど、もうひとりは片手間にやってるのかもしれない。結果だけしか見えてこないから、本人たちがどれだけ頑張ってそれをしたのかとか、そういうことはわかんない。ブルーだって、ぼくにはとても大変そうに思えるけど、案外のんびりと散歩してる気分で餌を探してるのかもしれない。ぼくらは結局、他人のことを本当の意味でわかることはできない。他人のしんどさは想像するしかない。なんかね、優しさってなんなんだろうとか、考えるわけ」
 そこまで話すと、巽はこちらを向いて「なんのはなしなんだろ」と笑った。知るかよ、と笑い返すと、だよなと頭を掻いた。
「なんかさ、しんどいのはおまえだけじゃないって、課長とかよくいうじゃん?」
「森口課長な」
 そうそう、と巽が肩を揺らす。
「そういうのって、なんか嫌だなって思う。しんどさって、ひとそれぞれだし、比較できるものじゃなくて、その人のしんどさはその人にしかわかんない。ぼくのしんどさも、田中のしんどさも、課長のしんどさも、ブルーのしんどさも、どれも比べられるものじゃなくて。みんな頑張ってるからおまえも頑張れって、学生時代からよく言われたけどさ、なんか嫌だなってずっと思ってた。だからどうしろってのは、別にないんだけど」
 うーん、それだけ。そう言って、結局最後まで聞いても何がいいたいのかわからない巽の話は終わった。それから、安い定食屋を探している話や、出張先で道を訊かれまくった話、そんな世間話をして、改札の中で別れた。
 おれはなんだか、少し気持ちが楽になっていることに気づきながら電車に揺られていた。巽の言葉の何がそうさせたのかわからない。日はもう落ちていて、窓ガラスに反射する自分と見つめあった。自分の顔をちゃんと見ることができたのは、久しぶりのことだった。それはそれほど、嫌なことではなかった。おれはおれのことをきちんと見てやらなければいけない、ような気がした。おれのしんどさをわかってやれるのは、おれだけなのだから。もう少し、自分とともに、生きていきたいと思った。闇夜の雲間からわずかに光がこぼれていた。月はずっと、そこにあったのだ。

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