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吐瀉物

「あ、また来た!」

5日も続けて通い詰めたのは流石にやりすぎだったのだろう。
カウンターの向こうの彼女は笑っていたが、わずかばかりの迷惑そうなニュアンスの感情を持っていることを僕は察知してしまった。距離感も何処かよそよそしい気がする。
その店は個人経営の小さな居酒屋で、僕が人生に立ち往生していた時に色々と世話になった経緯があるのだが、彼女はそこでアルバイトをしていた。
誰に対してもニコニコと笑顔で接して気立てが良く、「女は愛嬌」という言葉を体現しているような女性で、その店に通う酔っ払いのオッサン達のアイドルだった。

「彼女に会いに来たんスよ!!」

アルコールを摂取する習慣は無かったのだが、酒の入ったテンションでそう言って誤魔化していた。半分は冗談のつもりだったが、もう半分は本気だったのかもしれない。でもそれは水商売の女性に入れあげて破滅する男性の挙動と全く同じものだったのだろう。彼女が僕の来訪に対して「迷惑」の感情を持ったことは幸いだったのかもしれない。

今までの女性と懇意の関係になりたくて、コミュニケーションを努力しても、絶対にこういう結末が待っていた。路上ナンパに挑戦したこともある。それでも女性から返ってくるのはやんわりとした「拒絶」の感情であり、オッサン達のアイドルだった彼女も例外ではなかった。

この「拒絶」のパターンが僕の人生でこの先ずっと続いていくのだろうか。

2杯目のハイボールで切り上げてマスターへの挨拶もそこそこに店を出て帰ることにした。

地元で降りた駅のホームから階段を上がり改札へ向かうと、駅の構内の隅に膝を折り体育座りの姿勢でうずくまっている大学生くらいの男の子がいた。注意を逸らされつつも、先を急ごうとしたが、僕の今までの人生で読んだ自己啓発書や、SNSで知り合った知人の言葉が頭をよぎった。

「自分が辛い時こそ、困っている人に手を差し伸べろ」

駅の構内でうずくまっているなんて、何処か具合でも悪いのかもしれない。もしかしたら僕のように、人間関係や恋愛に敗れて、自暴自棄になっているのかもしれない。「男ならしっかりしろ」という厳しさが人々の無意識から決して消えることのないこの世界で、今あそこでうずくまっている彼に自分が優しさを示さずに、一体誰が彼に優しくするというのか。

そんな周りくどい決意を胸に、2、3メートルほど引き返して、しゃがみこんでいる彼に声をかけた。

「ねえ、どうしたの?大丈夫?」

彼は無言で頷くだけだった。明らかに年下らしかったので、声のかけ方が少し横柄になってしまったかもしれない。構内の階段を降りてホームの自動販売機でミネラルウォーターを買った。彼に差し出すべく再び階段を上がる。どうしたの?具合悪いの?ちゃんと一人で帰れそう?今度はもう少し優しそうな調子で話しかけよう、そう思って戻ったけれども、その若い男の子はいなくなっていて、ピンク色のタンパク質と彼の胃液が混ざったものがその場にぶちまけられていた。なんだ、ただ酔い潰れていただけだったのか。

僕の手元には、駅の自動販売機で買った少し割高なミネラルウォーターだけが残っていた。

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