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【RP】変位しつつあるクリエイティビティの射程 〜角野隼斗全国ツアー 2023 “Reimagine” /他〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)


本編(投稿時公開)

<はじめに>

私はコンサートのタイトルやコンセプトに拘って鑑賞してしまうのですが、今回は特に「300年前の作品と現代の作品を並列に捉えることでクラシック音楽を生きた音楽として“再構築“する。」の意味について色々と考えました。
一方で、必ずしもテーマやコンセプトにこだわる鑑賞である必要はなく、楽しみ方は人それぞれだとも思っていますし、むしろさまざまな鑑賞が可能な表現こそが何にも変え難いものだと考えています。
そのため、私のなりの“Reimagine” の解釈はコンサートツアーが全て終了してから投稿するつもりでしたが、2/6に角野隼斗氏がブラッド・メルドー氏のコンサートに行かれた事をTweetされたので、色々と考えた末に自分が最初に鑑賞する長野公演(東京が3階最後部だった事と一般発売開始数日後でも良席があった為)の後に投稿することにしました。
ただ、ここに書く事は音楽の枠を超えた個人的解釈です。
コンサート鑑賞には不要だと思われる方もいらっしゃるでしょうし、もしかしたら、ご覧になった方がすっきりしたお気持ちで鑑賞できる方がいらっしゃるかもしれません。
皆様それぞれが自由に鑑賞される事を願っています。
※コンサートのネタバレ箇所はその旨を明記の後に記載しています。

<コンサートツアー開始前>

予習は1月初めから始めましたが、その時々の変化がとても重要に思われ、リアルタイムで書き残していたものです。
このnote公開時には既出の情報が多く含まれ、一部不自然に思われる箇所もあると思いますが、書いた当時のまま残しています。

バッハと現代の曲を並列に再構築…といえば、ジャズピアニスト ブラッド・メルドー氏の「After Bach」を抜きには語れない、という所からが予習のスタートです。
メルドー氏の作品は多岐に渡り数も多いため、私は時々気に入った曲をチェック・購入するという程度、バッハのアルバムがあることは知っていましたが、バッハには興味がなかったので聴いていませんでした。
が、作夏の来日コンサート(→体調の問題で2023年2月に延期)時にチェックしたレビュー(海賊版の動画を観た方のご感想)では、氏のピアノ協奏曲の過去の公演ではバッハとともに演奏されているということでサラッとSpotifyでチェック。
メルドー氏のコンサートが2月に延期されたこと、角野氏がソロツアーでバッハを弾かれるという事もあり、そのツアーの予習もかねて「After Bach」を購入して聴き始めました。
(下記は曲名リストがわかるようにSpotifyを埋め込みましたが、スマホの方は「After Bach(youToubeオフィシャル音源)」をどうぞ)

1曲目はメルドー氏オリジナル「Before Bach」という洒落たタイトルからはじまり、以下はBachとオリジナル曲が交互に挿入されています。
しかもオリジナル曲名は「After Bach: ○○」(○○はバロック時代の曲の様式や技法名)となっています。
オリジナル曲は「まさにメルドー!」という感じの特徴的なハーモニーやフレーズで、メルドー作品としての全体の馴染み感やバッハとオリジナル曲との対比も含め、バランスが本当に絶妙。
とにかく、構成といいい演奏といい300年前の作品と現代の作品を並列に捉えた“再構築“!
しかも、バッハを現代と並列に歴史解釈するTIMO ANDRES氏(ピアニスト・作曲家)が書かれたライナーノーツが付いていて…これも素晴らしい!(自動翻訳頼りで読みましたが…)
この「After Bach」を例にクラシック音楽とメルドー氏の関係を書かれている「ブラッド・メルドーの現代性 | クラシック・ファンのためのJazz入門」は、角野氏と近いフラットな姿勢で多ジャンルに接する音楽性が説明されていますので、今回メルドー氏について知られた方にはおすすめです。

昨年(時期不明・たぶん学生さん話題だったので春頃?)メゾン・ド・ミュージック「はやとちりラジオ」での「Blackbird」演奏の際には、ビートルズからではなくメルドー氏の「Blackbird」演奏から知ったというニュアンスで話され、別のインタビューでは「今後影響を受けたい」とも語られていました。
バロックとジャズとの親和性の高さは昨年の大阪フェスティバルでの小曽根真氏と鈴木優人氏の2台ピアノの共演でも話題になっていましたが、普通に考えればツアープログラムの構成を考えられる前から角野氏は「After Bach」をご存知のはずです。
極めて完成されたメルドー氏のバッハ再構築作品が存在しているなかでの“Reimagine”のハードルは高く、単純に期待するだけでは済まない所から予習がスタートしました。

さて、ここから話が突然ラモーに飛びます。
Spotifyで「ラモー 新クラヴサン曲集」のピアノ演奏を聴き比べてみたところ、個人的好みがたまたまLuca Ciammarughi Luca氏(以下Luca氏)の「Rameau Dans Le Miroir De Saint-Saëns」というアルバムでした。
特にトリルが曲中のリズムに自然と馴染み、付け足したような装飾音になっていない所が好みで、グールドのバッハにも通じる感じがしたのです。
ですが、なぜ「サン=サーンスの鏡の中のラモー」なのか意味がわからず、(しかも「鏡」という重要概念!)気になって調べてみたところ、ラモーはサン=サーンスによって復権されたということでした。
ラモーだけで検索しても辿り着けなかったので、これは本当にラッキー!

しかも、古楽器もこの頃に復刻されているという事実。
これはサン=サーンスの時代における「現代としての古典解釈」になる訳で、現代の問題だけではなく、常にその時点での「現代的古典解釈」が行われていたということでもあります。
(そもそも研究という行為自体がそうなのですから当然ですが)
ただし、逆に言えばそこで大きなフィルターがかかってしまった、キュレーション・編集が行われているということにもなる訳です。
サン=サーンスの意図としては古典回帰であっても、後年の研究からは再構築と同等の変化が生じている可能性も考えられます。

ちなみに、ピアノ演奏でラモー 新クラヴサン曲集をSpotifyで検索するとアレクサンドル・タロー氏が最初にヒット。
ポストクラシカルとしてのヴィキングル・オラフソン氏の演奏もあり、Luca氏、タロー氏の演奏のうち、オラフソン氏「ドビュッシー - ラモー」で演奏されている新クラヴサン曲集からの5曲を比較用に並べて聴き比べるとそれぞれ解釈の違いが実に面白い!
ラモーを調べたり聴き比べたりするほどに、角野氏による「再構築」の選択肢が多いことに気づきました。
しかも、1/12放送 メゾン・ド・ミュージック「はやとちりラジオ(リンクはYouTubeアーカイヴ)」務川氏の古楽器を学ぶと自由になれる…というお話の中で「当時は音源もないのでもっと自由に演奏していたはず」「古楽やっていると僕らも作っている感覚がある、装飾音は楽譜にあまり書かれていないからもある」という様なことも。

そう、メルドー氏のような「新しい(アイデアとしての)構成」や「演奏としての新規解釈」以外にも“Reimagine”は無数に広がっているのです!
では、普通のバッハ曲のピアノ演奏とどう違うのか、何もをって角野隼斗の“Reimagine”とするのか(“Reimagine”であると認識できるのか)という定義上の疑問も生じてきますが、「生きた音楽として“再構築“する」なのですから、角野氏によって奏でられたバロック音楽が「生きた音楽として観客の胸を打つ」という結果以外の判断材料は無い、逆に言えばスタイルはなんでも良い!ということになります。
とはいえ、歴史から学ぶ姿勢も現代の音楽家としての立ち位置も含め、メルドー氏は角野氏とほぼ同じスタンスですでにバッハに挑まれ、世界的にも評価を得ている訳です。
昨年12月のタワーレコード関連のTweetでは、ジョン・アダムズ氏を間に置くことで、すでに角野氏とメルドー氏を絡めていました。
ソロツアー中にメルドー氏によるバッハのコンサートがある以上、比較する音楽関係者はいらっしゃるでしょう。


ですが、コンサートツアー開始直前1/14配信の「全国ツアー2023 "Reimagine" 全曲解説」ラボでは特別な気負いもなく、純粋に興味やワクワク感に満たされている様子がとても自然に感じられたのです。

そしてそして…
1/17に発表されたプログラム。。。

ええーーーーー?????????????
まさかのバッハとカプースチンのサンドイッチ。
こ、これって、、、、メルドー氏の二番煎じにならないの??????と、一度上向いた気持ちがまたもや急転直下。

ブラッド・メルドー IN JAPAN 2023 からのスクショ

「After Bach」だけでなく、告知されていた「バッハ with オーケストラ」のプログラムもバッハとメルドー氏オリジナル曲とのサンドイッチです(当日の構成は完全な交互演奏の4セットに変更)。
こちらはオーケストラによるバッハ演奏なので厳密には「After Bach」の構成とは違いますが、だからこそバッハと現代曲との交互演奏はメルドー氏によるアイデアという意味合いが強く感じられます。
実際に奏でられる音楽の表現性が全く違っていてもアイデアは同類ですから、プログラムのテキストだけを比較し批判されても何も言えません。
発表直後のファンの皆様の感激・興奮がすごかったことも、さらに気持ちをどんより暗くさせました。。。
前述しているように「“Reimagine”は無数に広がっている」「生きた音楽として観客の胸を打てばスタイルはなんでも良い」という事は頭では理解していますし、それらが達成されるだろうとは思っていても、お二方のバッハへの解釈はほぼ同スタンスで、バッハと現代曲とを交互に演奏するスタイルも近く、しかも公演時期が重なるのですから。。。

<ツアー開始後 コンサート鑑賞前>

そして全国ツアーの初日が開催されました。
TwitterにもInstagramにもカプースチンとバッハの組み合わせの妙に対する熱狂的なご感想が溢れ、正直いたたまれませんでした。
そこには演奏やその組み合わせ自体の素晴らしさだけではなく、ファンとして「角野氏だからこんな組み合わせを思いついた」的なプラスαの評価が盛り込まれていたからです。
そういうファンの皆様は「After Bach」の存在を知ったらどう思われるのだろうか…と。

すると、1/26に菊池亮太氏を招いての「音楽オタク談義」ラボ配信があり、
後半「良い演奏とはなにか?」という類の質問への答えの一つとして「賛否両論あること 議論を生むから」と答えられていました。
質問に対し一語一語確認するような場合はその場でお考えになっている時で、サラサラと答えられる時にはご自身の中で深まった思索を語られている時、という様なことを以前ファンの方がTweetされていましたが…この時は明らかに後者です。
そういえば、プログラム発表時のTweetには「考え尽くして」ではなく「悩み尽くして」と書かれていました。
もしかしたらこの「悩み」には、批判される可能性が含まれていたかもしれません。
また、その会話の前に「(評価の基準に対して)圧倒的な個性とそれを補う説得力」ともおっしゃっていたので、「説得力さえあれば良い」という角野氏のスタンスも見えてきました。
なるほど!
私が勝手に憂いていたことはきっと角野氏には想定内なのでしょう。
批判の可能性よりも、バッハとカプースチンとを組み合わせたい!という「興味・衝動」が勝ったと考えられるかもしれません。
(本当のことはご本人にしかわかりませんが…)

2/5にはメルドー氏と東京フィルハーモニー管弦楽団とのコンサートを鑑賞しました。
正直、物凄いものを観てしまった!!!と驚くしかありませんでした。
あまりに衝撃が大きく、角野氏ファンの私ですらこのプログラムとは比較の対象にすらない。。。苦笑
ただし、それは一つの視点で観た場合です。
今後に書くこととも関連性があるため、このnote公開のタイミングに合わせて別途「ブラッド・メルドー IN JAPAN 2023 「バッハ with オーケストラ/ブラッド・メルドー:ピアノ協奏曲)」を投稿しましたが、読まれなくてもここで書いている意味は通じます。

そして同日夜に「眠れない貴女(あなた)へ」「サロン・ド・ビジュー」のインタビューが放送されました。
「音楽を混ぜる」というお話がありましたが、、、
おっしゃるようなクラシック音楽の歴史認識はモダニズム以前のミメーシス(後述)が主流の価値観ですし、モダニズム以降にミックスされた音楽が評価・スタンダード化されていくのは大衆文化が中心なので(方法論として「混ぜる」に新規性が認められた場合にのみ芸術領域での創造性が認められる)、この番組で語られたほど簡単な問題ではありません。
いずれにしても、1/26のラボのような潔さは感じられないので、収録は悩まれている最中か悩まれて決断を下された直後の様に思われました。
が、これを聴いた時点では解決されている問題だと思っていました。

そして2/7(2/6深夜)のTweet。

またもや、ええええ???!!!!
スケジュールに空きがあれば観にいかれるとは思っていましたが、それを公表されるとは思いませんでした。
ご本人は吹っ切れていらっしゃる事とは感じていたものの、こちらは複雑な心境です。
角野氏の演奏は老若男女どんな人でも誰一人として脱落者を出さずに素晴らしい音楽世界に誘うものだと思っていますが、芸術的観点で俯瞰すると、ある種の前衛性が存在します(現代アート程の難解さは無い)。
マーガレット・レン・タン氏のピーナッツの世界で遊ぶかのようなトイピアノの演奏が、ジョン・ケージが考案した前衛的・実験的なプリペアドピアノの演奏と同列であったことに近いと言えるでしょう(詳細は「解釈とイノセントな表現性〜」
ただし、タン氏はその出発が前衛芸術だったのに対して角野氏は違います。
すごいプログラムだと驚きその音楽や構成に夢見心地になっているファンの方々が、突然「元ネタらしきもの」の存在を知ることはひどく残酷な事の様に思われたのです。
一方、現代にある芸術としての意義で考えるならば、この程度の事を当然としない限り既存の芸術観を揺るがす行為に至ることはないでしょう。
角野氏の音楽を純粋に楽しむファンの方々が「After Bach」には辿り着きません様にと思いつつ、音楽・芸術関係の方々には角野氏の挑戦が届きますようにと願うしかありませんでした。
が、勉強熱心なファンの方々ですから早々に辿り着かれてしまった訳ですね。。。
(一方、角野氏の挑戦が音楽関係者に届いたのか、どう思われたのかは不明)
ということで、本来はツアーの全日程が終わってから公開しようと思っていた内容を、先に公開することにしました。
ここに書いている芸術的意義は通常の音楽鑑賞には必要なものではありません。
ただ、もし関連する一連のことに疑問やモヤモヤをお持ちになる方がいらっしゃったのであれば、芸術的意義を認識される事ですっきりとしたお気持ちで自由に鑑賞されますことを願っています。

このnoteのタイトルを「変位しつつあるクリエイティビティの射程」に決めたのは、後述する「大竹伸朗」展を観た2/4ですが、2/9放送された箏アーティストLEO氏との「はやとちりラジオ」では、再現芸術としての演奏と創作表現におけるクリエイティビティの方向性(「理想とする部分」)の違いについて語られていました。
やはり以前から角野氏の中に「クリエイティビティ領域そのものに対する問い」があったことが読み取れます。
また、「After Bach」についても言及されていましたが、その内容は「新しい芸術的意義」という側面からは残念なものでした。
この放送後、以前からお好きだったという類のコメントで「After Bach」を紹介されたファンの方がいらっしゃったことは、私と同じとはいわないまでも、ある種の懸念から公開を控えられていた事が推察されます。
本当に残念だと思わずにいられませんでしたが…一方でこの「残念」と思った所にこそ、既存概念を変える可能性があるとも思っているのです。

<ミメーシスとカウンター>

私がこのnoteで「模倣」について書く場合、ほとんどが日本文化的=対象と同次元的な学ぶという行為に重きが置かれた解釈ですが、ギリシャ哲学以来の西欧には「ミメーシス=模倣」という概念(もっと広いので観念?)があります。
私自身理解できていないこともあり、模倣について書く場合は日本文化的解釈に限っていたのですが、いよいよそうも言えなくなってきました。
日本文化的な意味よりもずっと大きく…神と人間の「相似形」と書いたようなもの=メタレベル的・構造的なところまでも含みますし、ラモーの項で書いた西欧で「鏡」が重視されていることにも通じます。
私には全く手に負えないのですが(上記リンクの百科事典の文章を読まれてもほとんどの方は意味がわからないと思いますが 苦笑)、個人的な解釈という断りを入れた上で、先行する表現・作品に対する「ミメーシス(模倣)」と「カウンター(対抗・反発)」について考えてみたいと思います。

ミメーシスもカウンターも、先行事例に対する反応・作用であることは同じで、そのベクトルが「同調」と「反発」とに分かれているだけ、というのが私の認識です。
先行事例からの影響という意味ではカウンターもミメーシスも同じなのですが、現代の芸術における標準的な評価基準では、「模倣」は否定され「対抗」は肯定・尊ばれます。
また、「先例」を故意に隠すことで「模倣」は「新たな表現」として評価される可能性がありますが、「反発」は「先例」が現わされても隠されていても「新たな表現」として評価されます。

●先例が不明・隠蔽された模倣表現(欺瞞だけでなく段階化された反応変化による曖昧化も含む)→(先例が発覚しない限り)評価される
●先例がわかっている模倣表現→評価されない
●先例が不明・隠蔽された対抗表現→評価される
●先例がわかっている対抗表現→評価される

実は、上記の価値基準は、モダニズムが芸術表現の主流になってからのもので、古代ギリシャ・ローマ、中世をスキップして、ルネッサンスから19世紀後半位まではミメーシスが重視されていました。

●先例が不明な模倣表現→存在しない
●先例がわかっている模倣表現→評価される
●先例が不明・隠蔽され対抗である事が隠された表現→評価される場合もある
●先例がわかっている対抗表現→評価されない

ルネッサンス〜モダニズム前の芸術アカデミーでは「ミメーシス」を重視する芸術的価値観が主流で、アカデミーに反抗を示した19世紀末からの芸術表現が現在の「クリエイティビティ」に直結する価値観です。
そのなかでカウンターとなった様々な芸術表現やその価値観も、実はミメーシスという大きな観念の内にあるのでは…というのが以前から思っていた仮説です。
理由は、「(前例を否定するかのような)唯一無二のオリジナリティ→無から新たなものを生む出す芸術の創造性が神が無から生み出した天地創造の相似形」というロジックになる為です。
これを、造形表現の歴史推移につなげてみます。

造形表現における模倣・ミメーシス
●古代ギリシャ(キリスト教以前)=写実
創ることの本質(プラトンとアリストテレスと厳密には違うらしい)
●中世(神への畏れ)=非写実
神への畏敬→偶像崇拝への惑い→写直接的(接触的)なものへの価値、イコンや宗教者による表現
●ルネッサンス以降(神の子としての人間)=写実
神への敬意→写実的な人間表現→ミメーシスによる伝統的アカデミーの価値観が形成
●モダニズム(神と人間が同等/もしくは人間が中心)=非写実(相似モデルとしては写実)
神を否定する一方、神と人間の相似形を人間と芸術の関係に求める
●□□□□□□←今ここ!!

上記の□□□□□□、私の中では答えは出ていますが簡単にまとめられないので、ここから説明させて頂きます。

<時代による作品(作家)解釈の変化>

度々このnoteを書く時にシンクロニシティが起きる、と書いていましたが、いやはや…今回も凄い事がありました!!!
それが無かったら、ずっとモヤモヤが続いていたかもしれません。
16年ぶりの大きな展覧会として「大竹伸朗」展が国立近代美術館で開催していたのですが、会期終了ギリギリになって慌てて前日に駆け込んだ所、なんとそこに答えがありました。
作品が余りにも膨大・多岐にわたるため、作家や展覧会自体にご興味がある方にはYouTubeを貼り付けておきますが、ご覧にならなくても内容には関係ありません。

#001 大竹伸朗展 | 東京国立近代美術館
#002 大竹伸朗展 | 東京国立近代美術館
#003 大竹伸朗展 | 東京国立近代美術館
#004 大竹伸朗展 | 東京国立近代美術館

今展覧会は16年ぶりの大きなもので、前回都立現代美術館で行われた「大竹伸朗 全景」展も拝見していたのですが、当時と作品(作家)に対する解釈が変わっていたのです。

僕は全く0の地点、何もないところから何かをつくり出すことに昔から興味がなかった。[…]「何に衝動的に興味を持つのか、あえて言葉に置きかえるなら、「既にそこにあるもの」との共同作業ということに近く、その結果が自分にとっての作品らしい。
大竹伸朗

人間は、全能の神が行うように創造することはできない。人間は、無から有を生み出すことはできず、決まった既存の事物、決まった素材から、何ものかをつくり出すことができるだけだ。人間による創造とは、既存のものからの造形にすぎない。
クルト・シュヴィッタース

大竹伸朗展:スクラップブックから《モンシェリー》まで 冒頭より
河本真理[日本女子大学教授]

上記はサイト内レビュー冒頭に象徴的に掲示されていた文章です。
展覧会冒頭の「自/他」(=主にコラージュやスクラップブック作品)のセクション概説でも短く紹介されていたので、会場で「こ、これは!!!」と驚き、慌てて該当資料を検索しました。
動画を観ていただければより具体的にお分かりになりますが、それ以降のセクションの作品とも「時間」「層」という概念・解釈は緩やかに重なっているとされ、「自/他」以外の解説で用いられていた経過・蓄積する時間・圧倒的な情報量を重視する視点こそが、16年前の解釈でした。
一方、無からの創造性を否定する解釈は、今回初めて目にしたものです。
私がここで何度も「時代」と書いていることですが、「まさに、それ〜〜〜〜!!!!!」と。笑
しかも、この大竹氏の言葉は2005年『既にそこにあるもの』からの抜粋とのこと。
クルト・シュヴィッタースは19世紀初頭のに活躍したモダニズムの芸術家です。(概念的にはモダニズムに通じるのですがメルツやメルツバウの造形的特徴はダダイズム的であり、故荒川修作的なポストモダニズム表現にも近く感じられるので、当時は特に先鋭的だったのでしょう。ブルーノ・タウトと同じ時代のドイツの方とは思えませんから。)
つまり、16年前の時点でこの二つのテキストは世に出ていたにもかかわらず
(大竹氏の制作スタンスは変わらなかったにも関わらず)、当時は大竹氏の文脈として重視する時代ではなかったと考えられるのです。
現代美術のキュレーターや評論家の方々は、驚くほど時代性に敏感です。
しかも、私のような素人では到底理解できないような哲学・美学的な背景までをも、その芸術作品からすくい出してくれます!

前回のnoteに書いた「自立する自然性」やレヴィ=ストロース、唯一神の問題などに関係していた展覧会の解説があったはず…と思い出し、諸々検索して辿り着きました。
2010年森美術館で行われた「ネイチャーセンス」展のブログに4回に渡って掲載されているキュレーター片岡真実氏へのインタビューで、とてもわかりやすく語られています。

日本の自然観を再考し、日本固有の文化を紐解く-1
日本の自然観を再考し、日本固有の文化を紐解く-2
日本の自然観を再考し、日本固有の文化を紐解く-3
日本の自然観を再考し、日本固有の文化を紐解く-4

実は前項の□□□□□□は、この自然観があってこそ成立します。
唯一神の存在が大きいからこそ、その存在に対抗するのが「カウンター」で、神の存在が薄れた今、そもそも対抗する必要すら無くなったと考えられるからです。
神よりも、目に見える自然のあり様をそのまま受け入れる感覚、キリスト教がその文化で成立する(流入する)以前の原始的自然観に近づいていると私は勝手に考えています。
つまり、「今ここ!!」は…

●神から自由になった人間=写実・非写実も自由
「ポイエーシス(創ること)の本質」「自然を模倣した調和」という古代ギリシャのミメーシスの概念にも近い 

とはいえ、ネオモダンがモダンと違うように完全に古代と同じではありません。
ペストが「平等性」への意識に革命を起こしたように、新型コロナ感染症によるパンデミックが、価値観の変化を大きく進める原動力になった可能性も考えられます(アレンジやリコンポーズの台頭に関しYouTubeやサブスクの普及から‥と仮説を書かれていたTweetも)。
単なる(創造性の見出せない)模倣とどう区別されるのか、されるべきなのか。。。
一つの答えは、角野氏がおっしゃっていた「圧倒的な個性とそれを補う説得力」です。
個性は最後に顕れるものなので、個人的には「圧倒的な説得力と個性」だとは思いますが。。。
大竹氏のコラージュ作品には誰もが納得するしかない「力」に満ちていて、「出来合いのものを寄せ集めただけ」と言える人は誰もいないでしょう。
その原動力については上記YouTubeで「所有したいという欲求」「反応のするものは自分の一部」という言葉等で語られており、「エロス」に近いものではないか…と思いました。

「エロス」と「アガペー」として対比されることが多い「エロス」ですが、リンク先に書いてある様にその指向性に「上へ」「下へ」の違いがあります。
人から神(=下から上へ)の「エロス」、神から人(=上から下へ)の「アガペー」。
とはいえ、書かれているような哲学的な意味だけでなく、キリスト教文化圏ではもう少し人間の本能的な「欲」と混ざっています。
人から神への愛をエロスとすることは日本人だと特に馴染みがありませんが、キリストへの法悦(=エクスタシー)は、バロックでは割とメジャーなテーマです。
(セクシャルな絵画を求める人間の欲を宗教上のテーマに置き換えることで正当化し流通させた一面もありますが、そもそも法悦が正当な宗教上のテーマである事に意味があり、その表現がセクシャルであるかどうかは今回は無視してください)
何が言いたいかというと、このエロスの指向性はレヴィ=ストロースを引用する時に書いているような下層構造から上層への飛躍と同じベクトルにある、ということです(質は全く違います)。
メルドー氏の音楽は明らかに上層から下層への指向性を持っていました。
氏の即興は元となるバッハを全く否定していないのですが(カオナシ的な表現はモダニズム以降のため)、直前に演奏されたオーケストラの音楽とはあまりにもの「鮮度」「リアリティ」が違い過ぎて、その前の演奏はメルドー氏の音楽が世に出る為の事前儀式のようにしか感じられなかったのです。
詳しくは「ブラッド・メルドー 〜」感想に書いていますが、ちょっと信じ難いというか…現代のシャーマンの様に感じられた程です。

前回のnoteで「西欧も日本もどちらも逆の出発点から、完全には同じではないものの似た様な理解・方向性に向かっている」と書きましたが、この時に漠然としていた「同じにならないもの」が、明確に見えた様な気がしています。
たぶん…「唯一無二の創造性」から自由になり前例を否定しない表現に至ったとしても、西欧の文化では日本文化的に結合するキメラ的な表現にはならないでしょう。
一方、日本人がメルドー氏の様な表現を望んだとしても…なかなか叶えることは難しいと思われます。
長く続く歴史・文化の違いとしか言いようがないですが、今までであればメルドー氏的な芸術表現が無条件で高尚だと思われていたところが、今後は高低ではなく違いで評価されるのだと思われます(そうあって欲しいと願っています)。
もちろん、表現者の個性によっては文化の違いを乗り越える方も当然いらっしゃるでしょうが。。。
で、このキメラ的に統合される表現の最も大きな特色はといえば‥
もしメルドー氏と同じような古典演奏+即興が行われても、既存曲が「事前儀式」にはならず、全体が一つの素晴らしい音楽表現として成立するだろうということなのです。
これは、芸術としてものすごーーーく重要なことだと思っています。
どんな音楽とも一つの美しい表現として成立させられるって、超絶的にすごいことなのですから!!

話は少し戻るのですが、神から自由になった人間のミメーシスがなぜ「ポイエーシス(創ること)の本質」に近くなるのかについて。
古代ギリシャでは純粋な興味や敬愛による模倣のなかに創ることの本質を見出していましたが(ギリシャ・ローマ彫刻が写実的である大きな理由)、現代の模倣が否定的に捉えられるのは、「評価を上げるための手段」が倫理的に善とはならないからです。
作為的に先行表現を隠すことが欺瞞になる訳で、これは先行表現に対する純粋な興味や敬愛を要因とした模倣ではありません。
一方、先行表現に対する純粋な興味や敬愛を自身の表現性に引用・展開する場合、模倣として批判されるから…とその表現行為を否定するのであれば「評価を下げないための手段」としての判断があったということになり…やはり自己の評価を優先していることになります。
例えば(説明の為に仮に私が想定した内容です)、『バッハの曲とバロック的な様式・技法をイメージ的共通項とした新曲の組み合わせ』を「After Bach」から知った後、「8つの演奏会用エチュード 」「インベンション」間から『練習曲という意味と音楽教育という意味の類似性』と『通底するグルーヴ』を見出し、この二つを組み合わせたいというクリエイティブな衝動が起きた場合、もしその衝動に対して別の理由で抑制すれば、作為ある模倣と同じロジックになってしまうでしょう。
もちろん、倫理や法律によって恋愛が完全な自由になり得ない事と同様に簡単な問題ではありません。
特に芸術領域はハイカルチャー=「神」に近いものとしてのヒエラルキーが成立している為、サブカルチャーや大衆文化で定着していても難しい場合があります。
けれど、概念の解釈も倫理も法律も時代によって変わっていきます。

その変革を促すにはイノセントな憧憬・クリエイティブへの強い衝動が不可欠と考えられ、これが「残念と思った出来事に可能性が秘められている」と書いた理由です。
メルドー氏に関する角野氏の投稿は、一般人が推しのサインをもらった時と同じ無邪気な喜びに満ちた素敵なTweetでした。
その一方で、メルドー氏の存在は隠れていたほうが(作為の有無は問わない)純粋に楽しめただろう方々(全員そうだとも限らない)へ、その存在を不用意に(!!!)明かすこととなりました。
何度か書いていますが、受容者的な視点が表現に直結していることは角野氏の大きな特質・個性だと思われ、それこそがクリエイティビティのボーダーラインを動かす原動力となり得ると私は思っています。

私の中にある角野氏の「Reimagine」とは、このコンサートだけの問題ではなく、クラシック音楽という枠組みでもなく、既存のクリエイティビティそのものに対するアプローチです。
神の影響力が弱まる時代、個人媒体がマス媒体と同等の影響力が示せるテクノロジーと、世界的パンデミックによりサブカルチャー的表現(マッシュアップや多種多様なカバー・オマージュ等を含む)が成熟したことと相まって、新たなクリエイティビティが定義される時代としての素地は整いました。
しかしながら、ハイカルチャーにおけるヒエラルキーが固定された状態では成立しないのです。
その芸術的価値を維持したまま(既存のハイカルチャーとしての価値を否定することなく)ヒエラルキーを瓦解・フラットにすることは容易いとは言いがたく、それは単なる拡張ではなく再構築と言う方がしっくりくるでしょう。
その芸術概念が再構築された結果としてクリエイティビティが変位・再定義されるということです。

どうやればそのヒエラルキーをフラットにできるかなど誰にもわかりませんが、結論としては「圧倒的な説得力」がありさえすれば良い訳で、角野氏の別の言葉で言い換えれば「結果で殴る!」に尽きると思います。
ただし、大竹氏のような「力」で説き伏せるような表現ではなく、一般の方の普通の楽しみとしても成立し得る特異的な均衡状態がその表現性に必須なのですから、本当にアンビバレントでハードルがめっちゃくちゃ高い。
こんなに高いハードルに今すぐ挑む必要は無いかもしれず…であるならば、日常に生きるファンを夢見心地のまま(一般の楽しみを優先して)ツアーを終えて頂きたかった…と、まあファンとしての愚痴ですね。
その一方で、私自身は新しい芸術観の到来を誰よりも待ち望んでいるのですから、もう支離滅裂です。苦笑
と、ここまでが私が実際に拝聴するコンサート前の状態です。

以降はコンサートの感想になりますので、ネタバレを避けたい方はここまででお願いしたいのですが、当日のエピソードで一つだけ先にお伝えしたいことがあります。
配布されたプロフラムを見て「えええ???」「今まで私が色々と考え込んでいたのは何だったの???」「やられた〜!!!」と苦笑い。。。
プログラムの冒頭に、メルドー氏のお名前がしっかり記載されていました。
皆様の御反応からは、角野氏のTweetが初出なのかと思ってしまっていたのですが……最初から書いてあるやん。。。
(そりゃ当然か)
ですが、情報の出し方には「迷い」が感じられましたね。。。
(それも当然か)
まあ、それだけ大変なことに挑戦されているということで、納得した次第です。

<2/12 長野公演 @サントミューゼ 前半>

事前に色々ありましたが、私が鑑賞者として最も重視していることは、どれほど予習をしようが比較対象が目の前にあろうが、それらを放棄し先入観のない鑑賞をする、心がける、ということに尽きます。
解釈や比較は、鑑賞後の二次的なアクションなのですから。。。
(これは、上部をお読みの方が下の文章に目がふれない様にするためのクッション的文章です)

●J.S.バッハ:インベンション 第1番 ハ長調 BWV 772
グランドピアノによる演奏で始まり、とても素直な「音」そのものに意識が向く表現でした。
途中でアップライトに移動されると、その音はこれまで聴いて来たもの以上に空気感があり(事前チェックしていた裏にあったマイクの効果かも)、ピアノの柔らかい優しい音とカタカタ聴こえるハンマー音は、今まで聴いて来た何よりも新しく懐かしい音色に感じられます。
音楽を情感で解釈する以前の「生成り」のような表現性と言えば良いでしょうか。

●ラモー:新クラヴサン組曲集 第2番(第5組曲)雌鶏
ここからまたグランドでの演奏です。
これは曲を知った時から、めっちゃ合う〜!と思っていた曲でしたが、やはりその通り!笑
鶏の鳴き声を真似たところといい、トリルといい、装飾音的な扱いになりがちなところも全てが同等にこの曲の表現として伝わってきました。
また、最後のタララララ…みたいな所が予習していた演奏とは全然違っていたのですが、この音の新鮮な響きは何?笑

●ラモー:新クラヴサン組曲集 第2番(第5組曲)未開人
冒頭、ノリノリの曲ではないにも関わらず、始まる前に左手でリズムを取られていたのです。
推進力が感じられるビートの上に自然に美しいトリルを乗せるからなのでしょうか。
また、私が事前にいくつか聴いた音源に比べて圧倒的に強弱の変化が著しく、この繊細な弱音の表現のまま強固なドライブ感を維持される事は凄いとしか言えません。
あえて曇らせたような音色と明るい音との違いまで感じるのですから、どうやって弾き分けられているのか、、、

●グルダ:プレリュードとフーガ 変ホ短調
今度は最初からノリノリ!
足でリズムを取られていますし、フィンガースナップも随所にありました。
が、そのリズミカルな音楽に相反するように?そのビートを生かしたままに?あえて和音を重ねその響きがズレて聴こえる様なところがあり、なにこれ?!と。。。
もしかしてフーガの亜種(笑)?
先ほどの「未開人」でも強固なビートの上に相反するかのような美しいトリルと繊細な強弱表現に驚きましたが、この曲でも通常のリズム概念では成立が難しそうな演奏が。。。
音楽として聴いているにはとても自然なのですが、きっと相当アクロバティックな演奏ではないかと。。。
そうそう!今まで角野氏からは感じた事がなかった均一的なグルーヴ、来ました〜〜!!
最後のカデンツァはテンポがアップして、グリッサンドで終了!

一旦退場され、再登場後にMCがありました。
他に詳しく書かれている方も多いので省略しますが、「古いものが新しく」「違うものが似た物に」と、Reimagineについてのご説明と「真っさらにして聴いて欲しい」というお話でした。

●追憶
角野氏に隠れる様に一つの電灯だけが灯され、低音を箏の様にアップライトの弦をシャーンと響かせるところから演奏が始まりました。
これまで聴いていたアップライトの音よりも金属片がキラキラ散っている様な音です。
また、私のところからはアップライトの弦とハンマーが電灯の黄味がかった光に反射され、黄金の建造物の様な荘厳さすら感じました。
MCでは、アップライトは自分の家の中に居るような素朴さ、とお話があったにも関わらず、なんというか…全然違っていました。笑
「追憶」という個人の心象風景が、普遍化された表象として昇華していく様と言えば良いのでしょうか、心象がキラキラした光となって上昇してくイメージを受け取りました。

●J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ BWV 147
フェルトか鍵盤底部にの仕掛(左下にあるレバーかスイッチみたいなものを時々触られる)かわかりませんが、「追憶」に比べてとってもやわらかい空気感のあるパイプオルガンの様な優しい音でした。
その音とは逆に、BBC Promsの時に比べるとテンポは早めに感じられ、また情感をあえて避けたかの様な均一性が感じられます。
ですが、その情感を避けた均一性が音の持つ優しく温かみ味のある質感を最も生かす結果になったと言えば良いでしょうか。
不思議だったのは、本来プライベートであるはずの「追憶」に荘厳を感じ、神を讃える「主よ、〜」に親密さを感じたことです。
音の質感による影響が大きいのでしょうか。。。
(自分の聴き方は「音質」からの影響が大きい事をメルドー氏のコンサートに行って自覚したので 笑)
最後だけはテンポをゆっくりと、音を伸ばしてさらに長い余韻が訪れました。

●.S.バッハ:パルティータ 第2番 ハ短調 BWV 826
「Sinfonia 」はグランドの演奏で「突然、事件が起きた!!」みたいな劇的な始まり。そう、まさに「角野氏劇場の開始」ですね。
「Allemande」はグランドにも関わらず、とてもまろやかでアップライトの様な空気感のある響きでした。
ゆったりと始まりましたが、強弱とウネリを感じつつも、真綿に首を絞められているかのような柔らかな一定の圧が抜けないのです。
普通、強弱とウネリというのは圧力がかかるところと抜けるところがあるから成立するはずのなのに、あの音の強弱やウネリがありつつも維持された圧力って何なの?と思いましたが、やはりビート感なのでしょうね。
本当にすごい。しかも、響く音も籠る音も自在でした。
「Courante」はアップライトで。
ただし、「主よ〜」からグランド移動される前にアップライトのフェルトの仕様を変更されていました。
軽やかに早めのテンポで演奏されたこともあり、旋律の音がそれぞれ重なる事で、ピアノの音のとは別種のような印象に感じられることも。
「Sarabande」もそのままアップライトでしたが、フェルトを変えられた様でよりカタカタ音を心地よく感じました。
「Rondeau」はグランドに移られて、呼応する右手と左手が可愛らしい。
曲のメロディが頭に入っているわけではないので、実は「Capriccio」がどこで変わったのかつなぎ目がわかりませんでした。苦笑
ただ、後半にちょっとジャズっぽくなった?という質感の変化や、強弱がありつつも、圧が感じられたので(もしかして違う曲になってる?)みたいな疑いを持ちつつ終了して「あああ、やっぱりどこかで曲が変わってた!」という事になりました。。。
「再構築」なら予習はそれほどしなくても大丈夫だろう…と、途中から適当に流してしまったのですが、パルティータはちょっと消化不良気味でした。残念。


<2/12 長野公演 @サントミューゼ 後半>

●角野隼斗:胎動
暗い中、最初のバーンが、ドーンと聴こえてくるほどの衝撃。
鳥肌が立ちました。
休憩中の調律で音が変わってる!!!!!
前半よりもクリアな音で、本来のグランドピアノの音に戻った様に感じます。
途中、明るくなる直前の部分では、片足に重心をかけて踏ん張って立ち上がるほどの力をのせている様子がはっきりわかり…どれだけ大変な演奏なのだろう、と改めて感じました。

●Human Universe
ブルーノートで一度演奏された時に配信で聴いていたのですが、ラボでのご説明では「別物」とおっしゃっていました。
当時、バロックっぽいメロディはただのイントロとしての軽い扱いで、後半の上原ひろみ氏っぽい?(余り覚えていませんが当時そういう印象を持った)部分がメインだったのです。
ところが、今回はイントロのバロック的なメロディを主題とし、中盤から後半にかけても度々展開されていました。
また、変拍子がジャズ的ではなく現代音楽的な変拍子に。
直前のMCで宇宙をイメージされたという説明があったのですが、またもや私の感じ方とは大きく違ってしまいました。。。苦笑
どちらかと言えば、どんどん内観し内側に沈む感覚です。
盛り上がるように思わせるところをあえて抑えるように構成されていたり、静かな終わりから受ける印象だったかもしれません。

さて、ここからはいよいよこのnoteの前半に大騒ぎしていた(笑)カプースチンとバッハの組み合わせです。

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 プレリュード
いや、もうオリジナルの演奏の良さがそのまま表現されたまさにミメーシスとしての演奏でした。
素晴らしいものを故意に変える必要はない!ってことですね。

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 夢
その一方で、私自身もちょっと残念に思っていた「夢」は、大きく変化していました。
オリジナルでは、ウネリはあるのですけど波が同じで単調なのです。
それに対して、フレーズの切れ目にちょっと間があったり、和音の圧が続いてしまう部分に軽やかさを取り入れたり…最後のキメもさりげないのにめっちゃかっこいい!
ようやく満足できる「夢」の演奏に出会えました!!

●トッカティーナ
YouTubeにアップされている程早くはないのですが、オリジナルよるは早い印象。
ただし、オリジナルの重厚さ・圧力が尊重されていたのでフィンガースナップは入りませんでした。
「夢」では単調に感じられたオリジナル演奏の要因でもある「圧が抜けない感じ」が、「プレリュード」や「トッカティーナ」では曲の質感としてとても合っているので、それを尊重した解釈だと思います。

●J.S.バッハ:インベンション 第13番 イ短調 BWV784
均一グルーヴのヤバいのが来ました!!!!笑
これは解釈による演奏の違いというよりも、編曲というレベルにすら感じられます。
面白かったのは、バッハとカプースチンとの組み合わせにおいて、バッハの方が新しく感じられるような構成になっているという事です。
なるほど、これは「After Bach」にはない視点ですね。
そう「視点」と書いたのは…「After Bach」は構成そのものが再構築なのですが、今回はたぶん「視点のズラし」みたいなものも再構築の方法論として取り入れられているように感じます。

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 思い出
流れる様な音の連なりが和音のように響く曲なのですが、響かせ方をあえて変えているのか、全く違う音を弾いている様にすら感じられました。
また、盛り上がる所がわざと繊細な小さな音で演奏されていたり。。。
オリジナルは「常に音が鳴り響いている」という印象の曲でしたが、意図的な引き算が行われているようです。
もしかしたら編曲されているのかもしれませんけど…もし演奏だけで大きく曲(音)の聴こえ方が変わっていたとしたら、本当にすごい!

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 冗談
これは曲自体が角野氏にピッタリ!
途中、オリジナルよりもjazzyな表現ににノリノリ。
フィンガースナップも連発されていました。
そして、余りにも盛り上がって曲が終わったこともあり、お客様からの拍手が!!!
一瞬客席に顔を向けられ「いや、そのまま続きます 苦笑」みたいなリアクションでインベンションへ。。。笑

●J.S.バッハ:インベンション 第4番 ニ短調 BWV 775
これは私でもすごく編曲しているのがわかりました。笑
ものすごーーくjazzy。
リズム構成も多分変えてますよね?
なるほど、これだったら前曲の「冗談」からの繋ぎを途切れさせたく無いはずです。。。
(でも、盛り上がって拍手してしまった方のお気持ちもすごくわかる!)

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 パストラール
実は、これまでの角野氏のカプースチン演奏は自分の想定内だったのですけど、これはちょっとやられた感がありました!
カプースチンの演奏は良い意味で重厚感があり、軽やかな曲でも圧が抜けない感じがあります。
この曲はその中ではもっとも軽快に感じるものなのですが、角野氏であればもっと軽やかに演奏されるだろうと思っていたのです。
ですが、そういう安易さはなく(軽快な演奏が安易という意味ではなく、簡単に曲を解釈しないという意味)グルーヴに着眼を置いた演奏でした。
こういうところに、昨年のフランチェスコ・トリスターノ氏との共演による影響を感じます。

●J.S.バッハ:インベンション 第14番 変ロ長調 BWV 785
そして…パストラールの最後に伸ばした音に重ねるように始まったのが、インベンションの14番。
確かに曲の持つ軽やかさ・質感が共通していますますが、一定のグルーヴが備わっています。
なるほど、他違いパストラール1曲だけで繋がることにとても納得しました。

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 間奏曲
ここでアップライトに。
ゆったりとしたノリのある感じですが、アップライトでより可愛らしさが感じる始まりです。
とはいえ、前半〜中盤まではわざわざこの曲だけアップライトにされる必然性はを感じなかったのです。
ところがところが、、、
後半一気にJazzyになる部分からは他の方もTweetされていた様に、まさに場末のバーで演奏されているかの様な表現!!
あああ、、、これはもう、必然です。笑
そして全体に盛り上がりグランドに移られ、グランドでしか得られないクリアな音で演奏で終わりました。

●カプースチン:8つの演奏会用エチュード 作品40 フィナーレ
そのまま引き続きグランドですが、これまたびっくり!
たぶん和音の響かせる音を変えられているのか、不協和音的な響きがより強調され現代音楽的な印象に。
ただし、やはり最後のフィナーレの部分を簡単に盛り上げない。笑
大音量で音が混ざるのを抑制している感じがしました。
オリジナルであればそのまま圧が抜けずに一気に駆け抜ける最後、小さい繊細な表現を混ぜ込みながら終了しました。
フィナーレというタイトルの曲に対して、盛り上がってバーン!って終わらないぞ!みたいな所にちょっと角野氏の天邪鬼的な部分を垣間見た気がします。笑

ここで本編が終了。
大きな拍手に答えられ、何回かのカーテンコールがありました。
それにしても、後半はほとんど途切れなく演奏されていたことに驚きを隠せません。
あの細い身体にこんな体力や筋力がお有りとは。。。
そしてアンコールへ。

●バッハ:羊は安らかに草を食み
アップライトでの演奏、余計なものを一切削ぎ落としたような朴訥とした表現でした。
曲が持つメロディとアンサンブルがとても美しいので、他の方の演奏だと神への感謝・賛美のように感じられていたのですが、全然違いました。
タイトルの意味を調べると「優れた領主の下で人民は安寧に暮らす」という事でしたが、絵画テーマでは羊は「神に対する無力で弱い人間」の暗喩、神の前で自身の無知・無力を自覚することで安寧に暮らせる、みたいな解釈になります。
人間の傲慢さが引き起こす様々な出来事に対し、無垢な人間のあるべき状態が音楽で表現される様にも感じられ、そのイメージが広がることを他力的に願われているような。。。
「祈りではない祈り」「言霊の音楽版」みたいな印象を覚えました。

●ショパン:華麗なる大円舞曲
グランドでの演奏。
いや〜〜〜本当に素晴らしかった!
もろクラシック!みたいに情緒的に盛り上がる曲は不得手にしているのですが…ロマンティックな表現や強弱にタメなど、何度も苦手として書いてきた全要素がふんだんに盛り込まれているにも関わらず、ただただ素晴らしい!感動した!としか言えないのです。
クラシックピアノの演奏概念を再定義されたという意味では、私にとって一番のReimagineは、この曲だったのかもしれません。。。笑

●モーツァルト/角野隼斗:きらきら星変奏曲
こちらも続いてグランドで。
思い出として撮影OKとのご説明があり動画を撮影させて頂きました。
テーマの変奏部分よりも、繋がりの合間に挿入される所にどうしても魅了されてしまい、このパートがそのまま続けば良いのに…みたいな心持ちになることばかりで、自分でも苦笑いするしかありませんでした。。。笑

最後は大きな拍手と多くのスタンディングオベーションで、何回かカーテンコールをされた後に‥ドア前で振り向かれ「もうこれで終わりです、すみません」みたいな挨拶をチョコっとされドアの中に入られたのには笑ってしまいました。
でも、なるほど!と。
通常のようにすぐに会場が明るくならず、一旦ステージが暗くなり二進法の「8」が灯されたので、何か次にあるかも?と勘違いされる方がいらっしゃるのかもしれません。
舞台から去られた後までもが演出されたコンサートでした。

今回の鑑賞、実はメモを取りながら行いました。
メモをとりながらでは意識が分散され曲の中没入するような鑑賞は難しいのですが、構成自体に重きを置いていていたことと2回鑑賞するチャンスがあるのとともに、メルドー氏のバッハとの比較する意図があった為です。
感想の冒頭に書いたように、鑑賞時には比較せずに聴く=後で比較することを実行するには、私の記憶力ではメモを取るしか無かったので。。。苦笑

そしてその比較ですが‥
バッハと現代曲とのサンドイッチではあるものの、表現性は全く違っています。
その「違い」にはカウンター的な「あえて変える」的な要素も含まれていますので、ミメーシス的カウンターとでも言えば良いでしょうか。
ですが、そういう構成の問題以上に、やはり角野氏の表現はゆるやかな結び付きで全体を統合するメタ的な個性が際立っていたということです。
いえ、前言撤回。
ミメーシス的カウンターを成立させることができるのも、その個性による所が大きいと言った方が良いのでしょう。
そして、メルドー氏の表現がバッハの時代の相似形を現代に甦らせるタイプのものであるならば(神の影響が衰えた現代においても、上から降ろす構造性すらそのままに!)、角野氏はやはり時代を超えた作品全体を現代的な視点から一つの音楽として成立させる表現性でした。

ただし…
メモを取ってい事による原因と考えられるかもしれないのですが、これまでのコンサートで感じられたオープンマインドな印象がアンコールまで感じられなかったのです。
いつもなら途中の出入りも拍手に高揚しながら誇らしげにステージを歩かれていくのですが、「もしかしてアクシデント?」と思ってしまう程に舞台袖に一直線に歩かれて行かれた事がありました。
その変な印象が残っていただけかもしれませんし、私の中で「圧倒的な説得力の必要性」を強く感じていたからなのかもしれませんが、他者を寄せ付けない自己への厳しさのようなものを強く感じてしまいまいた。
それに対し、アンコールはいつもの様なオープンマインドな感じが戻ってきたのです。
ですから、もし最も感動した演奏は何かと問われたら、私はアンコールの「羊は〜」と「華麗なる〜」を挙げさせて頂きます。
やはり角野氏の表現性の核はイノセントな音楽の喜びや楽しみであり、それが何かしらの要因(鑑賞者側の受容要因も含む)で欠けると、損なわれるものがあるのです。
他の方のご感想ではますます進化されているとありましたし、演奏は本当に素晴らしかったので、私自身がいつもとは違う鑑賞状況位にあったことも可能性としては考えられます。
ただ、前述している「圧倒的な説得力」というのは、前衛的志向性と「イノセントな音楽の喜び」が成立する相反状況が達成されることが必須であり、前衛的な芸術的意義の成立だけでなし得ないということに改めて気づいた!というお話です。
次回の鑑賞時にはメモを取らずに思いっきり楽しみたいので、記憶に残っている気づいた点のみを追記させて頂く予定です。

そして、パンフレットについては一つだけ残念なことがありました。
尊敬するピアニストとしてイニシャルを入れられたこと、オフィシャルなパンフレットとしては否定的にならざるを得ません。
私にはどなたかわかりませんが、訊こうと思えばSNS経由で伺うことができます。
けれど、新たにファンになられた方やSNSをされていない方は一体どうすれば良いのでしょうか?
ワクワクした気持ちで初めて訪れたコンサートのパンフにこんなことが書かれていたら、その和から排除されているように感じて一気に気持ちが冷めてしまうと思います。
こういう謎と謎解きは、同じ媒体内で完結して頂かないと。。。
SNSでもYouTubeでも構わないと思いますが、アンオフィシャルな媒体で行って頂きたかったです。
(アンケートに書いて送りました)

また、コンサート後には2種類の話題についてTweetしました。

PAさんが身振りでステージ後ろに音を当て絶妙に自然に聴こえる…みたいにおっしゃっていました。 WRAPSOUN は無指向性(表裏も関係ないそうです)スピーカーで、低音も特殊システムで発生するらしく変な増幅なく自然に聴こえるのかも?(使用品はロゴ変更前のもの) https://wrapsoun.com

写真を拡大させて頂いたら正面には音が出ないと思われ、たぶん反響版や床に響かせるのだろう…と。(客席に向けないスピーカーは日比谷音楽祭で経験済)ミューザでは反響させる壁面に近づけるためこの位置に設置されたたとも思われ、予想をしていたという事です。

2月12日(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

「客席に向けないスピーカーは日比谷音楽祭で経験済」を補足させて頂くと、「日比谷音楽祭2022 角野隼斗氏の ONGAKUDOライブを中心に」の前半部分で、音楽堂内天井に音を反射させ客席に届かせる音響設計だと思われる考察を行っています。
そのため、今回も同様にステージ内に反響させる音響設計が行われた可能性を予想したという事です。
また、セントミューゼステージ両脇にあるスピーカーについて書かれている方がいらっしゃいましたが…会場によっての有無がある=会場常設スピーカーの有無なので、これはMC専用かと思われます。

もう一つが…

昨日のコンサート、それを聴いた時にメチャクチャ驚いて「うわ〜〜」と声が出そうになったのですが(普通のコンサートでこんな事はまずないかと)、よく考えると演出的なもの=ネタバレになるなあ…と思ったので、投稿は思い止どまりました #角野隼斗ツアー2023
先に知りたかった(確認してみたかった)と思われる方と、自分で発見したかったと思われる方がいらっしゃると思うので、難しいですね。。。

みません。大袈裟に書き過ぎたかもしれず…すみません🙇
「演出的」ということは、それによって伝えたい表現がお有りだということです。そして、その表現は演出的な効果に気付くかどうかに関わりなく、皆様全員に伝わっていらっしゃると思います✨

2月12日(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

この「演出的なもの」については、<おまけ>と注記の後に空白スペースを設けて記載してあります。
ご覧になりたい方がいらっしゃたら確認なさってみてください。
追記に別途記載します。

最後に。
そもそも私が角野氏のファンになったのは、音楽だけではない現代アート的な表現性を「337×6」に感じた為です。
その1年半前から動画や有料配信は拝聴していましたし、悲しみの中で聴いたショパンコンクールの「ソナタ第2番」には本当に助けられたと思っていますが、それは特殊な状況における特別な演奏という位置付けで、音楽を超える芸術性を見出せなければファンになっていませんでした。
芸術は誰でもどの様にでも自由に鑑賞して良いはずで、多様な鑑賞スタンスが保証されることこそが広義な現代芸術のあり方だと思っています。
となると、角野氏のイノセントな音楽表現を純粋に楽しむ方々にとっては、私の余計な解釈など邪魔でしかなく、ここで書いていることには矛盾が生じています。
ただ、似た様な矛盾は実は角野氏の表現にも存在すると言えるのです。
私は誰もが成しなかったこのアンビバレントな問題に統合が為される事こそ、現代をリアルに生きる芸術としての大きな意義だと期待していますが、とはいえ、本当に大変なことなのです。。。

メゾン・ド・ミュージック「角野隼斗のはやとちりラジオ」はこの3月で終了というお知らせがありました。
今後、より制作や学びへ時間をかけられるのだろうことを考えると、寂しくもありますが、これからのご活動に期待が膨らみます。
約一年前の高木正勝氏ゲスト回をきっかけにファンの皆さまとも交流させて頂き、角野氏の演奏に関するnoteを継続して書くきっかけにもなりました。
最後にその番組について書いたnoteから引用をさせて頂きます。

この別次元の方向に踏み出すことが余りにも凄過ぎて、「なぜにそんな棘の道に足を踏み入れるの?!」と思ってしまいます。
が、その一方で「いやいや、、、かてぃん氏として『かっけー!』と楽しげなスキップでその棘の間を軽々と飛び超えていかれるのかも…」と。笑

メゾン・ド・ミュージック『角野隼斗のはやとちりラジオ』
 1/12 高木正勝氏ゲスト回 を聴いて思ったこと(追記有)


<おまけ>

私が一番好きなメルドー氏のアルバムは「Largo(youToube)」なのですが、なんとジョン・ケージのプリペアド・ピアノが使われてたと冒頭リンクしたアルバムレビューに書かれていてびっくり!!!
曲名は書かれていませんでしたが、すぐにわかりました!!
「Largo」の中でも特に好きなレディオヘッドのカバー曲「Paranoid Android(youToube)」のおもちゃ箱をひっくり返したような音の数々。。。
この15年間、ブリキ缶やスチールバケツでも叩いているのかしら?と気になっていた謎の音がついに解明!!!!
ちなみに予習中この事が判明する4日前に、鈴木優人氏が「いずみシンフォニエッタ大阪 第49回定期演奏会 時を超えるファンタジー」で使用されるプリペアドピアノの演奏をTweetして下さっていました。。。
さらにすぐ後、1/22「関ジャム」の米津玄師「kick back」に対して、蔦谷好位置氏が「Paranoid Android」のギターリフが引用されていると紹介されていたのです。
なんだか全然違うところでも妙にタイミングが合ってしまった…笑



追記

<長野公演からツアーファイナルまで>

この追記はオペラシティコンサートホールで行われた千穐楽公演の後に書いていますが、長野公演以降に起きただろうと思われる変化(コンサート外から観た印象)も少し書き添えていきます。
長野公演の感想では今までに感じた事がないような厳しさを覚えたと書きましたが、「やはり‥」と思うことがありました。
九州公演の前に行われた「筑紫女学園中・高でSTEAM教育イベント(福岡・佐賀 KBC 」で、生徒さんからの質問へのお答え(02:00頃〜)「テクノロジーで努力する必要がなくならったからといって〜そこから先の闘いになってくる」と。
女子中高生を前に「闘い」を「努力」に言い換えることはあったとしても、逆は特別な理由がないかぎり考えにくいものです。
今まさに闘われているという実感が思わず口に出てしまわれたように感じられ、胸が締めつけられる想いでした。

その後、公演が進むにつれ皆様のご感想も音楽自体から得られる喜びや感動を綴られているものが多くなりました。
もちろん、複数回ご覧になる方が増えたのも要因の一つでしょうが、コンセプトや芸術的意義から切り離されても尚「生きた音楽として観客の胸を打つ」表現として成立した証とも言えるでしょう。
それは、コンセプトや芸術的意義がこれまでの角野氏の(個性としての)表現性に結実した・昇華されたと言い換えて良いのかもしれません。
(最終公演を拝見して、それ+αであることがわかりましたが後述)

3/4には「題名のない音楽会 放送2800回記念② 巨匠・坂本龍一からの伝達(メッセージ)」が放送されました。
芸術的側面として自分が最も興味がある内容のため、ここで書くと千穐楽公演まで辿り着かなくなってしまう可能性があり、後の項に改めます。
また、同日夜には「坂本龍一 - 千のナイフ (Cover)」も公開されました。
角野氏であれば当然この日に合わせてこられるだろうと思っていましたが、演奏だけではなく行為そのものが全てリスペクトに通じている所が本当に素晴らしいと思います。

<3/10  @オペラシティコンサートホール>

私が感じていたことは多くの皆様が書かれていたので…正直もう書かなくても良いと思った程ですが、特に思い入れのあること、他の方がほとんど話題にしていないことを少し書かせて頂きます。

仕事ので直前までコンサートに行けるかどうかも不明、チケット発券も会場に出向く途中のコンビニでした。
それ以外にも精神的にざわつく事案があり、コンサートを聴くコンディションとしては良いとは言い難い状況だったのです。
ですから、あの冒頭の「バッハ:インベンション第1番」には本当に救われました。
抑揚が抑えられたテンポ感に、それまでざわついていた気持ちが整っていったのです(以前の投稿書きましたが、心身不調時にミニマル音楽で「整った」のと同じ効果)。
後半でアップライトに移行すると、整然とした現実世界から夢の扉が開かれ、フワーっとした音楽の精が「夢の世界へようこそ」と手招きしているかのようでした。

長野公演でいまひとつ消化不良だった「バッハ:パルティータ」は、実はコンサート時も皆様が書かれているような特別な鑑賞感には至らず…うーん、自分の力不足か、、、と。
ところが、仕事中に配信を音だけリピートしていると、このパルティータが自然と体のリズムに馴染み本当に素敵に聴こえてくるのです。
配信をしっかり画面を見ながら聴いていた時はほぼコンサートと同じだったのに対し、流し聴きになると印象が変わるのです。
たぶん、脳内でイメージを伴うような鑑賞とは違う、もっと本能的な身体感覚に訴えるものがあるのだと思われます。
ただ、この心地よいリズムはノリノリ!とか、グルーヴマシマシ!ではないので、日常感覚に寄り添う適度なビート感と言えるのかもしれません。

その後、特に印象深かったのは「カプースチン:夢」です。
アレンジ的工夫はほとんどないと思われ、通常のクラシック音楽と同じ解釈範囲の演奏でありながら、カプースチン本人の演奏からは感じられない素晴らしい音楽的質感を曲から引き出されていました。
色鮮やかな夢がそのまま現れたかのような、テンポやリズムの波、音自体の重さや軽さ、正統的なピアノの響きとジャズテイストの音色など。
和音の響きはオリジナルとは少し違って聴こえるバランスとして強弱の変化を付けられていたように感じます。
そして、最後のあの質感は言葉になりません。。。
「8つの演奏会用エチュード」はどれも全てカプースチンに聴いてもらいたいと思える素晴らしい演奏でしたが、この「夢」は特にそう思っています。
作曲家として聴くカプースチンは賞賛し、ピアニストとしてのカプースチンはもしかすると嫉妬するかもしれませんね。
そして、もし「夢」という曲に人格があったならば、自分の美しいの姿を見出してくれたことに心から感謝することでしょう。

前回(初回投稿時)にも書きましたが、特別な編曲を経ずにクラシック音楽を演奏することが、場合によっては十分“Reimagine”になり得る、と改めて思いました。
考えてみたら、ショパンコンクールの角野氏の「ピアノソナタ第2番」って、そういう類のものだったのかもしれません。
だからこその反響であり、風当たりだったのでしょうから。

アンコールのパイプオルガンは、3階という特等席のお陰で体全体に内側から響くような音を感じることができ、言葉にできないほどの感動をいただきました。
本当に感謝しかありません。
そう、言葉にできないので、私の中に大切な宝物として取っておきます。笑

3/13高野麻衣氏による千穐楽公演の素晴らしいライブレポートが公開されました。
このツアー中に覚悟をもって格闘されただろう孤独と、そして音楽への愛は……まさに!!!!

レポートタイトルよりも、高野氏が書かれた要約の方がしっくりきたのでTweetを埋め込ませて頂きました。
私の直前・直後のTweetは下記なので、ほぼ同じ印象だったのです。
(というか、本編投稿時の感想前は、ほぼ角野氏の挑戦をリアルタイムで追ったものと言えるかも…)。

表現のアイデンティティに関わる為「古典信奉者=伝統破壊・逸脱/独創信奉者=非創造・真似」と双方の保守層から意見されるので風当たりは2倍。本来音楽には境界はなく自由なのですから、中道(両義を超えた仏教的意味)として創造の道を歩まれる志と勇気に感謝し、訪れる新な時代に期待
(3/9投稿 ー金子先生の「色々ご意見が出始め」のTweetを受けて)

※中道 補足「」内wikipediaより
「断・常の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと」
「中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す」
両義(仏教用語としては二辺)の「矛盾」を超えるために「飛躍」を前提とした「中」の「道」という事なのです。
やはり古代人は常に構造的て相対的な視点を持っているいるな…と、改めて思います。

ーーーー

角野隼斗 氏の演奏はこれまでも音楽の楽しさが伝わる素晴らしいものでしたが、昨日は過去に感じたことがないほど音楽への大きな愛が溢れていて、その光が会場に満たされていました。普賢菩薩の慈愛のように、それは聴衆だけでなく音楽の未来をも救済することになるのでしょう。
(3/11投稿)

※普賢菩薩 補足「」内wikipedhiaより
「10世紀頃。浄土思想が流行し、女性も往生できると説く「法華経」が支持を集めていたことを背景に、極楽往生を願う女性たちから篤い信仰を得るようになった」
菩薩は全て人を救ってくれますが、私が普賢菩薩を選んだのは「普」「賢」という言葉が使われているだけではありません。
上記に書かれている様に(注:法華経は鎌倉時代以降の現代に通じる日蓮宗の法華経とは少し違う平安時代のもの)、当時男性しか往生できないと言われた時代に、マイノリティである女性をも救う唯一・初の菩薩様でした。
それぞれの菩薩は人を救う「誓願」(複数)を持っているのですが、「恒順衆生=常に諸衆を敬う」も入っているのです。
賢いだけでなく、いや、だからこそ?全ての人間に平等に注がれる慈愛は、クラシックやジャズやJ-popだけでなく、おもちゃとして扱われる楽器やサブカルチャーまでをもフラットに対峙し、美しく楽しい音楽を奏でられる姿に重ねられるなあ…と。
ちなみに、如来に対して不完全である菩薩だからこそ人間を救ってくれる(人の救うその誓いが誓願)で、如来と人間の両者を不完全な(修行中の)仏が間で取り持つ、みたいな考え方。
その中間領域的存在は、まさに私の好みです。笑

(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用と補足)

STAFFさんの投稿では「記念碑的」とありますが、恒例のソロツアー千穐楽では、通常は「記念碑」と言える出来事にはなりません。
が、新たなステージへの一歩を踏み出されたことは、ファンだけでなくスタッフの皆様にとっても揺るぎのない実感だったのでしょう。
このnoteでは何度も書いていますが、角野氏は概念やコンセプトを表現として完成させる力が本当に物凄い。
しかも、誰もが分かる・実感できる伝わりやすさに到達します。
今回もまた、かつでない完成度で表現に昇華されていましたが、そこには音楽への愛が満ち溢れていました(その音楽への愛が前述した+α)。
「菩薩の誓願」とは、「その誓いを果たさなければ如来(完全なる仏)にはならない」という覚悟であり、慈愛はその覚悟がなければ成立しません。
角野氏のその覚悟と慈愛は、過去・未来に対して「今という時代を担う芸術家としてのもの」「時代を背負う自覚」と、私は捉えさせていただきました。
相互フォローさせて頂いているファンの方が「スタートする 決意」と書かれていましたが、本当に!
高野氏はレポートタイトルに「現在地」と使われていますが、こういう時は感動的になる言葉として「到達点」を用いられる事が多いと思うのです。
あえて「現在地」という言葉を選ばれたことからは、将来を見据えた高野氏の特別な想いを受け取らせて頂きました。
その道はさらに続くのですから。


<音について>

ここからは、「音」に関わることを色々書かせていただきます。
初回投稿時にネタバレ防止として下方に記載していたのは、以下の内容です。

「普通ではまずないと驚いた演出的なもの」
「カプースチン:間奏曲」の後半、Jazzyな曲調に変化して高音に何回かジャンプするところがあるのですが、なんと、その高音の調律が狂っている〜〜!!!!
わざと調律を狂わせるなんて。。。
こんな事、普通あり得ないでしょ?!笑
音楽としてJazzyな表現というだけではなく、このことが「場末感」を強く演出していたと思われます。
たぶん、休憩中の調律で変えられたのでしょう。
グランドピアノは、前半が「スタクラフェス」で感じたような空気感のある音から(詳細は解釈とイノセントな表現性〜」)後半はクリアな通常のピアノの音に戻されたと思います。
特に低音と高音部の変化が著しく、胎動の最初の低音で「おおお!全然違う!!!」となりました。
グランドピアノの変化は予想の範囲だったのですが、アップライトの「わざと狂わせる」というのは全くの想定外だったのでビックリ!という事でした。
※2/22の北海道公演で「後半アップライトのチューニングが素敵」というご感想のストーリーズを角野氏がリポストされていました。

その後、川上昌之氏のブログにも「ホンキートンク調に調律を施された状態」と書かれています。

ですが、私が聴いた長野公演では音色以上に上がった時の2,3音が狂って感じられました。
だからこそ単なるカントリー調の音色ではなく「場末感」につながったのです。
調律もされず、毎夜酔っ払いを前に演奏されるアップライトピアノのイメージです。
で、千穐楽はどうかというと…「狂ってる」と感じられたいくつかの音だけでなく、高音域はまとめてホンキートンク調の音色。
「狂い」を感じるほどまでは行かず、場末感は消えていました。
演奏のスタイルも、長野よりは崩しておらず(ジャズ寄りでは無い)と思われるので、音とのバランスをとられているように感じました。

他の方も書かれていましたが、アップライトピアノはツアー中に音色が変わっていった様です。
カタカタ音が少なくなり空気感のある籠った響きの比重も大きくなり、あたたか味や包み込まれる質感が増していました。
一方、フワーッとやわらかく広がる響きと対象的だと思われる金属音も多く感じられるようになりました。
オルゴール、チェンバロ、という様な金属的なビリビリする音です。
オルゴールは金属の片方が開放されていますし、チェンバロの構造を調べたらプレクトラムが弦を弾いてもすぐ近くにあるため、たぶんプレクトラムがビリビリの共振を産んでいると思われます。
ピアノの様に線の両端からテンションがかかっている状態だと普通はこの音にはならないのでは…と思うのです。
三味線の場合ビリビリ共鳴する音を「さわり」と言い、あえて竿に糸が触れるように仕掛けを施すのですが、そういうちょっと仕掛け的なものがあるのかも?と思ってしまうほどのビリビリする共振でした。
とにかく、この非現実的に感じられるような金属音と、あたたかい包み込まれるようなふわっとした響きで、今までに聴いた事がないような音体験となりました。


<創造性に変位をもたらす相対と双対>

私としてはよりタイトルの核心に関わる内容だと思っていますが、ここからは角野氏のツアーからは離れます。
しかも、本編並に長文なのでご興味のある方のみどうぞ。

ツアー開始当初&パンフから超ひも理論の話題が出ていたため、相互フォロワーのファンの方がコンサートのご感想とともに参考文献を提示下さっていました。
最も簡単そうな薄い本を読んだのですが…正直、超ひも理論自体はさっぱりわかりません。
ただ、思わぬ発見がありました!
「解釈とイノセント〜」では一つにまとめられない連立する概念に両界曼荼羅的な思考を当てはめたのですが、なんとなんと、この「二つが対になって一つの世界観を表す」概念が、物理学では「双対性」という対応関係で示されると書かれていたのです!!!

物理学の世界では、無関係だと思われていた別々のものが深い対応関係で結びついていて、実質的には同じ(等価)だったとわかるということが、しばしばあります。こうした対応関係のことを「双対性(そうたいせい)」とよびます。

超図解最強に面白い!!プレミアム「超ひも理論」橋本幸士著

うわ〜〜〜、レヴィ=ストロースも未開地域の人が高度な数学を用いていると書いていますが、両界曼荼羅を発明した(あえてこの言葉を使います)古代人すごすぎる!!
ちなみに、超ひも理論の高次元も各次元を分解して個別に理解すると書かれていたので、2つで一対という特別性を除けば考え方は同じなのかもしれません。

タイトルを決める時「拡張」を却下した理由はすでに書いていますが、私の中では、クリエイティビティの範囲が揺らいで動いていくイメージでした。
その時は漠然としたものでしかなかったものが、今はっきりとその領域は相対観で成立しているだろうこと、中道的な創造性は双対的表現であるだろうことに気づきました。
そこで、追記時に総タイトルに「/他」を加えて、これから書く「相対」「双対」に通じると感じられた「題名のない音楽」mumyo版「andata」と「DUMB TYPE 2022: remap」展について考察します。

●3/4「題名のない音楽」で演奏されたmumyo版「andata」

観た直後(同日)の私の感想は…

#題名のない音楽会 の「andata」、#成田達輝 氏による「ラディカルな視点」による編曲、結果としては昨年落合陽一氏が日本的解釈をしたジョン・ケージ「ミュージサーカス」と同類で、概念は能の「拍子合わず」とも同じ。成田氏が「日本へ帰って来た理由の根底」とおっしゃった訳に納得!
#角野隼斗

(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

放送前に公開されたヴァイオリニスト成田達輝氏のInstagramでの解説を受けて上記Tweetをしていますが、「遍在する音楽会」で私自身が感じたことと成田氏が放送で語られていた「生活の中で音階がノイズになる/ドレミがノイズになる」ということがほとんど同じでした。

冒頭に、自分の芸術への興味が反ポストモダンから発している事を書いているのですが、その理由は「美しくないから」でした。
多様性とかポストモダンは、当時サラダボールに例えられていたように美しさとは無関係で本当に「ごっちゃ混ぜ」。
このミュージサーカスは、ポストモダニズムの時代につくられたという意味ではまさにその概念を象徴していると思われるのですが、今回は全然嫌な感じがなかったのです。
しかも驚いたことに、帰宅のために電車のホームに並んでいる時や電車の中で過ごしているいる時間、無造作に流れてくる音や音楽に対し「こんなに耳障りだったのだ!」と気付いたのです。
どうやら、ミュージサーカスの体験によって「外界からの音をすべてを音楽的に受容する」という身体性に変化していたらしく、普段は無視している雑音を「聴いてしまった」と思われます。
今までのリアルが実は本当のリアルではない(雑音をフィルタリングしていた)という事に驚くとともに、本来の現実が非現実のような感覚すら覚えました。(帰宅後はあっという間に現実に戻されましたが…)

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.6 《遍在する音楽会》

ただし、放送時の成田氏の言葉だけでなく関ジャムの坂本龍一氏特集時の氏のコメントでも似た様な事が語られていたので、偶然という訳ではありません。
坂本氏の新作「12」はジョン・ケージ「4分33秒」から影響を受けているように語られていますので、ケージの概念が根底にあると解釈すれば共通性があって当然と言えるのです。
とはいえ、坂本氏の「andata」での表現は生活の中のノイズや音楽との関係性への気付きであったのに対し、成田氏はより一方その思考を進められ「どう共存・共生していくか」を問われています。
放送ではmumyo版「andata」のどこが「共存・共生」になるのか語られていませんが、これこそがこの作品表現の核であり、音楽作品としての創造性が最も表出している部分だと私は考えます。
(自分が想像するには、成田氏が語られた「ラディカルな視点=ケージ的解釈」「フランスから日本へ帰って来た理由の根底にあるひとつ=日本文化を背景とした調和」かと…)

改めて「遍在する音楽会」との比較を書かせて頂きますが、この中では落合氏がオリジナルを踏襲する解釈で行ったミュージサーカスと日本的解釈(私がそう思っている)のミュージサーカスに分かれていて、前者は野外のプレイベントとして、後者はサントリーホール内のホール版として行われました。
ダイジェストのホール版(mumyo版「andata」に近い表現)を下記に頭出しをしていますが、演奏終了直後の落合氏の言葉はまさに、「完全に調和した空間」でした。
(野外のミュージサーカスは冒頭に収録)

コンサートホール版ミュージサーカスについて。
プレイベント版と大きく違うことは、全体が一つの音楽作品として成立していることです。
広場のミュージサーカスと同じように、始まりは一斉ではありません。
虫の音や鳥の声が方々で聴こえてくるように、会場のそれぞれ違う場所から音楽が聴こえ始めるところは同じなのですが、プレイベントでは広場を歩きながら「中心となる音楽とその背景に流れる音楽」が変化する様子を楽しみましたが、ここでは空間の中で全てが調和した一つの音楽として成立していました。
とはいえ、途中楽器が変わったり曲の切れ目があったりして、聴こえてくる音色は一定な訳ではなく、自然界における「ゆらぎ」と同様です。
それでも、全てが一つのハーモニーとして響き合っているのです。
(中略)
しかもこの調和は演者にとっては無意識的な行為の結果として成立したもので、そういう意味では共感覚(通常の感覚に加えて別の感覚が無意識に引き起こされる現象のこと)に近いかもしれません。
これはあくまでも私の想像なのですが、日本文化の中に虫の音や鳥の声を音楽として愛でる感覚が存在し、その感覚が古典芸能の表現性に様式として取り込まれている為、今回のように古典芸能を中心とした音楽を集めた場合、ケージのミュージサーカスとは異なる結果を生んだと考えられるのです。
ケージ作品との比較に以前から度々用いている高木氏の「Marginalia」ですが、8/11山の日に放送されたJ-wave「A DROP INTO THE FUTURE」では「虫や鳥などの合奏している感覚がある、響き合う感覚がある」とおっしゃっていました。
それは落雷といういう気象現象であっても同列に考えられていて「自分が疎通が取れていると思った時には反響が必ずある。それが無い場合に「Marginalia」としては良い作品になはならない」と。
日本の文化的な志向性として、表現者においては無意識であっても、環境に調和しようとする感覚がなんとなく存在していて、それがケージのミュージサーカスとの大きな違いを生んでいるのではないでしょうか。
ちなみに、能には「拍子付合(ひょうしあわず)」という拍子があり、囃子と謡は意識的に合わせてはいけないのですが、合っていない様で合っています。
そういう作為のないところの調和(作為の無作為)として成り立つ様式、分断ではない独立の中での調和が表現として成立しているのです。

落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.6 《遍在する音楽会》

「題名のない音楽会」放送から遅れて公開された梅本佑利氏による解説「坂本龍一「andata」梅本佑利、山根明季子による編曲版@mumyollc のプログラムノート」では、音楽的な専門分野はわからないものの、日本的な音楽技法が西洋的な音楽にも用いられているということだけはわかりました。
一方、坂本氏のアルバム名「async」が非同期という意味である事を、なんとこの解説で知ったのです!
「拍子合わず」とず-っと書いてましたが、英語もわからなければ省略語の意味も調べておらず(角野氏のコンサートの予習を優先してしまった。。。)、何の確証もないまま勝手に思っていただけで…すみません。
ですが、そもそもアルバム名がソレだった!!!(笑)

以下、梅本氏が引用された坂本氏の言葉を、私なりに解釈してみたいと思います。

「世の中の音楽の99%は同期しているし、人を同期させる力を持っている。
同期するのは人間も含めた自然の本能だと思うのですが、今回はあえてそこに逆らう非同期的な音楽を作りたいと思いました。」

「ある人にとってはただの騒音でも、僕にとっては音楽。ノイズもサウンドも人の声もすべての音が音楽なんです」

アルバム「async」について、坂本龍一氏の発言より((GQ JAPAN - 2017年5月11日 "坂本龍一、新作『async』を語る──「いちばんわがままに作った」")

梅本佑利・山根明季子 編曲- 坂本龍一「andata」(2017)(ヴァイオリン、ピアノとパイプオルガンのための編曲版, 2023

坂本氏は「ノイズもサウンドも人の声もすべての音が音楽」とおっしゃられていましたが、関ジャムのコメントでは音階のある街中の音楽を「うるさいノイズ」とされていました。
電車内で音楽を聴く人にとっては楽しい音楽でも音漏れした音を聞かされる周りの人にとっては騒音でしかないように、それは視点によってノイズにもなり音楽にもなる、という相対的な評価です。
なぜかと言えば、それが音楽を楽しむ人とそれ以外の人と共有されていない=非同期だからです。
その一方で、坂本氏が書かれたように音楽は人を同期させる力を持っており、大きな音や音楽で強制的に人を同期させることができます。
小学校の行進曲や校歌など、ノイズになるどころか人の心までもコントロールするかのような力さえ持っているのです。
つまり、
音楽が同期している状況とは、特定の価値観を「共有」すること
音楽が非同期である状況とは、複数の価値観が「共存」していること
と言えるのではないでしょうか。

共存するということは単にそこに存在すれば成立するので、ポストモダニズム的にガチャガチャした「なんでもあり」にもなりますし、条件が整えば調和のとれたハーモニーにもなり得ます。
両者を分けるものは何かといえば、「同期(調和)に向かう自然の本能」に従うか従わないか、ではないでしょうか。
そう、非同期なのに同期的志向がそこに存在するかどうかなのです。

同期=A 非同期=B として「現象:志向」を考えると、A:A/A:B/B:A/B:Bという4つの組み合わせのうち、下記1つでしか成立しません。

B:A→非同期の調和した音楽

「無音を音楽にする〜」では、角野氏がピアニカを用意する間にも音楽が途切れない事を書いているのですが、無音状態・演奏されていない状態でも音楽(実際には演奏されていない)と同期している・同期する志向性があると考えられるのです。
もちろん、ブランクの時間は短い方が良いのでしょうが、そういう単純な時間問題だけでは計れないものがあるということです。
今ツアーにおいても、音楽性を損なわずに曲の途中でアップライトとグランドを行き来きされていることにも通じています。
これは、「非同期(=無音も含む)の状態にある同期の志向」という構造として、mumyo版「andata」演奏時と類似しているのです。
成田氏と角野氏との間で非同期を前提としながらも同期的志向が存在するからこそ、美しい音楽表現として成立していました。
引用している上記、高木氏の言葉から借りるのであれば、成田氏と角野氏は違いに向かい合うことも音楽的に同期することもないままに、「疎通が取れている」「反響がある」という確信の上で演奏されているのだろうと思われるのです。
番組で紹介されていた「オリジナル曲と異なる解釈」という意味で言えば、メロディが飲み込まれるものが「無機質なノイズからドレミの音階を持つノイズ」に変わったこと以上に、「音楽が音に飲み込まれるという一方向性から相互間の関係性(非同期における志向性としての同期)」という変化こそが「異なる」部分なのではないでしょうか。
それが「双対」の概念に通じている、と私には感じられるのです。
また、同期・非同期の解釈自体は視点によって変わる、という相対観にも繋がっています。
もちろん、無音や完全に無機質なノイズは双方向ではありません。
本来、反響や疎通という実感が得られない対象にまで同期の志向性を広げる、主観的に相互作用(反響や疎通と同質)の実感を得るという感性が、角野氏の「無音での同期」や、高木氏の「Marginalia」への厳密な解釈と言えるでしょうし、本来無機質なノイズでしか無いものに対して「音楽」と捉える坂本氏の感覚もまた類似の感性によるものだと考えられます。
それらは「おんがくこうろん」で、音楽の発生していないケージの「4分33秒」を松風に例えた日本的感性同じと近しいと思われ、一連のことがつながった!!!という感じがしました。
古代人の感覚やプリミティブな感性など、レヴィ=ストロースの思考も含めて、坂本氏の「自然の本能」と書かれた非同期における同期への志向性は、能の「拍子合わず」だけでなく、狂言の独白がシテとアドで完全同時に行われたり(観客が聞き取れるかどうかは無関係)、演劇行為をあえて人形と語りに分けた文楽の表現だったり、様々な日本の芸能に通底している様に感じられます。
芸術表現はそれを理解する感性が受容者に存在しなければ表現として成立しませんが、今なら世界に通じる新たな音楽表現の可能性が日本から開かれているように感じられ、ワクワクします。
それらが現代の感性として世界にも受け入れられるだろうという論拠は前回のnoteで書いた「神の威光が弱まりキリスト教的価値観で統一される以前の感覚に近くなった」という事なのですが、もしかしたらAI等のテクノロジーにもその要因があるのでは?というのがDUMB TYPE「2022: remap」で感じたことです。

●DUMB TYPE「2022: remap」@アーティゾン美術館

坂本氏の最新作「12」がケージの影響を受けていることを知り、角野氏の関連とは関係なく見逃せない展覧会!とチェックしていました。
また、梅本氏が引用された坂本氏の言葉にある「音の収集」「”音響彫刻”」は、そのままの形で展示作品に用いられています。

「題名のない音楽会」への番組出演の情報が出回った際、ファンの皆様の多くが「Aqua」や「千のナイフ」等の曲に関心を寄せられている中、一人ズレたTweetをしていました。笑

#ダムタイプ (+#坂本龍一)「2022: remap」来た!ヒエラルキーの無いフラットな制作スタイルとモダン様式の最前線でポスト•トゥルースを思考するのが正に今! ポスト•トゥルース=「客観的な真実」より「主観的あるいは叙情的な意見」が集団的影響力を持ちやすい現代の状況。
https://www.artizon.museum/exhibition/detail/555

ポスト•トゥルースを検索すると社会におけるマイナス面=フェイクニュース等の表面的事例ばかり出てきますが、真実そのものを疑う姿勢が含まれている所こそが核!(2020年 第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展
(2020年 第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 選定時のステートメント 美術手帖からのスクショ)
https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/21496
※Twitterでは文字数制限のためスクショを貼りましたが、引用フォーマットでは貼れないので、下記にステートメントを引用

ーーーーー

ダムタイプは システムである 活動開始以来、特定のディレクターを置かず、様々なメンバーが参加し、フラットな関係での共同制作を行い、その活動の領域を拡張してきた。 ダムタイプは、さらに拡張する ダムタイプは、観察する 自然を テクノロジーを 社会を 人間を post-truthの時代を 「真実の向こう側」を 「時代の穴」を post-truth 「Truth」自体を疑うこと 今まで信じてきたシステムが崩壊しようとしている分断された混沌しかない世界で、今まで事実だ と思われていたものが不確かに感じられ、人々は自分たちが信じたいものを「真実」と思い込む。 「真実」は、もはやかつての「真実」ではない 「未来」は、もはやかつての「未来」ではない 「希望」は、もはやかつての「希望」ではない 「幸せ」は、もはやかつての「幸せ」ではない インターネット上の言説空間=post-truthをどう受け止め、霧のように重さの無くなった言葉に包 囲されている情報環境の中で「当たり前」を純粋な視線で見つめ直し、「今をどう理解し、生き、 そして死んでいくのか?」 問い続けなければならない。

(2/25投稿 サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

今回はヴェネチアビエンナーレのステイトメントのような、作品解釈につながる資料はありません。
また、このステイトメントと実際の作品は直接繋がっていないのではないか?(日本館の作家選出時に公開されたテキストのため、再構築した作品との遊離がある可能性は否定できない)と思わされることもあったのですが、鑑賞後にじっくり考えてみたらトンデモ無い!!!
もしかしたら、あの日あの時にDUMB TYPE「2022: remap」を稀有な確率で体験できた一人だった可能性に気づきました。
通常は考えられない事なのですが、DUMB TYPEだったらやりかねない!ということで。。。
とりあえず、参考になった作品解説動画の頭出しをリンクしておきます。
ただし、参考になったというのは「実際に自分が観ている(観た)作品と違う!」と気づくことができたという意味で、です。

そう、明らかに解説されていた作品とは違っていたのです!!!
その違いにこそ、たぶんステイトメントに書かれている意味が込められているはずなのです。
真実かそうでないものか、未来か過去か。。。
作品を観ている者を困惑させ、その視点を相対化させる所に作品意図があったのではないか、と。
でも、その作品(というよりも事象)に運良く巡り会える人はごくわずかで、気づく人はさらに少ないかもしれません。
私も事前に解説動画を観ていなければ気づきませんでしたから。。。

読まれなくても後の意味は通じますが、鑑賞時の様子を小文字で記載します。
作品自体を説明する意図はないので、解釈に関わる部分のみの記載です。
(作品は天井にある画像を床にある鏡に投影させ覗き込むメディアアート)
会場中央にある上記のメイン作品(作品は3点あるものの個別の作品名はない)は、複数の動画に分かれていて、各セクション間にはブランクがあります。
私が観始めた時、「地図」から始まり多くの「光る点(上記1枚目の左側にあるような)」の集合が重なり、点が小さくなるというものでした。
解説動画とは逆だったので、???と思いながら観続けると、マップだけでなく、多くの光る点の上にモールス信号のようなラインが重なりクロスする映像が現れ、やがてラインは消え光も少なくなる、というものもありました。
2つのセクションが終わりブランクになったのですが、映像もサウンドもが
始まらずブランクのまま。
再開が遅いので人はどんどん減っていき、私と男性一人になりました。
自分は解説動画と進行順が逆だったので、全ての作品を観ていないのか、もしかしたら逆表示があるのか、という疑問で次の映像を観るまで粘っていました。
すると、白い手袋をした警備員の男性が中央鏡の中に前に立ち現れ、指差し確認のような動作を始めました。
アクション自体は大きくはないのですが、時々足小さく蹴って何かの方向を変えるような仕草を見せたり、話はしないのですけどイヤホンに耳を当てて会話しているかのような素振りをみせたり、腕時計を見たりその時計を指さしたり、白髪混じりの40代以上だと思われる男性の動きが余りにもキレキレすぎて、どう考えても素人には思えません。
また、パフォーマンス内容も指差し=方角/時計=時間/会話のフリ=サウンドの会話 など、作品内容に関連がある様に解釈できるのです。
もしかして、、、ハプニング(パフォーマンスの一種)かも!!!と、目の前で動いている人物を直視せず、作品鑑賞時同様に床下の鏡を通してずっと観ていました。(鏡に映る場所で行っていることに意味があると考えられた為)
現時点でも確証はありませんが、DUMB TYPEだったら「ハプニング」をぶち込んでくる位は当然ありえます。
そのパフォーマンスが完全に終わる前(四角い鏡の4辺を1辺ずつ移動しながらパフォーマンスを行い3辺目の途中)に作品の再生が再開し、人が少しずつ集まってきました。
パフォーマンスを停止し警備員として静かに見守っていましたが、警備員が作品鑑賞の最前列にいるのは不自然だと感じられます。
さらに人が増えてくると少しずつ後ろに移動されましたが、それでも3,4mの割と近い距離で見守っている感じが妙な違和感でした。
再開した作品映像はと言えば、やはりその前にみた逆順(解説動画とは逆)だったので、うーん、、、と諦めて別の2作品を観に鑑賞の輪から離れました。
別作品もなかなか面白かったのですが、キリがなくなるので省略。
(とはいえ、写真だけは下記に掲載)

20〜30分程度そちらを観た後にメイン作品を取り巻く通路(右下の作品がサークル状に並べられている)を歩いていると、先ほどの警備員の方が通路を歩かれてたので、彼がパフォーマーなのかを確認するため交代後警備の様子を見にいきました。
すると、通常の展覧会と同じく警備員の方は壁際で遠巻きにしています。
やはり、作品の目の前に来る警備員なんて普通は考えられない。笑
そして作品に目を落としてみると、なんとなんと、映像進行順が解説動画と同じになっているのです。
もしかして、順送と逆送りが交互になっている?と、さらにもう一巡鑑賞してみましたが、やはり解説動画と同じ進行順。
「ハプニング」前後の動画だけが逆送りになっていたのでしょうか。
この映像の順・逆は、そもそもの一つのセクションの中でもわかりづらくできていて、警備員=パフォーマーかどうかという問題以上に確証がありません。
坂本氏が担当されたサウンドは、音楽・セリフ・ノイズが混じり合っているのですが、映像と非同期的に進行しつつも部分的には同期していて、一番同期がわかりやすかったのはモールス信号の様なラインが映る所でした。
単純線だけが表示されている部分は純粋な信号音・パルス音なのですが、別要素(マップや光)が重なると、セリフや音楽がパルスと重なっていきます。
逆行バージョンの場合でも音楽を逆再生するわけではないので、よくよく聴いていると「順行=パルスに会話が追加」「逆行=音楽にパルスが追加」」という違いが生じていたのです。
たぶん他の部分も私がわからなかっただけで違いはあるのでしょうが(そうでなければ逆順の映像にサウンドとして同期しなくなる)時間切れで(所蔵作品展も観たかったため)確証が得られるまで観続けることができませんでした。
ほぼ2時間以上同じものを観続けていたことになるのですが、実は全く苦にならないほど、その映像も音も含めた空間そのものが心地よく調和・統合されていました。
前のものと比較する前提で観ているつもりが、ついついそういう意識とはかけ離れた、ただ心地良い空間と光に身を任せるような鑑賞になってしまう感じなのです。
ですから、2時間半も費やしながらも疑問は不確実なまま。笑
逆に言えば、それだけ音と映像と文字は同期と非同期が混在しながら一つの作品として美しく共生していたと思います。

ここから書く解釈は帰宅してから1日経ってから考察したものです。
スクショしたTweetにも書いている様に、ある種の混乱を起こさせるほどに時間の「順行」「逆行」を同等に扱っていると思われます。
なぜなら、「順行」「逆行」どちらの進行でもTweet右上のようにMapが崩壊する様、Mapが現れる様が映し出されるからです。
その一方で、宇宙の銀河のような光とモールス信号の様なラインは一方向に進行しているため「順行」「逆行」の判読が可能でした。
(順行:少→多・単独→多重/逆行:多→少・多重→単独)
MAPにも地名が表示されているのでよく観ていれば進行順が逆かどうかは分かるのですが、数カ所の地名だけしか分からなかったため(マイナーな都市名が多かった為)確証に至りませんでした。

細かい光の集合は、解説動画では文明が発達する地球上のに感じられる、その上のMAPが重なることで文明の発展を強調しているかの様に感じられるという解釈をされていました。
私が逆行で見ていた場合は、煌めく銀河・天の川の様にも見え、だんだんそれらが減っていく(見えなくなる)ので、天の川が見えなくなる事もまた、文明の発達を物語っているのだとも感じられます。
そう、動画の順行も逆行も似た様な解釈になってしまうのです。
細かい光の集合にパルスのラインが段々パルスが乗っていく様も「出現・消散」という意味が映像の進行順によって固定されていません。
説明が難しいのですが、「逆行」が「逆巻・後戻り」の様な表現ではなく表現自体は逆行でも解釈する意味が同じになるのです。

3セクションの動画をアルファベット、私が受け取ったイメージが片仮名だとして考えると、

順行:A→B→ C =ア→イ→ウ
逆行:C→B→A=カ→キ→ク

となります。
アとカは同じ母音ですから対象は違っても解釈を同様にすることができるのです。
この事のもう少し詳しい説明は後述します。

では、「ハプニング」は何だったのかと言えば、本来の作品がOFFである時にONになるというところに意味があると思っています。
映像として映される仮想世界こそが作品として「本物」ですが、その作品が停止中にリアルな現実世界でパフォーマンスが行われているのです。
ただし、映像が映し出される同じ鏡に映るような位置でパフォーマンスが行われている時点で、リアルな人間の動きをそのまま見せるのではなく鏡像(非現実)としてみせる意図が感じられます。
直視できる場所であるにも関わらず、作品と同じ鏡越しの視点が維持される場所でパフォーマンスが行われ、観者は映像作品と同じ鏡を通して鑑賞する。
これは果たして現実と言えるのか否か。
ONとOFFの概念/現実・仮想の概念/正・逆の概念を作品として相対化させたのがこの「ハプニング」だと私は思うのです。
当たり前の様に客観的な一つの世界だと思っていたものは、二つの世界が「双対」として同時に存在していたことを示すかの様です。
自分が「客観的」だと思っていた世界は、自分が主観的に選択・認識しているに過ぎないと気づかされます。
それらが、ステートメントに書かれていた真実を疑う姿勢であり、不可逆とと思われている時間概念をも相対化することに他ならない、と感じたのです。

順行/逆行について、DUMB TYPEが特別な表現をした訳ではないことを補足します。
あくまでも例えとしてですが、mumyo版「andata」を分解して考えてみます。
主体=パイプオルガン/客体=ヴァイオリン で主体が客体に飲み込まれいく表現ですが、DUMB TYPE「2022: remap」のように逆行=客体に主体が飲み込まれる音楽構成にした場合(録音的逆再生ではない)、主体や客体には意味としての必然性が存在しないため、その「座」が逆転し、主体=ヴァイオリン/客体=パイプオルガン になるだけで、「2022: remap」と同じ結果が成立します。
「飲み込まれる」という音楽的質感はシニフィアンとしての表象性にそのほとんどが託されているので、中身が変わっても結果には影響がないのです。
ところが言葉の様に意味を持つ場合、教会が湖に没することはあっても湖は教会には没しないので、逆行は動画の逆再生のような水の中から教会が出現する表現性しか成立しません。
抽象度が高ければ時間性は非同期(≒無)として扱えるのに対して、具象度が高ければ時間が進行に同期するという事でもあります。
完全に無機質・無意味な抽象であれば、順行も逆行も主・客の入れ替えとして同質になってしまうので表現としては面白くないでしょうから、やはりそのバランスってことですね。
DUMB TYPE「2022: remap」では、観者を混乱させるバランスの極みで、作品として非常に面白かったということです。
また、mumyo版「andata」も、坂本氏オリジナル曲の解釈がシニフィエとなることで、芸術作品としての深みや芸術表現としての面白みが付加されていたともいえ、もし無機質な曲名がついた新作であれば、音楽的な評価には影響がないとしても、芸術全般と同様な「鑑賞感」は至らなかったと思うのです。
ですが、音楽への純粋性を求めて他のイメージに依らない表現も当然素晴らしく、坂本氏の最新作や前回の久石譲氏がタイトルに意味を持たせたくないとおっしゃる意味も納得なのです。
色々な作品があって良い!ということなのですから。

ちなみに、「無名」という命名はそれ自体がシニフィエとしてシニフィアンを拒否するというアイロニーとしての含みがあり、古典の引用(枕草子だけでなく蝉丸も!)としてはイメージを複層化していて…と、これがなかなかに面白いのです。
mumyoの皆様の今後も楽しみです。

さらに興味深かったのは、解説動画で話されていた土地や場所などの認識の仕方が今の人々とは違うのでは?という問いかけでした。
ここからは私独自の解釈で動画解説とは違うのですが…
地図から情報を得るためには、地図としてのルールやフォーマットを理解する必要があるのです。
けれど、今は全く何の知識がなくても様々な媒体によって(地図ではない媒体でも)地図同様の情報を得られます。
地図を読み解く為のルールや知識は、無意識的であっても地図という媒体を俯瞰的に認識させていたはずです。
インターネットも同様で、昔は自分が求める検索結果を得るために検索言語を工夫するなど、検索機能に人間が合わせていました。
様々な媒体にはそれぞれのフォーマットがあり、最善の結果を得ようと工夫することが、知らず知らずそのフォーマット自体を意識することになっていたと思われます。

では、AIが発達したらどうでしょう。
人に尋ねてその場所に連れて行ってもらうのに近い感覚のまま(情報入手のためのフォーマットを余り意識せずに)、地図と同様の情報が入手できるのです。
今のGoogkeは検索文字の間違いも是正してくれますが、果たしてそれが本当に自分が望んだ情報なのかの判断がだんだん難しくなりつつあり、もしかしたら誰かに都合の良い結果だけが表示されているかもしれません。
テクノロジーの発達で様々なフォーマットに分かれていた媒体へのアクセスが容易になればなるほど、アクセス間はブラックボックス化されます。
見えなくなる事は無いことと近しくなり、本来は多様で相対的なフォーマット上に乗っている情報等が、自分の目の前の一つの世界に存在しているかの様な錯覚を起こさせる可能性が考えられるのです。
つまり、ポストトゥルースとは目の前に見える一つの主観的世界観で全てを考えることだろうと思われるのです。
私はこれまで、ポストトゥルースはプリミティブな主観的感覚にも通じると思っていたため、wikipediaに書かれているような否定的な意味だけでは捉えていませんでした。が、先への不安を今回初めて覚えました。
客観的情報を重視しなくなった事への危惧ではなく、相対的価値観や俯瞰する視点が欠如する事への不安です。
人間には純粋な知識欲もありますし、俯瞰的視点を持つ方々がいなくなるという心配ではありません。
ブラックボックス化が進む世界で俯瞰的思考を心がける人と俯瞰的思考に気づかない人との間に分断が起きる可能性が考えられる、という事です。

ただ、ここで難しい将来の話をするつもりはありません。
私は物理などわからないままに、その芸術の助けで「双対」の概念を実感することができました(正しく理解したのとは違う可能性もあるので、本当かどうかではなくて「わかった!」と自分が感じるという意味で)。
今回もポストトゥルースの考察をテキストで読んだのではなく、DUMB TYPEの芸術作品として体感したからこそ大きな気づきとなりました。
これらの実感や気づきをテキストで得る事は難しかったはずなのです。
つまり、ここで言いたいことは「今後ますます芸術が果たす役割が大きくなるだろう」ということです。
古代の人がなぜ主観的な視点でありながら世界の構造性(自分が住む以外の世界の存在)を想像・実感していたのか考えた場合、自然や現実に起こる有り様には理解を超えた出来事が多すぎて「自分達が生きている現実世界以外に何かがある」と考えなければ混乱してしまうからだったと思います。
そういう「自分達が生きている世界以外のモノが何かがある」と思わせる大きな力はこれまで宗教と芸術だったのですが、宗教の力が衰えた今、残るは芸術のみ…ということになるのではないでしょうか。

で、ようやく最後のまとめです。
私がこのタイトルでnoteを書き始めた時、その創造性の変位は希望でしかありませんでした。
でも、時代的には分断化が促される可能性が高いことにも気づきました。
私は、社会的・時代的役割を担う動機で芸術が創られることは否定的ですが(極論はプロパガンダに至る)、時代や社会への問題提起や結果として芸術が時代的役割を帯びることは大いにあると思ってます。
それは、過去の素晴らしい芸術作品がそうだったからです。
今後、共存しつつ分断化が進むのか、双対として共生し得るのか。。。

私は、角野氏のようなキメラ的・中道的な個性は、この時代変化に大きな影響力を持つと考えています。
それはDUMB TYPEのような難解さがないままに「相対・双対の概念=自分達が生きている現実世界以外に何かがある」ということを実感させる力を持っているからです。
なぜかと言えば……
表現者自身が主観的に音楽を心から楽しんでいる表現スタンスこそが、ポストトゥルース社会に共感を持って受け入れられるからです。

ホント、概念であれば素人の私だっていくらでも書けますけど、実際に表現にされるということがどれほどのことか…考えるだけでも気が遠くなりますね。
が、角野氏はもう、新たなステージでその一歩を進まれたという事なのでしょう。。。

ちなみに、なぜこれほど角野氏の表現性に惹かれるのかにも自分なりにすごく納得しました。
ジャズとクラシックという様式的なこと以上に、その個性が中道的クリエイティビティにあるのですから「中間領域」好きとしては堪らない!ってなる訳です。笑

<追記2>

上記の動画でモデレーターの羽田氏が、ここに書いている「創造という概念がそれほど古くからはなかった」ことや、創造=人類にとって普遍的な概念ではない、というから出発した未来への皆様の御意見が面白かったので貼っておきます。
ちなみに、AIにしろ創造にしろ条件や前提にバラつきがあるまま行われた座談会だったので、全体の結論よりもご出演の皆様それぞれのAIに対するスタンスの違いを多角的に知るという興味の方が大きかったです。



※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略