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【RP】落合陽一×日本フィル プロジェクトVOL.6 《遍在する音楽会》

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

<はじめに>
この公演を偶然(後の追記に書く予定)見つけた時の衝撃を引用します。

突然ヤバいモノを発見し、平日夜なのにポチる。デュシャンやパイクにジョンケージ、「音でも光でもない味覚や触覚や嗅覚的なグルーヴ」「リアルであることの問い直し」と来て…このリハ動画。
果たして、落合氏の概念は芸術表現として成立するのか?!

リハーサル&記者会見動画(下記)
「遍在する音楽会」サイトページ(下記)

(8/17 サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

実はナム・ジュン・パイクジョン・ケージについては以前のnoteでも言及しています。
そもそも本格的にnoteを書くきっかけになったのは「〜角野隼斗のはやとちりラジオ 1/12 高木正勝氏ゲスト回〜」からなのですが、私にとっての高木氏はファインアートの作家という認識が出発点で、以前のノイズによる表現(ビジュアル・音楽両方)はナム・ジュン・パイクからの文脈で受容していた、といういう内容のものでした。
その後「角野隼斗氏の「無音」を音楽にする可能性〜」で、高木氏の「Marginalia」とジョン・ケージの「4分33秒」を比較していたのですが、正直「4分33秒」は作品としてわからない…というものでした。苦笑
この時点ではケージの「ミュージサーカス」への知識がなかったので、高木氏の表現とケージとが結びつく事はありませんでしたが、今回はそれらが繋がっていた!と驚きました。
「Marginalia」と「ミュージサーカス」って、実はとても近い(特に今回のコンサートホール版の方!)。

遍在する音楽界」フライヤー(サイト内にリンクがありますが、表示画像のままだと文字が読みづらく、PDFの場所がわかりづらいのでリンクを抜き出しました)には「縁起を探す行為」について書かれていますが、お寺等の縁起(成り立ちの物語)は、「バラバラなもの達が不思議な偶然によって結びついたような出来事」で成り立っています。
投稿の最初にマルセル・デュシャンの名前を挙げていますが、まさかこんな所でシュールレアリズムからのデュシャンがつながるなんて思ってもみなかったのですけど、ちょっと繋がっているかも?!笑
しかも、このnoteで何度も思考・言及しているレヴィ=ストロースの構造性・飛躍・野生(原始)、日本文化までも繋がっていると思えてしまったのです。
レヴィ=ストロースとシュールレアリズムの関係がイマイチ理解できなかったのに、ここで繋がるって事?!とか、メチャクチャ大きなアハ体験。
一人で勝手に盛り上がって大変でした。笑
20年ほど前から、意味がわからないままバラバラに惹かれていたもの達が「不思議な偶然」によって、結びついたような感覚です。そういう全てがこの音楽会の中にありました。
自分にとっては本当に大きな出来事だったので、この「縁」は後に追記するつもりですが、見逃し配信が9/4までなので(国内のみ)、ご覧になるかどうか思案されている相互フォロワーさんへ、先に本作品(コンサートとか音楽会とか呼びたくない位に私の中では現代アート作品!)について書かせていただきます。
プレイベントのミュージサーカスも配信されている可能性があるのですが無い可能性もある為、配信はなかったので(8/28確認)限定公開で動画も貼りました(ちょっとグレーゾーンですけど)。

公式サイトの「ステートメント(落合陽一)」は、割と全体的な概念という感じなので、「遍在する音楽界」という作品(全体を芸術作品扱いにします)を理解する上では、フライヤーの文章の方が具体的です。
ただ、パイクの「定在する遊牧民」の概念をそっくり踏襲しているというより、落合氏が再考・展開させた解釈のような感じです。
私が簡単に調べられる範囲では、昨年の「SIGGRAPH(シーグラフ)Asia 2021」をまとめた記事の内容にオリジナル解釈と落合氏の解釈が記載されていました。(ここではパイクを「韓国出身・NYで活躍」とまとめていますが、学生時代を日本で過ごしている為、日本文化への造形も深く日本人クリエーターとの関わりも深かった)
この記事全体を拝見すると落合氏の日本文化への傾倒に驚くのですが、私自身が日本文化に関わりのない「構造性への興味(=一次元的なポストモダニズムへの不満)」から日本文化(特に能・茶道)へ辿り着いたので、落合氏のそのお気持ちがすごーーく分かる!
っていうか「でしょ!!!」って声を大にして言いたい。(脳内構造が違うので、考えていることのクオリティや次元は全然違いますけど…笑)

今年3月には「日下部民藝館 55周年記念特別展 落合陽一 『遍在する身体 交錯する時空間』」という、同じ「遍在」をテーマにした展覧会が行われていますし、開演前のホールには民藝運動が語られている声も流れるなど、その概念は通底していると思われます。
注:ほんの20年位前までは神格化された柳への崇拝が大き過ぎ、運動内に宗教じみた妄信が感じられたり、柳の「極み」によって無名作家・作品の有名化が起きるなど(上記ビジュアルに用いられている円空仏はその最たるものですが、美術史界における発見レベルに至ってしまった為、結果として目利きによる「極み」とは違うものになった)、民藝運動の理想に対して現実的な問題点が大きく感じられたのですが、柳の威光が消えた今こそ、現代にアップデートされた本来の民藝運動が成立するのかもしれません。
まあ、柳が無名性から見出した「美しい作品」は本当に文句なく美しいので、そうなってしまう方々の気持ちもわからなくはないというか…笑
自分が民藝館所蔵作品を観ると、ただただ「ずるい〜〜!!」としか言えなくなってしまいますから。笑

次にフライヤーの裏面文章に記載されている「仏教用語として言うところの縁起」を「縁起 仏教」で検索すると、下記が出てきます。

仏教用語。他との関係が縁となって生起すること。自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており,したがってそれ自身の本性,本質または実体といったものは存在せず,空である,と説かれる。歴史的には,業感縁起,頼耶縁起,真如縁起,法界縁起など種々の縁起説が説かれたが,縁起そのものは仏教史を一貫して流れる根本思想の一つである。

コトバンク「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「縁起」の解説」より

ここで「空」が出てくるのですが、今回の目玉の一つである藤倉大氏による新作「for null」に繋がっています。
実は、公式サイトでの「for null」の関連ページがなぜか非公開になってしまったため、クラウドファンディングのページしかみえません。
このタイトルがなぜ「for null」になったのか、落合氏との詳しいやりとりも消えてしまいました。
ですが、会場冒頭で落合氏が話されていたように「「色即是空 空即是色」の「空」なので、概念的には「無」ではなく「色」が入る前提の「器」として考える方が分かりやすい。
「null」はコンピュータ言語のようで詳しくはよくわかりませんけど、URLのリンク先が決まっていない時に後で入る(=仮に入れておくタグ)にnullを使ったり、役割があるという意味で無ではない空にnullはピッタリ!
そして、「エリーゼのためにがFor Eliseだから…と」for nullに決まったとのことでした。

フライヤーの記述にもどりますが、「縁起を探して行く事」と書かれているので、時間を逆行する意識が含まれているのではないかと考えます。
わざわざ前世紀末のアーティストであるナム・ジュン・パイクとジョン・ケージ、民藝運動や仏教用語の引用では終わらず、縄文火炎土器まで出現しているのですから。
その逆行する縁起が、ITネットワークで定住しつつも遊牧可能な「定在する遊牧民」の「身体性」の在り方、コロナ禍で希薄になった「身体性」への新たな考察につながるのかもしれません。
また、人々が集う祝祭性は、密を避ける意味では希薄になりつつも、一人であっても饗宴が成立する可能性として、明らかに新しくなりつつあります。
それら落合氏の概念は下記のTweetの動画が一番わかりやすい様に思いました。(他は検索しても、有料noteになってしまう 笑)

ちなみに、なぜ落合氏が「落合陽一×日本フィル プロジェクト」としてコラボされているのか、クラシック音楽主体のコンサートの企画・演出が可能なのかについては、2年前に公開された日本フィルの平井理俊邦事長との対談をご覧になると分かりやすいです。平井理事長の新しい取り組みへのお考えが本当に素晴らしく、感動しました。

私は今回、落合氏から発せられる聴き慣れない言葉の意味や単語の日本的解釈を考えることで、この催し全体を現代アート的な視点から捉えてみました。
すると、通常のコンサートでは得られないとても充実した素晴らしい芸術体験になったのです。
ここでは、それを中心に書かせていただきますが、純粋に音楽だけを楽しまれる鑑賞を否定するものではありません。
芸術の鑑賞方法には正解はありませんから。

<ミュージサーカス>
下記はパンフレットとともに入場時に配布されたものです。
コピー用紙(少し曲がっていた 笑)であるところから、全体像がみえてきた本番間近の文章であることがわかります。
落合氏独特の言葉を用いながらも、ステートメントより具体的で作品理解につながる文章でした。

パンフレットに挟まれていたミュージサーカスの解説

タイトルは「Musicircusによせて」となっていますが、ステートメントではわかりづらいポストコロナの祝祭・身体性、コンヴィヴィアルの概念についても書かれています。
コンサート冒頭では「計算は音楽である」と語られていましたが、「計算機自然・デジタルネイチャー」については下記のTweetがありました。
調べてみると、確かにジョン・ケージは「計算≒きのこ(の胞子)≒音楽」については語ってはいるものの、だからと言って落合氏がここで書かれた内容は直接理解できるものではないというか、、、
まあ、正直よくわかりません。。。笑

自然の中に計算(計算システム)がある事、人間を自然の一部として捉えること、その計算システムの相似形として音楽として捉えるということなのかな?とふんわり理解しています。
ちなみに、この理解に及んだのは落合氏のデジタルネイチャーについて調べたのではなく(調べようとしても有料note記事に行き当たり調べられない)、ここで何度も書いているレヴィ=ストロースの概念からです。
自然に近い人間の営み(野生)を数学として捉える考え方、私にとっては落合氏の言葉がレヴィ=ストロースの概念に重なって感じられました。
多軸性のネットワークや飛躍的な出会いも含めると、落合氏がレヴィ=ストロースに触れずにこれらの概念を展開されていることの方が不思議に思ってしまうほど。
まあ、私が勝手に「現代なら」として展開して思考していた部分と重なっているだけなのですけど、もしレヴィ=ストロースが生きていたら絶対落合氏と同じような考え方になるはず!と思ってしまうのです。
何と言うか「世界を認識する目線」がオーバーラップするのです。
それはたぶん、ケージやパイクよりも重なる面積が広い!
まあ、細部では違っているとは思いますが、今回の作品の全体像を把握するものとして、ざっくりな理解させて頂いています。

また、ステートメントにある「時間なき音楽」というものが、上記のプリントでは「言葉通りの時間無き」ではなく、音楽を入れる「時間=空=null」としての概念で(つまり時間はある!)、一方向性・一次元的という時間的概念で上に発生している音楽表現ではない、ということが理解できました。これ、ステートメントの言葉だけだと、ちょっとわかりづらい。本当に時間経過に依存しない音楽を思考するのかと考えてしまいましたから。。。
で、そう考えるとミュージサーカスは、俄然わかりやすくなりますね。
一方向性の枠組みから外れて多軸的に音楽が展開されていますから。

ということで、サントリーホールとカラヤン広場で行われた実際のミュージサーカスについてですが、まずはプレイベントの方。

イベント中に配布されていたプロフィール(概要)
イベント中に配布されていたプロフィール(裏)

イベント中に配布されたものを見ながら周った為、シワシワでお見苦しくなっています。申し訳ありません。
表の概要は平易なので、たぶん日本フィル関係の方が書かれているのでしょう。笑

会場には、記録として撮影されるための肖像権に関する許諾・同意を前提とした注意書きがあり、撮影は自由でした。
とはいえ、音楽的な著作権はグレーゾーンだと思われるので、YouTube(著作権包括契約がもっとも広い範囲で適用されると思われる媒体)の限定公開でこのnoteに貼りつけています。
ここは来訪者が少ない状況でひっそり公開していますが、関係者の方々からのご指摘があれば即時削除いたしますのでご了承ください。

この場で展開されていた音楽は、パンフレット記載本来ののコンセプト「パフォーマー同士は関係性を持たず、観客も自分が観たいものを見る」というものではありませんでした。
会場をぐるぐるまわることで「聴こえてくる音楽が変化」する事、奏者と聴衆という音楽の表現を介在した関係性が、いつしか直接的なコミュニケーションに変化していく様子などを動画から感じてみてください。
実は音声だけを10分程度録音してみたのですが、それが本当に心地よくて仕事中に聴いたりしています。

冒頭に、自分の芸術への興味が反ポストモダンから発している事を書いているのですが、その理由は「美しくないから」でした。
多様性とかポストモダンは、当時サラダボールに例えられていたように美しさとは無関係で本当に「ごっちゃ混ぜ」。
このミュージサーカスは、ポストモダニズムの時代につくられたという意味ではまさにその概念を象徴していると思われるのですが、今回は全然嫌な感じがなかったのです。

しかも驚いたことに、帰宅のために電車のホームに並んでいる時や電車の中で過ごしているいる時間、無造作に流れてくる音や音楽に対し「こんなに耳障りだったのだ!」と気付いたのです。
どうやら、ミュージサーカスの体験によって「外界からの音をすべてを音楽的に受容する」という身体性に変化していたらしく、普段は無視している雑音を「聴いてしまった」と思われます。
今までのリアルが実は本当のリアルではない(雑音をフィルタリングしていた)という事に驚くとともに、本来の現実が非現実のような感覚すら覚えました。(帰宅後はあっという間に現実に戻されましたが…)

なぜこのミュージサーカスが「ポストモダニズム的な雑多なもの=現実的雑音」にならないのかと言えば、それぞれが美しい音楽として奏でられているという事と、本来のジョン・ケージ作品とは違う日本的な視点の存在が理由として考えられます。
「4分33秒」にみられるように、ジョン・ケージは不快な雑音も許容する、より広義な音までを音楽として扱っていますが、その「わかりづらい概念主体の音楽性」はここでは感じられず、純粋に美しい音楽に身を委ねれば良いだけでした。
例えるなら、美しい虫の音や鳥の声が響く野を散歩している感覚の様だったのです。
これは、ジョン・ケージを引用しつつも、コンビビアルな体験への(平易に言えばエンタテインメントとしての場としての)落合氏の演出、日本的な解釈の結果として私は受け止めました。
更に日本的解釈を押し進め、より音楽作品として昇華されていたのが「ミュージサーカス コンサートホール版」だと感じています。

上記は開演前の様子です。(同様に限定公開)
炎のモニターに合わせて薪のパチパチはぜる音、ジョン・ケージの言葉の朗読、冒頭に書いた民藝への言葉等が流れていて、すでにミュージサーカスが始まっています。
ビジュアル的にはサトちゃんやLABOTがシュールですが、前述したようにシュールな組み合わせに「縁起の物語性」が感じられて、レヴィ=ストロース的な解釈ではありますが「飛躍でわからなくなっている必然性が顕れた」という感じなのです。
落合氏の解説では、LABOTが発する音は他のロボットとは違いシンセサイザーによる自己生成音なのだそうで、きのこ仕様のLABOTはこのミユージサークルの必然性を持っていました。
サトちゃんは、この後冒頭に出て来たウルトラマンとともに昭和=ケージやパイクの時代の象徴、オマージュかな…と。
なぜなら、この作品全体が「遡る縁起」で構成されていますから。

ということで、コンサートホール版ミュージサーカスについて。
以降は配信に含まれているため、余り細かく書かない様にするつもりなのですが、プレイベント版と大きく違うことは、全体が一つの音楽作品として成立していることです。
広場のミュージサーカスと同じように、始まりは一斉ではありません。
虫の音や鳥の声が方々で聴こえてくるように、会場のそれぞれ違う場所から音楽が聴こえ始めるところは同じなのですが、プレイベントでは広場を歩きながら「中心となる音楽とその背景に流れる音楽」が変化する様子を楽しみましたが、ここでは空間の中で全てが調和した一つの音楽として成立していました。
とはいえ、途中楽器が変わったり曲の切れ目があったりして、聴こえてくる音色は一定にな訳ではなく、自然界における「ゆらぎ」と同様です。
それでも、全てが一つのハーモニーとして響き合っているのです。

実は事前にミュージサーカスについて調べていた際、具体例とともにわかりやすい文章を見つけていました。
前述したパンフレットの概要と完全に一致しており、オリジナルの解釈に近いと考えられます。

《ミュージサーカス》では、人と人がいっしょの時間を共有はしますが、お互いはバラバラなピースのままで、そこには「関係」がないわけです。一般的な音楽演奏の、「いっしょに何かをやる」という要素がまったくないのです。
(中略)
演奏者・パフォーマーと聴き手の「体験」は、かなり違います。演奏者・パフォーマーは、他のパフォーマーの音が聴こえていても、聞かないようにしなければならない。
ところが、聴き手はそういうことを考える必要はないので、気楽です。その落差は非常に大きいのです。となりどうしの演奏者・パフォーマーは、その演奏・パフォーマンスに関して「競争」する必要はまったくありません。お互いに競争してしまうと、一つの方向性、関連性が出てきてしまうからです。同じ場所にいるけれど、お互いは独立している。それが「世の中」というもののモデルだ、とケージは言っています。

ジョン・ケージ 「ミュージサーカス」芸術監督:足立智美

「独立(分断を前提にしていると言い換えてもよい)」を前提とするケージのミュージサーカスと今回の二つのミュージサーカスとは、明らかに様相が違っています。
広場でのミュージサーカスは演者と聴衆との間に音楽以外のコミュニケーションが生まれていましたし、ホール版においてはそれぞれの演奏者が独立しつつもホール全体での調和・一体感が満ちていましたから。

しかも、この調和は演者にとっては無意識的な行為の結果として成立したもので、そういう意味では共感覚(通常の感覚に加えて別の感覚が無意識に引き起こされる現象のこと)に近いかもしれません。
これはあくまでも私の想像なのですが、日本文化の中に虫の音や鳥の声を音楽として愛でる感覚が存在し、その感覚が古典芸能の表現性に様式として取り込まれている為、今回のように古典芸能を中心とした音楽を集めた場合、ケージのミュージサーカスとは異なる結果を生んだと考えられるのです。
ケージ作品との比較に以前から度々用いている高木氏の「Marginalia」ですが、8/11山の日に放送されたJ-wave「A DROP INTO THE FUTURE」では「虫や鳥などの合奏している感覚がある、響き合う感覚がある」とおっしゃっていました。それは落雷といういう気象現象であっても同列に考えられていて「自分が疎通が取れていると思った時には反響が必ずある。それが無い場合に「Marginalia」としては良い作品になはならない」と。
日本の文化的な志向性として、表現者においては無意識であっても、環境に調和しようとする感覚がなんとなく存在していて、それがケージのミュージサーカスとの大きな違いを生んでいるのではないでしょうか。
ちなみに、能には「拍子付合(ひょうしあわず)」という拍子があり、囃子と謡は意識的に合わせてはいけないのですが、合っていない様で合っています。そういう作為のないところの調和(作為の無作為)として成り立つ様式、分断ではない独立の中での調和が表現として成立しているのです。
そして、琉球舞踊の美しいことと言ったら…言葉にできません。
調べてみると琉球舞踊には年代による様式分けがあるようです。舞楽や能などの古い舞の様式に共通する「大地と繋がる重心」が感じられたので、「古典舞踊」なのかしら。。。(間違っていたらすみません)

ここで実際のホール版ミュージサーカスに戻ります。
多方面から様々な音楽が聴こえてくるのと同時に、小さいモニターにも同じテーマの映像が映し出され、全体的な流れを保ちつつ個々に画面が移り変わっていきます。(この部分、ミュージサーカスの「調和」「独立」「ランダム」とも共鳴している感じ)

すると、昔観たナム・ジュンパイクの展覧会での感覚と同じかも!と、数十年前の感覚が蘇ってきて本当に驚きました。
モニターを積み上げるビデオインスタレーションは特に有名ですが、この小さなモニターが会場に「遍在」している様子は、まさにあの当時に観たパイク作品の様でした。
また、展示は大きな部屋の壁際に置かれていて、人々はグルグルと部屋を歩きながら観たのですが、隣接する作品からの音が漏れ聞こえてくるのです。
それが煩わしくて、どうしてこういう展示をするのか?と疑問に思っていた記憶が強く残っています。
当時もインターネットはありましたが、今の様な気軽さもなくパイクのコンセプトについて細かく調べるということもせずに、正直言うと「よくわからなかった」で終わったのが印象です。しかも、いつ観たのかもはっきり覚えていない。。。笑
でも、現代アートの鑑賞は「わからないという屈辱ごと受け入れる」行為だったりするのですよね。。。
そのわからなさを「考えるきっかけ」にするところまでが芸術の表現性だったり、後々にわかる場合もあることも含めて。
とはいえ、まさか何十年も経ってから、「そうか!」と感じる日が来るとは夢にも思っていませんでした。
あれこそはミュージサーカス的な表現でもあり、遊牧性にも繋がっている、まさに「遍在する」展示だったな…と今なら思えます。

当時は技術的に大きなモニターを使えないという事情があったのに対し、現代においてわざわざ小さいモニターを並べることからは(過去の音楽会では大画面が用いられていた)、パイクへのリスペクトも感じられます。
しかも、このモニターはただ小さいだけではないのです。
メッシュ構造になっているので、明るい時(モニターが消灯している時)は後ろの景色がそのまま見えるのです。
だからこそ、ステージ上のオーケストラの中に置かれていても=遍在していても、違和感が無いのですよね。
素人では気づかない用途に対し最適化している製品は本当に素晴らしい!

<オーケストラの音楽プログラム>
ここからはようやくオーケストラによる演奏の感想です。
こちらは門外漢ということと、これから配信をご覧になる方がいらっしゃるので音楽的には簡単な感想のみです。

●答えのない質問
前述していますが、私はこのnoteで何度も繰り返し「芸術には正解が無い」と書いています。
少し前に読んだ「ヴォイニッチ写本の謎」は、penthouse矢野慎太郎氏のTweetがきっかけだったのですが、矢野氏はこの中で「答えのない課題」と評されていました。
なぜ唐突にこんなことを書いたのかと言うと、「遍在する音楽会」を知るきっかけも実はpenthouse絡みの偶然だから!笑
この演目タイトルを知った以上、音楽的には全く関係ないのにどうしても書いておきたくて!!!

さて、実際の演奏ですが、弦楽器による弱音が本当に今まで感じたことがないほど美しくて…こういう音が現実に有る!という存在に驚きました。
また、質問を担当する?トランペットは下手側二階の客席上部で演奏されていて、空間に響く音の違いも「質問」「答え」という表現を見事に再現されていました。通常の演奏でもこういう趣向があるのか、今回が特別なのかは私にはわかりません。
実は全ての演奏を通して一番自分の感覚に一番フィットする音楽だったのがこの「答えのない質問」だったのですが、パンフレットの解説を読むとポリテンポ(ポリリズムみたいなもの?)や、無調と協和音とが質問と答えとで振り分けられている等、当時にしてはとても前衛的な作品だった様です。
うーん、クラシックに馴染みがないから逆にこういう方が馴染むのかも。。。

●藤倉大:メディアアートとオーケストラのための「for null」
冒頭から普通のクラッシック音楽では聴き慣れない揺らいた音や擦る音、金管楽器のブレブレな音などの新鮮な感覚が音楽になって聴こえてきました。映像では水のイメージも感じられるなど。
公式サイトはアクセス不能になってしまったのでREADYFORからの引用ですが、実は「for null」というタイトルに持っていたイメージと実際に聴いたイメージとは違っていました。

タイトルを決定した落合・藤倉両氏のコメント
◆「null のために」。null には「空(くう)」から生じえる縁起の関係性、の意味を込めた。
時間と空間、音と映像の関係性を考えている。映像から作られる音楽、まだ定義されえない実態をイメージすることにより、互いの関係を想起させる関係。「ここには“ない”がある」。(落合)

◆タイトルのfもnもoも曲線が美しい。そして、落合さんの作品には、日本語の「ぬる」っとした感じは、確かにある。それもよいな、と思いました。(藤倉)

READYFOR「遍在する音楽会|8/25 世界は、音楽に満ちている。」
《遍在する音楽会》 委嘱作品タイトル決定のお知らせ

私にとってはどちらかというと「ぬる」でも「空」でもなく「フル・振る」という印象が強く感じられる曲だったのです。
でも、よくよく考えてみるとタイトルには「for」が付いています。
空にするためにはものが入っている器を「振り」ますし、神を呼ぶ為に弊をや鈴を「振り」ます。
「空から生じえる縁起の関係性」とは縁起を遡る意識でもあります。
そうか!!!だからタイトルは「null」ではなくて「for null」!
考えてみたら「色即是空 空即是色」で「色がある」ところからの出発なのです。人間は。
神様は人間界の空の籬にしか宿りませんし。。。
ちなみに真言密教と神道が結びついているのが修験道、特にこの二つの親和性が高いので(そもそも神と仏は同一存在における別側面という認識)、そういう意味もあって真言宗を選ばれたのだろうな…と思いながら観て(聴いて)いました。もちろん、空海の「空」という意味はマストですけど。
すると案の定(笑)…休憩を挟んだ第二部の冒頭で僧侶の方々による法螺貝がオーケストラ演奏の直前に披露されました。
null=「空」になってしまったので「色」を呼び戻したのでしょうね。
サトちゃんやウルトラマンと同様に唐突な組み合わせでインパクトを与えつつ構成的には必然性が感じられて、フフフってなります。笑
(こういう所が、まさに現代アートを鑑賞している感覚!)

●火祭りの踊り
これは私でも一度か二度聴いたことがある曲でした。
イメージとしては、火祭りの踊りというよりも擬人化した「火」そのものが踊っている様なイメージに感じられ、とても面白いですね。
あと、冒頭の伴奏的な部分は水・青のイメージが映し出されて、「火」のテーマっぽいところになると赤々とした「火」が映され、ビジュアル的にはその対比も面白かったです。

●バレエ組曲「火の鳥」

「Re-Digitalization of Waves No.55」/国宝火焔型土器(指定番号1号)完全レプリカ」


実はロビーに展示されている落合氏の作品が展示されているのですが、第二部は同じく「焔」をイメージした曲が並んでいます。(前出の「火祭りの踊り」も同じテーマ)
パンフやHPの概要としては「第2部の選曲と演出で、東西の根源的身体性を表現」と書かれているのですが、これがちょっと無理矢理感があったのですよね。

この音楽会自体がオーケストラ楽団と落合氏のコラボレーションなのですから、クラシックの演奏をメインに据えた音楽的表現は必須です。
twitterでは一部は現代アートっぽく難しかったのに対して「火の鳥」の日本フィルの方々の演奏に純粋に感動されたというご感想も見ました。
だからこそ、こんな広告代理店の企画意図とその作品みたいな関係性はいらなかった様に思うのですよね。
東西の対比はミュージサーカスで十分成立しているのですから、作品(音楽会自体)の表現性を凡庸化させないためにも、こんなコンセプトの記述は不要でしたし、安易な文様の対比(日本の草加文様を使ったものとフリーハンドの西洋的なイラスト)なんて無い方が良かったのに…と。
このコンセプトを具体化しなければならなかったWOWの皆様のご苦労まで考えてしまいました。
帯状のビジュアルの動きや色は本当に美しかったので。

たぶん……ミュージサーカスやクラシック音楽+メディアアートを経験した後であれば、純粋なクラシック演奏会をそのまま行うだけで、自己の身体感覚の変化は十分に感じられるはずなのです。
実際、私は前述したように、帰宅時のホームや車内での感覚は明らかに日常と異なっていたのですから。。。
そして、そういう構成の方が、明らかに「アフターコロナにおける身体性を再認識する」ことになったのではないでしょうか。
人間の敏感な身体性とその変化を受け取る感受性に対し、もう少し信頼して頂きたかったなあ…と残念に思いました。

※webアンケートをしてみたら、どうやら文化庁「日本博」の事業だそうで、「東西の比較」はその縛りの可能性がありますね。。。
オリンピックではないですが、広告代理店の企画書みたいな「取ってつけた」感じがしますから。
入場時にも複数の招待受付がありましたし、私が開催直前にチケットを購入したら、たぶん最も良席という所が取れてしまいましたので、お偉い方の招待用だったのかもしれません。

●ペール・ギュント組曲より「ソルヴェイグの歌」
アンコールとして演奏された曲で、当初は曲名がわかりませんでした。
係の方に掲出がないか伺ったところ、コロナ禍のために人が集中しないようHPでの発表になるとのことでしたが、同日中にクラシックに詳しい方々がTweetして下さっていました。

本当に、なんと言ったら良いのかわからない位に切なくて胸を締め付けられました。
調べてみるとペール・ギュントを過ぎ去る季節とともに待ち続ける村娘の歌なのだとか。
その歌には、ただ待っているだけではなく、祈りがありました。
コロナ禍が過ぎ去り以前のような日々が戻ることを待っているのか、それまでの多くの方々の無事と加護を願っているのか…。
この時の演奏にはもちろん言葉はありませんでしたが、この歌の訳そのままの意味で音楽が伝わってきていました。
でも、それは驚くことではありませんよね。
音楽にはそもそも、そういう力があるのですから。

最後に、この「遍在する音楽会」についての落合氏のtweetを。

上記映像は「for null」の一部。

信は9/4 23:59まで(チケット購入同日 20:59まで)5,000円 (税込)


本当に素晴らしい芸術作品(音楽会)でした。
拝見・拝聴できた幸運に心から感謝しています。
上記記載の20年以上前からのことについては後日追記の予定です。
今は本当にご縁を頂いたpenthouse様様です!
ありがとうございました。

8/25 #遍在する音楽会 へ。ジョンケージのミュージサーカスはプレイベントとホール版との2verでその対比が凄い!近年では最も純粋に現代アートを鑑賞した実感!(動画は新作for null)「縁起」もコンセプトの一つで、20年以上前からの事が繋がったような個人的感動でも胸熱。

(8/25 サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)


※9/3追記
<「縁起の話」みたいに繋がっている?!>
前半にもチラチラ書いているのですが寺社の「縁起物語」は荒唐無稽な出来事が縁として繋がっているというお話が多いのです。
有名なのは国宝 信貴山縁起絵巻ですが、言うなれば「普通ではあり得ない?!」所に神仏の加護や縁を感じられるようになっていて、「わらしべ長者」的な感じというのが最も判り易いのでは。
今回は、そういうなんか不思議な繋がりのようなものを感じながら、このコンサートを鑑賞しました。
というか、このnoteを書く時って本当にシンクロニシティが起きるので…実はいつも「不思議?!」って思ってばかりなのですけど。。。笑

前述していますが、Penthouse矢野氏のTweetがきかっけで「ヴォイニッチ写本の謎」を読みました。

上記が8/14。
/15図書館に予約を入れて、/16にPenthouseのライブの抽選発表がある為イープラスのサイトを見に行ったら、オススメにこの「遍在する音楽会」が出ていたのです。
とはいえ、どういう内容のコンサートなのかはわかりませんので、ちょっと調べてみたところ…予告動画を発見、冒頭のTweetになった訳です。
自分で何かを探していた訳ではなく、あちらから突然訪れたラッキー情報!
/21に「ヴォイニッチ写本の謎」を読了した際には、矢野氏のTweetを引用RTする形で書かせて頂いたのですが、その内容がまたまたこのコンサートに関わっているという。。。
(誤って削除してしまい、再投稿した為、冒頭に「再」を入れています)

再:出版時に勧められるも忘却の彼方にありましたが、お陰様で読了できました。ありがとうございます🙏✨
場所も時代も別の社会の「正常や合理性」が現代では理解不能である事を思考の出発点とする一方で、全てを異にしながら一部の人が共有する創造的衝動や金銭目的の策略を研究対象から除外しない。→

再:それはアトリビューション(帰属)の可能性を広義なまま保留する学術的態度であるのと同時に、写本を取り巻く社会現象全体を捉える姿勢でもあり、更には現代の芸術概念の問い直しでもありました。
「〜の謎」という表題の末文が「解かぬが花」ですから。。。(訳者の意訳だとしても 笑)

(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

23に、落合陽一×日本フィル プロジェクト/vol.1の動画を発見して、上記を引用RTしてしたのが下記です。
その際、うっかりミスで元Tweetを削除してしまったという訳のが、上記のTweetに「再」が付いている理由です。

あさっての予習で2018年の動画を観ていたら…ちょっとこれすごい! ジョンケージ「4分33秒」を、本質的に理解・実感したのは専用デバイスで体(骨)から音を聴いた聴覚障碍者。「偶発的に鳴る音が演奏である事は全周波数聞こえる人にはわからない」(3分20秒位から)→
耳で聴かない音楽会ダイジェスト(動画リンク)
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こんな事を書いていましたが、今現在の事であっても、自分とは違うア・プリオリな感覚への理解(想像力)が欠如している事にこの動画で気づき、自省する機会となりました。
(「場所も時代も別の社会の「正常や合理性」が現代では理解不能である事を思考の出発点とする一方で、全てを異にしながら一部の人が共有する創造的衝動や金銭目的の策略を研究対象から除外しない。」の元tweet)

(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

「ア・プリオリ(先天的・生得的)」という言葉は哲学用語の一つで、実は「ヴォイニッチ写本の謎」に「一部の人が共有する創造的衝動」を形容する為に書かれていた言葉です。それが示していたものは、精神障害を持つの人の創造的衝動でした。
この本が出版されたのが2006年、事例として書中で紹介されていたヘンリー・ダガーの展覧会は日本でも2007年に開催されて大反響(メチャクチャ混んでた)、以降は「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」として定着しています。
とはいえ、古くからは草間彌生氏の例もありますし、今は精神障害や身体不自由等の問題に限らずに専門教育を受けていない作家の芸術という意味合いで広義に扱われる様にもなっています。
実は中野区でも街中まるごと美術館として「アール・ブリュット展」を2010年から毎年開催しています。

上記の定義は微妙に違うので省略しますが、私が問題にしているのはこの「ア・プリオリな感覚」というものです。
15年位前に、生まれつき全盲で造形作家としての活動をされている方とネット上でやりとりをさせて頂いたのですが、その方がおっしゃるには「斜俯瞰からコップの淵を見ると楕円に見える」という感覚がお分かりにならないのだとか。立体物の認識は立面図と平面図等で行われているそうです。
まさに、「ア・プリオリな感覚の違い」です。
ただ、その話を聞く事で自分とは違う感覚であっても想像することができるという事もわかりました。完全な一致や理解ではなかったとしても。
この1回目の「耳で聴かない音楽会ダイジェスト」には、その相互理解までが具体的に事例として描かれていました。
ちなみに、視覚障害においては「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」という完全な暗闇を体験できるプログラムがあり、上記サイト冒頭に書かれているような確かに日常とは違う平等感(=匿名性)のあるコミュニケーションが感じられましたし、匂いや触覚、音の方向性に対する意識がほんの1時間程度の体験でも変化する事に自分で驚きます。

プレイベントのミュージサーカスでは、それを体験した以降の感覚変化に驚きましたが、もしかするとア・プリオリだと思われる感覚も、日常的にその条件で入出力が行われているための結果であって、ア・ポステリオリ(経験的・後天的)なもである可能性をはらんでいます。
まあ、その辺りの線引きは自分にはわかりませんが、いずれにしても自分とは違う感覚を持っていらっしゃる方々=多様な方々へも、その感覚の内側に入り込むような想像力を働かせてコミュニケーションをや理解を促すことができるという事です。
「ヴォイニッチ写本の謎」のTweetで書いた「正常や合理性が現代では理解不能である事を思考の出発点とする一方で、全てを異にしながら一部の人が共有する創造的衝動や金銭目的の策略を研究対象から除外しない。」の部分が、まさにそれに関わっていいる内容です。

一方「アトリビューション(帰属)の可能性を広義なまま保留する学術的態度であるのと同時に、写本を取り巻く社会現象全体を捉える姿勢」というのは何かというと、外側から社会をそのまま認識する姿勢なので、「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」、全体をダイバーシティーとして考える「DIVERSITY IN THE ARTS」のような、多様な芸術性性を対象にしている事に通じるのです。
これ、自分でもこのコンサートを見る前に書いているのに驚き!笑

つまり、自己と違う対象へも内側から想像する一方で、外側の概念や対象領域も意識するこという同時的な考え方が必要という事、「”Cateen かてぃん”チャンネル〜」で書いている
マクロ(外側)→ミクロ=俯瞰的視点
ミクロ(内側)→マクロ=仰視的視点
この二つが重要なのですよね。。。

再度中野区の話になりますが、中野区では本気でダイバーシティーを目指していて、それについても「多様性」について〜」に書いています。
実はそこに書いていたことが、私が20年ほど前に不快感を伴なっていたポストモダニズム(=多様性=何でも有り)に対しても答えとなっていたのですした。というか、それに今回のコンサートで気づくことができたのです!
きっかけが、このプレインベントのミュージサーカス。
ぶっちゃけ「自分が好きなことに意識を向けていたら気にならない」「自分が好きだと思うこと以外は、気にしない」ただそれだけ。笑
全体から不快の要因を取り除くのではなく、より快を意識することで不快感が気にならなくなるということ。
快と不快は実は同列ではありません。
同列だったら、プラスマイナスの計算で不快が勝る事もある訳で、、、私がポストモダニズムの概念で否定的に感じていたのはそういう部分です。
けれど、「好き」という事を別次元で意識すれば、上位の構造の「好き」によって、不快が対等関係ではなくなり、不快が隠されるという訳。

なぜプレイベントのミュージサーカスでそれに気づいたのかと言えば、広場では「快い音楽で雑音が気にならなかったこと」と、帰宅時には「不快なものをフィルターしていたこと」を実感したからです。
つまり、「俯瞰的視点による対処=好きなものに注目して不快が減る」と「仰視的視点による対処=嫌いなものは自分の意識から外して不快が減る」ということなです。
いずれにしても、人は無意識的に自分の心地よさを優先する選択を両視点から行っているという事です。
ポストモダニズムと言われてしまうと概念として同一次元で考えてしまうのですが(特にその論理に対する深い理解が及んでいない場合)、人間の営みはそんな単純ではないというか…改めて概念は厄介というか…日常感覚で考えた方が物事わかりやすい場合もあるということです。
でも、概念がなければその意識には永遠に気づくことはできません。
私感ですが、私は概念と生理的な身体感覚・日常感覚の間を埋め、その理解を助けてくれる唯一の存在が芸術だと思っているのです。
というか、概念に実感を与えてくれると言った方が良いでしょうか。
調布国際音楽祭の鈴木雅明氏の感動するお話もそういう事だと思っています)

このミクロ(仰視)とマクロ(俯瞰)からの視点の違いは、実は東西文化にもその特色が大きく現れているのではないかと考えています。
ホール版のミュージサーカスは、ケージの想定したものとは違い調和が存在しました。
それは、日本人の表現感覚が環境の内側に存在することを示していると思われるのです。だからこそ、無意識的な調和につながる。
一方、ケージのオリジナル解釈によるミュージサーカスは、環境を芸術として捉え直すコンセプトの比重が高い音楽作品です。
これは概念のもとで初めて成立する芸術表現ですから、環境に対して俯瞰的な外側からの視点になる訳です。

内側から構造の違う外側への表現性は、日本文化の繊細さだけでなく、抽象度を高めた省略表現の中でよりイメージを込めるという多軸的な構造化を前提にした手法(言語的比喩や見立て)も同じ理屈で成立していると理解できるものです。
一方の西洋文化としては、前例の無い個性や意味を無にした抽象、質を問わない多様性等、並べるとすべてが反発し合う様な価値観ですが、実は既存の価値観や概念へのカウンターとして派生した、俯瞰からの視点という所では共通だと考えられるのではないでしょうか。
(私は日本人なので、西洋文化は想像で書いている部分が多く上記考察にはそれほど自信がある訳ではないので「ないでしょうか」にしています)

vol.6「遍在する音楽」やvol.1「耳で聴かない音楽」は、ケージの概念を落合氏が日本的解釈で演出・表現されたことで、その両方を感じることができたのだと思われるのです。
中野区のダイバーシティーの問題ともつながっていますし、ずっと興味をもっていた日本文化と西洋文化との比較にも通じていますし、さらに言えば芸術に興味を持つきっかけになったポストモダニズムへの新たな解釈としても新たな答えをもらった気がしています。
ちなみに、vol2〜5は自分が好きなテーマとは違っていたので、この「遍在する音楽」を鑑賞できた偶然に、本当に感謝です!

ということで、Penthouse矢野氏の「ヴォイニッチ写本の謎」のTweetから、延々と繋がっていると感じられるコンサートでした!という「お話」。

<おまけ>
ひえ〜〜!!またもや偶然で物凄くびっくりしたことが!!!
追記で「15年位前に、生まれつき全盲で造形作家としての活動をされている」と書いた方の展覧会が8/9〜9/25まで渋谷で行われていました。
京都の方なのに。こんな偶然ってある?!
その情報自体もインスタで流れてきたという。。。笑
しかも同時開催が「アール・ブリュット2022」展
これはぜひとも行かなくては!


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略