【RP】ブラッド・メルドー IN JAPAN 2023 「バッハ with オーケストラ/ブラッド・メルドー:ピアノ協奏曲」

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

2/5にオペラシティコンサートホールタケミツメモリアルで行われたブラッド・メルドー IN JAPAN 2023の感想です。
メルドー氏のコンサートはサントリーホールで拝見したことがあったのですが「Highway Rider」発売のタイミングだったはずとうろ覚えしていたところ、直前の2009年で、しかもトリオでした。(でも、ソロの印象が強いのでいくつかソロ演奏があったはす)
今回はどうしてもオリジナルのピアノ協奏曲が聴きたく、昨夏の時点ではソロ+協奏曲のプログラムで購入していたのですが、仕事の都合で一度チケットを手放したことと、角野隼斗氏のコンサートツアーでバッハが演奏されることが発表されていたこともあり、日曜開催の「バッハ with オーケストラ/ブラッド・メルドー:ピアノ協奏曲」を選択しました。


<バッハ with オーケストラ>

前半の「バッハ with オーケストラ」は、オーケストラ編曲・演奏のバッハをインスピレーションとするメルドー氏の即興演奏×4セット、チケット発売時に発表されていたプログラムではメルドー氏のピアノソロは2曲でしたが、実際にはバッハとメルドー氏の即興は完全なサンドイッチ構成に変更されていました。

ブラッド・メルドー IN JAPAN 2023 からのスクショ

Bach arr. Stravinsky - Prelude & Fugue X
>Brad Mehldau - Solo improvisations
Bach arr. Coleman - Prelude in B minor
>Brad Mehldau - Solo improvisations
Bach arr. Webern - Fuga (2. Ricercata)
>Brad Mehldau - Solo improvisations
Bach arr. Berio - Contrapunctus XIX for small ensemble
>Brad Mehldau - Solo improvisations

ブラッド・メルドー in Japan facebookより

オーケストラとして編曲されたこれらの曲は事前に検索してもヒットせず、予習がとても難しかったです。
また「ブラッド・メルドー:ピアノソロ」としか書かれていなかった部分は、「After Bach」からのものか即興演奏のどちらかだろうという予測はしていました。
指揮者であるクラーク・ランデル氏とメルドー氏がステージに現れメルドー氏の着席からすぐに1曲目の演奏開始。
コントラバスの低い音でズンズンと印象的な伴奏が始まり、やがてヴァイオリン等で主旋律が奏でられ、クラリネットのソロなど演奏が展開していくにつれて、メルドー氏の姿勢は前にうずくまり音楽のリズムとは関わりなくゆっくりフラ〜と左右に揺れ始めました。
まさかステージ上で寝るなんてことはないだろうとは思ったものの、人の「気」のようなものががほとんど感じられません。
と、曲が終わった瞬間に直前にクラリネット等で演奏されていた旋律と似たメロディを展開していくようなピアノが奏でられ始めました。
あああああ!!!完全な即興!!!!
というか音楽を降ろしている!!!!
メルドー氏は音楽の依代という存在としか感じられず、まるでシャーマンの様です。
こんなことを実際にできる人がいるなんて…あまりに衝撃的すぎて、目の前の情景とその奏でられている音楽に現実味が薄れるほどでした。
それはバッハからの隣接・近接する共通項から導き出される「換喩」的表現なのですが、そこからさらなる換喩や反応としての飛躍など段階的な変化を経て自立したインプロビゼーションとしての音楽が立ち上がっていくのです。
今回の指揮をされたクラーク・ランデルマエストロはメルドー氏との演奏機会が多い方とのことですが、たしかにこの様なスタイルで即興が行われる以上、メルドー氏がイメージする音楽性でなければ曲は降りてこないのだろうな…と。。。

●Bach arr. Stravinsky - Prelude & Fugue X >Brad Mehldau - Solo improvisations
ストラヴィンスキーの編曲はニコニコ動画にあったものを聴いていたのですが、全く違う曲にしか聴こえなかったので「番号がわからないかったので違う曲だったのか…」と思ったら…後のTwiterのご感想からこの曲で合っていることが判明しました。
ただし、テンポが全く違い早かったそうです。
そういえば、「After Bach」のライナーノーツにジョン・エリオット・ガーディナー氏のことが書かれており、調べてみるとこの様なバッハのオーケストラ演奏をオリジナルに近い解釈=割と早いテンポで指揮された様でした。
とはいえ、ストラヴィンスキー自体は「新古典主義」とされていまうし、どの歴史的位置を「古典」とするのか‥全く不明。
「変位しつつある〜」のラモーの項で書いた様に、何重にも再構築が繰り返されているだろうという程度しか私にはわからないのですが、とにかく通常演奏されるストラヴィンスキーの編曲だと、たぶんメルドー氏の即興には繋がらないのでしょう。
でも…冒頭のコントラバスのズンズンというベース進行は動画にはなかったと思われ…よくわかりません。
このバスが続いた後にヴァイオリン等の主旋律が重なりつつも、かわらず主題はバスに残っているように感じられ、ちょっとメルドー氏の曲に近い感覚、「オーケストラなのに面白い編曲!」と思っていたのです。
オーケストラの演奏はオーボエ(たぶん?)の特徴的なメロディーで終わるのですが、楽章間の区切りよりも短いタイミングで、すぐにメルドー氏の演奏が始まりました。
当初即興なのか用意されてた曲なのかわからなかったのですが、冒頭に書いたようにほんの数秒で即興であることがわかりました。
なぜなら、オーボエで用いられていた(もしくは似た)フレーズを繰り返したりズラしたり…隣接性・近接性から展開する換喩的な表現として前の曲と一つの流れとして続いていたからです。
用意していた曲だったら、こんなに自然に繋がらない…と思うほどスーッと繋がり、やがて新たな音楽として多様に変化していきました。

●Bach arr. Coleman - Prelude in B minor >Brad Mehldau - Solo improvisations
「マイナー」だけあってロマンティックで哀愁を感じる曲ですが、やはり鍵盤楽器だけとオーケストラとではその質感が全く違います。
音楽としての厚みというだけでなくて、たくさんの音に包まれ沈んでいく感覚などがリアルに体感する感じ。
そしてまた、曲の後半でメルドー氏の体が揺れ始めました。
深い瞑想、ある種のトランス状態に入られている様に感じられます。
この曲の場合、即興への隣接・近接素材として抽出されたのはハーモニーと質感でした。
予習時に相互フォロワーさんから教えて頂いたバッハのYouTubeの解説で「分散和音」という言葉を知ったのですが、私がこれまで「単旋律」として認識していたものの多くは「分散和音」になる様です。
まさに、この即興はオーケストラのハーモニーとして用いられていたものを分散和音=旋律的にピアノで演奏することで繋げていました。
ですが、それがやがてメルドー氏独特のマイナー的な和音に移り変わっていくのです。
ますます自分が水の底に沈んでいくか感覚のもと、その一方で上部の水面周辺のでは早い水の流れが感じられるような気がしました。
この分離する感覚は???と思ったのですが、どうやら倍音の響きが沈む感覚につながり、流れ行くメロディが水の流れのように感じられた様です。

●Bach arr. Webern - Fuga (2. Ricercata) >Brad Mehldau - Solo improvisations
3曲目になってくると、段々とオーケストラの演奏に意識が向かなくなっていることに気づきました。
音楽表現としての「鮮度」が全く違っているのです。
素晴らしい録音技術と素晴らしい音響設備で再生された演奏を聴いても生演奏との違いは歴然としていますが、その位にオーケストラの演奏とメルドー氏の演奏には圧倒的な違いがありました。
これは曲としてのクオリティや演奏力という類の問題ではなく、過去に演奏された音楽の再現と今現在演奏されている音楽との違いのような「鮮度」「リアリティ」その問題です。
もはや、オーケストラの演奏はメルドー氏によって音楽を降ろす為の事前儀式の様にしか感じられなくなっていたのです。
まさか、こんな風に決定的な違いが生じるなんて!という驚きでしかありませんでした。自分でもこの感覚に気づいて「コワ〜〜〜」と思うほど。。。
曲はトランペット(?)の哀愁やクラリネットなど吹奏楽器が印象的な曲で、曲名にフーガとあるように相似するフレーズが変化していくその関係性(いわゆる関数的な意味合)が、即興との隣接・近接素材として抽出されているように感じられました。
たぶんジャズでよく使われる不協和音的なコードや他の3曲ではなかったモダンジャズっぽいピアノのタッチもあり、4曲行われた即興のうちもっともJazzyな表現がみられました。
最後が「ダダダダ!」という和音の連打で終わるところもユニーク!

●Bach arr. Berio - Contrapunctus XIX for small ensemble >Brad Mehldau - Solo improvisations

4曲目はバッハの演奏に対する記憶が残っていません(完全に事前儀式になっている)。
ただ、即興への繋がりは覚えている訳で…この曲の場合は不協和音がフェルマータの様に伸びている状態の上にピアノの演奏が乗る始まりでした。
ところが、いきなりボワボワというような唐突に現代音楽的な音が入り、ちょっと今までのメルドー作では聴いたことがない様な前衛的な印象。
メロディーは崩壊しつつあり、いわゆる無調性音楽(音楽的な正しい解釈はわからず、単にメロディやコード等の認識がしずらい現代音楽っぽい印象という意味)のような感じです。
テンポも決まった拍のようなものが感じられないかと思えば、一気に繊細な「音・響き」に注力させる表現になったり…と。
本当の意味でのトランス(音楽のカテゴリーではない)状態そのものの様な感じがしました。
とにかく、今まで聴いたどのメルドー作とも違っている、現代音楽的、という印象で最後はバーンと盛り上がってダイナミックに終わりました。

メルドー氏の即興についてのまとめとしては、作曲された音楽と即興との違いがこれほどまで大きなものだとは思っておらず、ただただ驚いたとしか書けません。
小曽根真氏による特に思い入れの強い即興演奏も拝聴していますが、全く違うのです。
小曽根氏の即興はあくまでも表現者という人間の中から紡ぎ出された音楽でした。
既存曲の演奏に比べて緊張感が突出してはいましたが、録音と生演奏の違いのような「鮮度やリアリティの差」はなかったのです。
またメルドー氏自作自演のピアノ協奏曲や単独のアンコール曲などでは、この様なシャーマン的な表現は一切みられませんでした。
Tweetを検索するとプロの演奏家の方々は翌日のソロ+ピアノ協奏曲を選ばれた方が多かったようですが(普通はそうしますよね…)、5日はもしかするとメルドー氏の創作過程を垣間見ることができためっちゃレアなプログラムだったかもしれません。
いや〜〜〜とにかく、凄いものを観てしまいました。。。
っていうか、こんな神聖な儀式みたいなものを観てしまって良いの?という感覚です。

クラシックTV「バッハの魅力」では、神を讃える言葉を楽譜に書いているとあったので、もしかしたらメルドー氏と同様の作曲スタイルだった可能性がある…と考えられるほど。
とにかくその音楽性は「上から降りてきたもの」なのです。
それが形而上学的な形相に対する模倣であったり神への模倣だと思われ、つまりはバッハの時代における芸術行為=ミメーシスとしての芸術行為(詳しくは「変位しつつある〜」に記載)を現代でもそっくる行っているかのように感じられるのです。
「鮮度」「リアリティ」と前述したその続きに、本来は「格」も書きたかったのですが…誤解を受ける可能性があるので止めました。
が、当時の芸術概念は神を頂点としたヒエラルキーがあり「格」もあったはずで、そういう意味ではコンサートで演奏される音楽とその場で降りて来た音楽とは「格」も違って感じられたのです。
「とんでもないものを観てしまった」という私の実感は、Twitteを検索してみるとキーボーディスト森俊之氏のTweetがもっとも納得できるものでした!
前日紀尾井町のソロのご感想も残されているのですが、テンションの差が結構あります。。。笑
(紀尾井町に行かれた方のお話を伺ったら4回もECがあったそうで、それはそれでちょっとうらやま)

そして…ここまで書いて突然「もしかしてもしかするかも?!」と思いついたことがあります。
1曲目は旋律を重視した即興なので、明らかにバッハの特徴でした。
2曲目はハーモニーですから、ラモー以降のまさにクラシック的な特徴。
3曲目は途中にジャズっぽい表現なども入る近代の様相。
4曲目は、まさに現代音楽!
つまり、バッハから現代につながる通時的な音楽様式の変化が即興の着想になっていた可能性が考えられるのです。
これら4曲の即興ではバッハの曲からタイプが異なる4種類のモチーフを抽出し展開されていたのですが、それは素人でもわかるほど象徴的でした。
いやーーーー、聴いている時には全く気づかなかったのですが、こうやって書き並べてみると新たな気づきがあるもので…書き残すって本当に重要。
メルドー氏ご本人は、依代=無意識下で演奏されたかのような音楽を奏でられながらも、全体としてはとても構築的に感じられたのはその為かもしれません。
2/8のメゾン・ド・ミュージック「はやとちりラジオ」での角野氏のお話では、メルドー氏の場合は即興でも採譜されているとお聞きになったとのこと、それがどういう意味なのか素人的にはわからないものの、この構築的印象が生じる要因の一つなのかも???

<ブラッド・メルドー:ピアノ協奏曲>

今まで聴いた、どのピアノ協奏曲よりも好き!と言えるほど、感動しました。
ところが、Twiterでご感想を検索すると、人によって驚く程に印象が違うというか、評価が賛否両論に別れているのです。

●メロディラインやオーケストレーションに工夫がない
●難解
●わかりやすいのに新たな音楽体験!!!(←私はここ)

このうちの「難解」と思われた方は、たぶんクラシックの現代音楽はほとんど聴かれた事が無いのだろうと思われます。
ジャズ要素があると言われるアデス氏や狭間美帆氏の「現代音楽としてのピアノ協奏曲」に比べれば、スーッと耳に入ってきてとても分かりやすいのですから。
一方「工夫がない」と思われた方は…その「工夫がないと思われた所こそ最も工夫されている所」に気づいていたっしゃらないのでしょうね。。。
このピアノ協奏曲、素人の私が聴いてもユニゾンがとても多いのです。
それが「オーケストレーションに工夫がない」という批判の元であることはすぐにわかったのですが、私からすれば「これってワザとじゃん!」なのです。。。
「〜不思議な低音」で書いていますが、私はピアノとエレキベースのユニゾンがとても好きです。
違う楽器で行われるユニゾンって、それぞれの楽器の基音が倍音になる為なのか…楽譜に書かれている音だけではない+αの共鳴のような音が感じられて不思議な感覚が得られます。
今回、弦楽器全て?と思うほど一斉にユニゾンで演奏されていたり…ちょっと普通ではありえない様なことがワザと行われていて、たくさんの面白い音体験をしました。

また、ハープがものすごく重要なパートとして扱われていました。
(最後に指揮者の方がわざわざハープ奏者の方と握手されたほどですが、コンサートマスター以外ではこの方お一人)
ピアノのソロパートの前や場面展開の前に「先駈け」のような感じでハープの演奏が入ったり、ピアノとハープが会話をしているかの様に展開する箇所もありました。
5弦のエレキベースの高音ではハープにそっくりな音が出るのですが、その音とピアノの音との相性がすごーく良いことを知っていたものの、改めて考えてみるとピアノの弦を弾(ひ)く行為とハープの指で弾(はじ)く行為では、周波数的に考えてもきっと近い音がするのでしょうね。
また、モチーフを引き継いでピアノが展開する…みたいな感覚は、前半のバッハから即興への引用に近いように感じられました。
分散和音と和音とまではいかないまでも、似通った要素をそれぞれ別の側面で表現している…みたいな感じです。

大太鼓は普通、盛り上げる時やリズムをキープする為に用いられますが、なんとなんと、聴こえるか聴こえないかの微かな音で演奏され、耳への変な「圧・効果」が続くのです。
低周波音は聞こえない騒音として人体への影響が指摘される位ですから、音楽以上に身体効果を意識している使い方に思えました。
さらに、木琴(高音なのでシロフォン?)とスネアドラムをお一人の方が同時に叩かれていたのですが、ザラザラしたスネアの音とクリアな木琴の音が一つの音として聴こえてきたのも面白かった!
しかも、これが全体の演奏から独立した変拍子的な感じで入って来るのです。

肝心のメルドー氏のピアノ演奏ですが、前半とは打って変わって手を高く持ち上げたりとてもやわらかく用いられるなど、全く違う演奏法で弾かれていました(角野氏の奏法の違いが1だとすると3位の変化、全く演奏フォームが違う)。
ピアノが突出するところもありません。
そういう意味では前半とは全く違いましたし、個別にピアノについてどうこうというよりも、ハープとピアノ、弦楽器とピアノ、吹奏楽器とピアノ、という組み合わせ・対話の様な往来がとても美しい印象でした。
ピアノの入りは多くがハープとの関連ですが、他の楽器に渡す時のスーっと自然に引く感じも普通のピアノ協奏曲のバトンを渡す感じとは少し違う印象を持ちました。
前述の海賊版によるレビューからはミニマルっぽいとあったので意識していたのですが、「Highway Rider」の方が余程ミニマルっぽいという印象。笑
Tweetでもミニマルっぽいというご感想はあり、きっと、ハープとピアノが呼応する部分やユニゾン(音符としての音数はそれほど多くないから…)からそう思われたのかしら…と。
ぜひともこの素晴らしいピアノ協奏曲を音源化して欲しいと思う反面、身体的な感覚は録音では得られない=オーケストレーションの単調さが強調されてしまう可能性もありますから…難しいのでしょうね。。。

そして、このピアノ協奏曲を聴いてわかったことがありました!
メルドー氏の作品のなかで私が一番好きな部分は、この「共鳴」みたいな不思議な音の感覚・なのです。
あの独特のハーモニーが、他の方の曲とは全く違う!
ちょっと不思議で特徴的な旋律だと思っていたものも、たぶんハーモニーとして捉えると同質になるのではないか…と。
あまりにも身体的に感じるので倍音に関係あるのかしら?と調べてみると倍音はマイナーコードでは無いとされていました。
メルドー氏の不思議なハーモニーはマイナーコード的なもので感じられるので、だとしたら倍音ではないのでしょうね。。。
何なのだろう…
とにかく「音」ではなく「感覚」が残るというのが、メルドー氏作品で自分が最も好きなところです。
そして今回のコンサートで一番驚いたことは…帰宅途中もずーっと「音の響き」が体から抜けなかったこと!
大音量のコンサートの後に耳が変に感じられるのとは違うのですが、そういう物理的な余韻感覚です。
最後に改めて森氏のTweetを埋め込ませていただきます。

冒頭と最後に「芸術」「余韻」が、他のご感想とは分けて書かれていますが、まさにその通り。
バッハの時代と相似だと思われる芸術性が現代に再現され、現代的な物理学知識がなければ意図されなかったであろう音の余韻を味わうことができたのです。
とにかく、本当に凄い体験をさせて頂きました。

※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略