【RP】角野隼斗氏の「無音」を音楽にする可能性 〜「milet×Cateen - Ordinary days / THE FIRST TAKE」より〜

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

2/4のプレミア公開時から拝見・拝聴しているのですが、本当に素晴らしくて言葉になりません。
一晩で30回以上はリピしましたし、それからも毎日聴き続けています。

歌詞もメロディも素晴らしく、当たり前だと思っていた日常が突然失われた経験のある身としてはそのかけがえの無さに胸が締め付けられましたが、何よりもお二方が奏でられる音楽の素晴らしさ、FIRST TAKEとしての臨場感に鳥肌が立ち、感動がおさまりません。
動画のコメントや多くのTweetを沢山読ませて頂きましたが、皆様それぞれの感動が伝わってくる素敵なコメントばかりで読んでいるのも本当に楽しいです。

ですが、段々となぜこんなに自分は感動するのか?という問いが湧きあがってきました。調べてみると…結論は、またもや「日本的」だから。笑
感動している時には全く頭で思考などしていないのですが、改めて考えてみるとどうしてもそちらに結論が行ってしまうみたいです。

WikipediaでTHE FIRST TAKEのコンセプトを読むと「ライブで体験するような“再現性のない音楽の楽しみ方”にこそ、価値がある」「余計な演出を一切排除することで余白を作り出し、“体感としての音楽の解像度”が上がるように設計」とあります。
このコンセプトは以前書いた能の様式と多くの共通点があります。余白については書いていませんが、あえて書かなくともどなたでもご納得頂けるのではないでしょうか。

まず即興性に関して言えば、600年近く続く能は上演行為の中で即興性を維持するための方法論も、表現性と同時に受け継がれている様に感じます。
同じシテ(主役)やワキ・囃子の組み合わせでは1回のみの上演しか行わない上(特殊なイベントで連続上演がある場合はわざわざ配役を変える)、リハーサルは簡単な「申しあわせ」というものを1・2回しか行いません。

ヤミジリさんが書かれたショパンコンクール角野隼斗氏の考察について。 (追記有)

milet氏がリハーサルはほとんどなかったと書かれていましたが、一回限りのコラボレーションという意味では、さらに究極のファーストテイクです。超絶的にお忙しいお二方のスケジュールによるものでしょうが、コラボレーションとして考えた場合、一回性・新鮮味や初期衝動を含む広義の即興性(音楽的なインプロビゼーションとは違う)がより強まる=臨場感に富むパフォーマンスに至ったと言えるのではないでしょうか。
もちろん、条件を活かすそれぞれの歌唱力・演奏力・信頼感あってこそで、その関係性そのものもまた聴く者を感動させます。リハがほとんど無いという事を知って感動するのではなく、THE FIRST TAKEという企画が成立する理由と同じく、特別な緊張感と信頼感はその音楽から直接伝わるという事です。つまり、THE FIRST TAKEのなかでも最も「FIRST TAKE」になったと言えるのですが、私はさらにその先に続く角野氏の「THE FIRST TAKEとしての解釈」を感じました。

それは「余白」です。
この動画の演奏には、ピアノの演奏が消える部分が何度もあらわれます。時にはボーカルも消え完全に無音になる所もあります。
素人なので個人的な印象として書かせて頂きますが、音楽の中で存在する無音の一つに「間合い=休符=音楽的アクセント」など、音符単位の無音があります。無伴奏としては、曲の一定部分をアカペラとして音楽構成するパート単位のものがあります。
しかし、「歌い出し直前」「二番歌い出し直前」「ラスト前」など、両者の中間的な長さ・フレーズと同等の小節単位の無伴奏・無音が感じられます。特に冒頭の部分、普通だったら音を響かせたままの方が自然なのにピアノの響きを意識的に消して無音状態を作り出し、milet氏のブレス音を音楽として聴かせています。また、無伴奏から後奏に入る最初の一音(弱音)のタイミングが、もう本当に鳥肌ものです。。。
もちろんピアノやメロディー楽器がボーカルの途中から入るアレンジはよくあるものですが、その音楽の流れを維持させるために背景には他の楽器演奏が流れていますし、録音時にこの様なアレンジだったとしても、単一楽器とボーカルのみの編成に変われば、単一楽器の伴奏が継続されるものではないでしょうか。
ギターの弾き語りなどでは演奏ではなくボディーを叩いたり音の余韻を長く響かせることもあるでしょうし、アカペラとして歌唱にその音楽のパートを委ねる事もありますが、この様に無音をピアノ演奏の一部として活かした音楽は非常に稀だと感じるのです。
音楽全体の効果としては、ピアノを無音にすることでmilet氏のブレス音を音楽として活かされています。その効果はギターのボディを叩く様なものと同様の意味を持つと考えられますが、それを伴奏楽器の音で作らない、歌手から発せられる「雑音」を音楽とするピアノ演奏との一部として無音を扱っているという事なのです。

角野氏がアレンジされる際、THE FIRST TAKEのコンセプトは必ずお読みになっていると思われるので(これまでの制作姿勢からの推察)、私は「余白」から導き出された「無音を効果的に音楽として用いた編曲」なのだと思っています(こちらは私の勝手な想像)。
しかし、多くのミュージシャンはそう頭で考えたとしても、それがボーカルを活かすアレンジである事を分かっていたとしても、実際に単独楽器とボーカルという組み合わせのライブでその演奏を行う事は難しいはずなのです。
なぜなら、無音時に音楽を継続させる力は楽器の演奏力とは別だからです。
しかも、同様の編曲でレコーディングが行われる際にはパート毎に個別に演奏されている可能性が高く、通常のミュージシャンにとって無音を貫く事は演奏技術を披露すること以上に勇気が必要な事かもしれません。

角野氏ご本人がお気づきになっていらっしゃるかどうかわからないのですが、ラプソディ・イン・ブルーを配信で初めて聴いた時、その素晴らしい演奏だけではなく、音楽を途切れさせる事なくピアニカを無音の中で準備されている事に驚愕しました。こんな事がサラっと出来る若い方がいるなんて…と。
歌舞伎の黒子とは違い、能は後見という舞台上に袴姿で雑用をする役割の人がいます。全てが見えた状態でその舞台の流れを途切れさせる事なく雑用を行う事=緊張感や曲の質感が壊れない後見の存在性を会得するには経験が必要と伺っていた自分にとって、これは本当に驚きの事象でした。

このピアニカの準備に費やされた時間は約10秒、音楽的な事を考えると非常に長い無音です。最初からピアニカをピアノの上に置いて置くことや、その行為をする為だけのアシスタントを用いたとしても誰も文句は言わないでしょう。けれどそれを行えば「ここでピアニカを使うの??!!」という驚きは失せるため、演出上の理由としてご自身で準備をする事を選ばれたのだと思われます。
ヴァイオリンのソリストの方が弦を切られた際の楽器交換なども、いかに音楽を途切れさせる事なく行えるかを評価しますが、音楽的にそのソリストに意識が集中している状態で交換が行われる訳ではない事を考えると、このシーンは相当特殊なのではないでしょうか。
ショパンコンクールで楽章の合間に汗を拭かれるシーンと比較して頂くとさらにわかり易いのですが(さすがに埋め込むのは申し訳ないので3次予選動画の該当箇所へのリンクを貼ります)、秒数的に長いとはいえ演奏直後に確実に音楽は途切れています。ソロ演奏での無音状態や音楽と無関係な動作が入り込む場合、その音楽が途切れるのが普通なのです。
無音で音楽を維持する事はステージ上の責任を全て負うという意味でソリストの「その場を支配する」「空気をつくる」と言われる事と近しいと思うのですが、それに加えてご本人が音楽と一体になっているという事が必要だと思われます。とはいえ、「ここをこうすればこうなる」という技術的な事を言えない以上、獲得に時間がかかる場合もあれば天才的に最初からできてしまう方もいらっしゃるという事なのでしょうね。

ここで話は少し飛ぶのですが、以前、西洋の抽象について下記のように書きました。

芸術(西洋的概念)におけるミニマリズムや一部モダニズムと重なる部分でも抽象に無作為を内包していますが、無作為=意味の消失に向かうので表現として純化する志向性にしか存在しません。
(中略)
受容者側の意識が変われば同じものでも受け取り方が変わるという事なので、表現自体の変化だけでなく、解釈や意識の発見を促す事もまた新たな表現と同じ価値を持つという理屈につながります。(現代アートの一部はそういう類の表現)

メゾン・ド・ミュージック『角野隼斗のはやとちりラジオ』  1/12 高木正勝氏ゲスト回 を聴いて思ったこと(追記有)

「無音の音楽」と言うと、無演奏の中にある環境音を音楽とするジョン・ケージの「4分33秒」が最も有名で、音楽=作品という対象概念を無意味化し環境音を音楽として捉え直す新しい解釈の提示は上記に書いた通りです。ですが、実際には概念のみの提示としか思えず、聴衆が本当にコンサートホールにある環境音を音楽と感じられるかといえば「否」といえるのではないでしょうか(現代アートとしての意義は確実にあります!)。
初期の高木正勝氏のノイズ的音楽はジョン・ケージ以降のコンセプチュアルアートの系譜が感じられますし、その後に続く「Marginalia」では「4分33秒」よりも環境音を実際に音楽として感じられる作品として具現化されていると言えます。
これは一方で、無音状態のなかで音楽を感じさせることがいかに難しいかという事でもあり、タイトルで書いた『「無音」を音楽にする可能性』は文字通りにこの難しい「無音」の扱いを、角野氏なら普通の人が楽しめる音楽の中に自然に取り入れることができるのではないか、という意味です。
この「Ordinary days」での無音は素晴らしい音楽的効果が感じられるのですが、決して恣意的なものではなく、Milet氏の歌を活かす事と企画のコンセプトを表現するアレンジのなかで、とても自然に感じられます。
角野氏にとっては無音ですら音楽的表現の一要素であり、ピアノの美しい音同様に特別なものではないという事でもありますが、その特別では無い所こそが特別だと思われるのです。
これに気づいた時、私の中では勇者が新たな超レアアイテムを入手した時に流れるファンファーレが響いていました!!笑
ラプソディ・イン・ブルーから無音時の音楽的継続に注目していた自分にとって、美しいピアノの音色、天性のリズム感(タイム感?)とともに、その音楽的表現性に新たに「無音」を音楽にする可能性が加えられた様な気がする特別な演奏で、もしかしたら、誰もやったことがない「無音という表現性をナチュラルに活かした曲」の作曲や演奏もあり得るのではないか…と期待に胸がふくらみます。

上記記事にも度々日本文化的なイメージの構造性について書いていますが、イメージの構造化がもし無音の中で成立できたら、音楽そのもののイメージや余韻・予兆を表現させる事ができるはずなので可能性は無ではありません。
絵画やデザインにおいては今や世界共通とも言える「余白」の効果は、古くから日本で発展したしてきたものです。そのホワイトスペースは単なる白ではなく、直接的には描かれないものを想起するある種の装置として働いている=構造化が起きている訳で、同様のイメージ作用が音楽表現のなかで成立する可能性も考えられなくはない、という事です。
まあ、概念として書くのは簡単でもそれを体現する作品を創り出すことは極めて難しく、だからこそコンセプチュアルアートなるものが発生する訳ですが、私はその壮大な期待をここに記したいと思います。
将来的に、角野氏が演奏している時には自然に聴こえるものが、他の方が演奏しようとしたら無音の扱いの難しさに驚愕する…とか。楽しい妄想が膨らみます。笑

それにしても、冒頭等の弱音はアップライトのフェルトで響きを抑制された音を再現できてしまっているようです。
こちらは表現のレベルが一つ上がったファンファーレが鳴っているイメージなので、結果、ダブルでファンファーレが鳴り響いている感じ?笑
あと、個人的にこういう音が昔から大好きで、「真綿で首を絞められる様な音」と勝手に命名していたのですが、フェルトのアップライトピアノの事を思うとあながち間違いではなかったかな…とも。笑

milet氏は、デビュー直後からのJ-wave「SONAR MUSIC(角野氏も一度ゲストとして出演された)」の週一コーナーを担当されていた時に職場で聴いていました。今よりも英語中心の歌が多く歌詞よりも歌の音楽性の方が印象強かったのですが、改めて日本語もその歌詞が心に響く本当に素晴らしい歌手の方だと思いました。
音楽とは関係ない話ですが、このコーナーのmilet氏のコメントが本当に凄くて、時には余りの皮肉さに吹き出すほど。番組ナビゲーターのあっこゴリラ氏との録音を介したやり取りも破茶滅茶で、毎週本当に楽しみにしていました。角野氏は時々ご自身の事を天邪鬼とおっしゃいますが、たぶんmilet氏はその3倍は天邪鬼ではないかと。。。笑



<角野隼斗氏について書くnote>
私は芸術家としての角野氏の表現性(特に現代的な日本文化を体現する表現性)に特別な期待をしているため、視点がちょっとズレている場合があります。なので、「どうしても書きたい」という衝動に駆られる場合のみnoteに書くつもりで、他は皆様のご感想を拝読するだけにさせて頂いてました。音楽の素晴らしさを伝える文章や幸せなご感想は皆様の方がずっとずっと素晴らしいと感じられますから。
ただ「全国ツアー折り返して (2)」のラボ配信を拝見して、少し考えが変わりました。様々な年齢層や趣味趣向の方々がいることが良いという事であるならば、自分にもそれなりの意味があるのかな…と。
しかも、ラボ内のファンの皆様との信頼関係が本当に素晴らしいのですよね。エンターザミュージック2/6の回で藤岡幸夫氏も角野氏のファンの方々を褒めて下さっていましたが、新参者&辺境趣味の自分をも受け入れて下さっている実感があります。
紐付いたTwitterアカウントは使えないという事もありますが、ラボの話題によっては動画コメントにリンクを残す事もありなのかな…とも。まあ、実際に行うかどうかはわかりませんけど。。。

あと、夜中に勢いで書いて公開するので、数日は加筆や書き直しを繰り返しています。本来はきちんとしてから投稿すべきものなのでしょうが「きちんとしてから」と思うと延々と投稿できなくなってしまうので。
note内で検索しても結果の初期表示には出てこない気楽さもあり、普通の「ノート=覚書」として使っていると思って下さると嬉しいです。
読みづらくて申し訳無いのですが、私的な雰囲気、勝手な雑記としての雰囲気が好きなので、本文テキストが延々と続くままにさせて頂いてます。


<追記1>

THE FIRST TAKE「milet×Cateen - Fly High」「Cateen's Piano Live [90万人ありがとう]」について、ものすごく個人的な事を書きます。
余り目に触れる事の無いnoteのさらに追記なので、ほとんどの方の目に触れることは無いだろう…と。。。苦笑

milet×Cateenと銘打たれた第二弾「Fly High」を拝見した時、どうしてもモヤモヤがおさまりませんでした。これは「×」を付けた対等のコラボではなく、milet氏の「Fly High」アコースティックバージョンのピアノを角野隼斗氏が担当したという作品です。
せめて、ゆず「NATSUMONOGATARI」のように、フリーで演奏できる箇所があったら印象は全く違っていたはずなのですが。。。
考えてみれば、前回の「Ordinary days」とは違い事前の露出や動画のサムネもmilet氏だけでしたので、制作時には「Ordinary days」との扱いの違いは明確にあったと思われるのです。が、前回の角野氏の評判が良かったせいなのかツアーファイナルの直前だからなのか「milet×Cateen」のままで「Fly High」が発表されてしまいました。これが「milet(support by Cateen)」だったら、紅白での上白石萌音氏との「夜明けを口ずさめたら」のように変な期待をしないで純粋に楽しめたのに。。。
また、角野氏ご本人もこれで納得されているのかしら…という疑問も抱いてしまいました。

公開直後のTweetを比較すると……

●Ordinary days
初めてTHE FIRST TAKEに出演させていただきました。楽しかったなあ。音楽の醍醐味を全身で感じられた気分でした。miletさんありがとう!!!!

●Fly High
弾きながらでも勇気をもらえる曲です。今回も参加させてもらえて幸せでした。ありがとう!!

やはり後者はご自身の音楽については語られておらず、曲への評価と「参加」という言葉で、明らかにスタンスが違うことがわかります。
違いを認識されていらっしゃるという意味ではファンとして納得できるものの、果たして、演奏家だけではない音楽家としてのお気持ちはどうなのかしら…と思っていたら、その答えは「Cateen's Piano Live [90万人ありがとう]」ライブ配信にありました!(正確には、私が「あった、と思った」)

そもそもツアーファイナル直前のこのお忙しいこの時期に、どうしてライブ配信をしなければならないのかその理由に疑問を感じていました。
チャンネル登録90万人のお礼もアップライトピアノのお披露目もツアー終了後であったとしても支障はありません。
唯一必須なのはツアーファイナルのプロモーションですが、もっと気軽にインスタライブでも効果は変わらなかったかもしれませんし、もともとファンの方がご覧になる事を考えても、配信チケットの販促効果には余りつながらない様に思います。
それが、動画内で披露された「パガニーニの主題による狂詩曲 第17変奏」から部分的にマッシュアップとなっていた「Fly High」を聴いて、やはり私が感じていた様なある種のモヤモヤを抱えていらっしゃったのかな…と思いました。

話は少し戻るのですが、「Fly High」公開前の記事ではmerit氏のお言葉で「ピアノが雪の結晶みたいでした」とあったのですが、正直該当する箇所が思い当たりませんでした。milet氏のリップサービス?とさえ思ってしまった位なのですが、「90万人〜」で演奏された「Fly High」ではキラキラと雪の結晶が輝いていました!!!!
もしかして、角野氏もこの文章を読まれて雪の結晶のような「Fly High」をを演奏したいと思われたのでしょうか。
全くの妄想なのですが、全体のライブ構成の中で最も作り込まれていた箇所のその一部に紛れ込ませる(マッシュアップにする)所に、逆にご本人の拘りを感じてしまいました。
角野氏は時々、ラボ内に公開できない動画や公開前段階の動画を「成仏させる」とアップされている事がありますが、まさしくそれらを観ている様な気がしたのです。
そして、この演奏が音楽家角野隼斗の「Fly High」だ!と思えたら、段々と私のモヤモヤも晴れていきました。あっ、この場合は「モヤモヤが空に昇っていった」って言った方が良いのかな? 笑

これまで度々「少年のような夢を忘れない」とおっしゃられていた事、確かにそうなのですけれど、実は少し違和感を覚えていたのです。今回の動画を見て思ったのは、たぶん羽生選手の様な無垢なる少年ではなく思春期頃の少年なのではないか…と。
無垢な自己をそのままさらけ出せる少年なのではなく、溢れ出る自己を表面的に覆いつつ、内なる情熱を抑えきれないような感覚です(大人はその情熱を失うか完全に隠す術を身につける)。「天邪鬼」とおっしゃることも、性格的な皮肉さというより、ご自身の内なる熱を表に溢れさせる事への躊躇い・照れの様なものではないか…と。

人の一生のうちに最も成長する時期が思春期と言われますが、だからこそ対外的な問題点と内なる自己との関係には悩みが尽きません。
多くはその悩みや軋轢を引きずってしまう所を、角野少年は毎回自分の中で最善と思える行為を全力で行うことで一つずつ消化する人生を歩まれてきたように思いました。(動画が斜俯瞰からの画角だった事も、角野氏のこれまでの人生を想像してしまう要因でもありますが… 笑)
いくら興味があるとはいえ様々な音楽ジャンルに果敢にチャレンジし続けるという事は毎回相当なエネルギーが必要なはずで、そういう意味でも思春期のそれに似ている様に思います。
しかし、その挑戦は必ずしも全てが満足な達成を約束されている訳ではありません。その保証の無い挑戦を続ける事ができる理由を考えてみると、きっと、悔いが残らない事こそが成果より大切であるという実感をお持ちなのではないでしょうか。時には満足できない成果や結果・評価であっても、その行為や感情から切り離し「成仏」させることで挫折にならず糧として先に進まれている様に感じます。(ショパンコンクールの結果もそうだったのかもしれません)
「Fly High」の後に演奏されていたガーシュイン「ピアノ協奏曲ヘ長」のハイライトは、清々しいほど一切の曇りも感じられませんでした。

ですが、「決して後ろを振り向かない」という事ともきっと違うのだと思います。
少年期の音楽経験の後に大学の専門では理工系を選ばれ、そしてまた音楽に戻られた事と同様に、きっとまた別の機会にmilet×Cateenの「Fly High」を披露してして頂ける事と思っています(北海道での収録コンサートで共演される様なので、期待大!)
改めて、すっきりした心持ちで THE FIRST TAKE「milet×Cateen - Fly High」を聴いてみると…
milet氏の歌が何と言っても本当に素晴らしい!その音楽全体を支えるCateen氏のピアノもカルテットも本当に素敵で、ようやくその音楽を純粋に味わう事ができました。

あと、この文章を書くに至ったのは、ご本人が東大大学院ご卒業の際に書かれていたnoteの記事を読んでいた事も大きな要因です。2年前に一度読んだだけなので詳細の記憶は定かではないのですが、思春期・青年期の方々にとって多くの指針となるだろう素晴らしい文章でした。それが消えてしまった事は残念ですが、今のご本人にとっては大学時代の思い出は一旦ページを閉じておきたいお気持ちがあるのかもしれません。
またいつか、あの熱い青年の志と冷静な視点が織りなす素晴らしい文章と再会できる可能性も期待したいと思います。

今晩はガーシュインで、明日はボタンアコーディオンの後編で、あさってはいよいよツアーファイナル、楽しみです。
どうぞお体にはお気をつけて、駆け抜けて下さい。

※誰も読まないだろうと思って勝手な事を書いています。。。すみません。


<追記2>
Music In The Best Position 蔦谷好位置×札幌交響楽団をNHKプラスで拝見しました。
「Fly High」は、角野氏が自由に即興演奏されている様には感じませんでしたが、アナウンサーの方が紹介されたように、どこからどう聴いても「milet×Cateen(コラボ)」にしか感じられませんでした。
角野氏のピアノの魅力が十分に感じられる編曲である事はもちろんなのですが、オーケストラだからこそ!という音楽性ももちろん感じられて本当に素敵でした。編曲のメインは蔦谷氏がなさっているというクレジットでしたので、さすが!!! ありがとうございました。
客席の方をほとんど観ずにずっと角野氏の方を向かれていたのは、milet氏もTFTの続きって思われていのかも…とか。。。
ただ、喉はコンディションが万全のコンディションとは思えず、歌手の方って本当に大変だと思ってしまいました。お疲れ様でした。


<追記3>

「ラプソディ・イン・ブルー」は、この記事に書いているように角野氏の特別な「無音=間合い」について初めて気づきを得た曲です。
2022年のサントリー1万人の第九で演奏された「ラプソディ・イン・ブルー」では、その無音・間合いがより洗練されたものとして表現されていたのですが、結果は驚くべき事に「無音が音楽になる」のではなく「音楽が演劇的に感じられる」というものでした。
ピアノが言語とはおっしゃっていたものの、あくまでも比喩だと思っており、まさか本当にここまで実感でききるものだとは思いもしませんでした。
こちらの想像とは違う新しい結果に至るところもまた、大きな魅力です。

カデンツァも美弱音もドライブ感も揺らぎも、過去の誰の演奏とも違う素晴らしさですが、驚きの長短の間合いは、もはや音楽の域を超えた古典芸能の名人級である一方で会話の間に近い自然さでも存在、特別な瑞々しさを音楽にもたらしている。
#角野隼斗
#サントリー1万人の第九

文字数制限で何度も何度も書き直したのですが「演劇を観ているような会話の間合い」と書きたかったのですが…書ききれず。。。 タグ検索をしてみると、私の様に「演劇的」と感じられている方が多くて万歳(マーク)
#角野隼斗
#サントリー1万人の第九


サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用 5/27


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略