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息子孝行なお母さんの話

新しいポケモンが出るたび、母さんにゲームをねだったのを思い出すよ。不自由で苦しかった22年間を、僕は11年で好きな色に塗り替えることが出来た気がするんだ。

今年33になる息子がいるんですけど、結婚もしないでフラフラしてるんですよ。22で実家を出て、主人の葬式以外地元に帰ってこなければろくに電話もよこさなくて、大事に育てた甲斐がありませんよ。

母さん、親ガチャって言うけど、僕はハズレ引いたと思ってるよ。母さんは僕の好きなもの、やりたいこと、全部握り潰してたんだよ。

私は遅くに授かった息子をそれは大事に育てました。着る物に食べる物、勉強に習い事、見るテレビも害がないものをと常に気にしていました。

僕はコムサのポロシャツよりPikoのTシャツが着たかったし、プロ野球チップスも食べたかった。塾やピアノより友達と虫取りに行きたかったし、クレヨンしんちゃんも見たかった。プレステだって欲しかった。僕はいつも一人ぼっちだったんだ、母さんのせいで置いてきぼりになってたんだ。

息子は大人しく、とても物分かりのいい子供に育ちました。ご近所の男の子は反抗期で壁に穴を開けたり、喫煙や飲酒で補導されたりしていましたけど、私にはとても信じられませんでした。手塩にかけると子供は言うことを聞くとあらためて実感したんです。

母さんは95点のテストを見せると「ケアレスミスが直らないわね」と貶したし、ピアノの発表会で間違えると「今年も完璧じゃなかったわね」と残念そうにしたよね。サッカー部は「応援してるお母さん達が苦手」だから入部届書いてくれなかったよね。

主人の職場が倒産した時、私は息子の暮らしぶりや教育の質が下がらないよう全力で主人のフォローをしました。落ち込む夫を支え、当時まだ小さかったアンダーセンになんとか転職が決まりました。主人も激務に耐え大変頑張ってくれました。

山一マンだった父さんの会社が潰れたとき、母さんは毎晩父さんを詰めてたよね。中落合の家のローンはどうするんだ、お茶やお花の稽古は、子供の塾や学費は、そんな話ばっかりしてたよね。僕は元気な母さんがパートに出ないのが不思議だったよ。

息子は早稲田に現役合格しました。実家から都内の大学に通えるよう中落合に家を建てたんですもの、私の計画は正しかったんですよ。ただ大学に入ってから下着が派手というか、妙に小さめなのを選び出したのが気かがりでしたが、流行なのかと目を瞑りました。

僕は大学に入ってからゲイ活を始めたんだ。カルバンクラインやTOOTのパンツを履いて、メンミクや掲示板で毎週違う人と会った。はじめまして、かっこいいね、その服いいね、いいカラダだね、母さんには褒められない僕をたくさんの人が褒めてくれた。

リーマンショックで就職難の中、息子の就職活動はうまくいきませんでした。私は商社やメガバンクに行って欲しかったのですが、大手とはいえ愛知の自動車部品メーカーでした。1留して来年頑張ればとも話したのですが、息子は愛知に行きました。

母さんから離れて、僕は愛知で地方ゲイを楽しんでるよ。昔買ってもらえなかったゲームを友達と楽しんでるし、深夜ファミレスに集合できるし、好きなもの食べられるし、派手な服も選べるし、連れ込み放題の借上マンションもあるし。

新しいポケモンが出るたび、母さんにゲームをねだったのを思い出すよ。不自由で苦しかった22年間を、僕は11年で好きな色に塗り替えることが出来た気がするんだ。

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