【RP】BBC Proms JAPAN 2022 Prom4 「Game & Cinema Prom 」と付随する諸々について

(別アカウントの過去記事をアーカイヴする為にリポストしています)

11月4日にオーチャードホールで行われた BBC Proms JAPAN 2022 Prom4「Game & Cinema Prom 」の感想と、付随する諸々についてのnoteです。
角野隼斗氏がオフィシャル・ナビゲーターに就任され、Proms4のコンサート自体は本当に素晴らしかったのですが、色々と思うところがあり過ぎて途中まで書いたところで筆が止まってしまいました。
大きな要因は、私がBBC Proms JAPANというイベント全体に対して最後まで良い印象を持てなかった事(コンサートの内容ではありません)です。
けれど、「또모TOWMOO」チャンネルの韓国コンサートのプロモーションを見ることで気持ちが晴れ、改めて書く気力が戻ってきました。
また、その間にマーガレット・レン・タン氏の映画「アート・オブ・トイピアノ(リンクは予告編)」を観たことで、このProms4のプログラムとの関連性、すでに終了しているフランチェスコ・トリスターノ氏との2台ピアノのコンサート2つとの関連性を考えている状態で、実はどちらにおいても「アート・オブ〜」とは切り離せない思考が頭の中で渦巻いている状態でなかなか纏まりません。書いている途中で「次のnoteに」という記載が多くなってしまっています。
また、一旦書いたものを放置した後に書き続けている為、文体や思考に統一感が無い所がありますが、どうかご了承ください。

<Game と Cinemaというテーマについて>

やった〜
他のゲーム音楽は知らないけど、ファイナルファンタジーVIIは唯一プレイしたFFなのでメッチャ思い入れがあります
プレリュードを聴くと今でもあのワクワクが蘇る!この曲から始まるなんて嬉しすぎます
(角野氏はティファとエリアスどちら派) #角野隼斗 #BBCpromsJapan #Prom4

10月31日(サークルでのTweetのため埋め込みではなく引用)

演奏曲が発表になった時にこういう投稿をしていたのですけど…実はコレ、全く逆でした。
というか、逆であることを自分でもわかっていたのに、数少ない自分が知っているゲームがテーマになっていた事に浮かれて書いてしまったと言う方が正しいかもしれません。
今回もいつものようにプレイリストを作成して聴いていたのですが、ファイナルファンタジーVIIのオリジナルのままだと、条件反射で変なドーパミンが出てしまい全く音楽を聴くことができず、あえて編曲されているもの聴いていたのです。
(角野氏のYouTube上では「闘うものたち」「更に闘うものたち」は一時的に非公開)

その一方で、エヴァンゲリオンはきっとその物語をご存知だった方々の方がコンサートを楽しめたのではないか…と。
noteにエヴァンゲリオンファンの方の深い解釈が書かれていたのですが、もし事前に知っていたらもっと違う鑑賞になったことを実感しました。
私はエヴァ作品を全くしらなかったので、バッハ『主よ、人の望みの喜びよ』は、その演奏の繋がりから何かしらエヴァに関係があるのだろう…と思っていた程度なのですが、挿入曲として重要なシーンで度々用いられていたことや、投影されていた十字架の比率の意味も、知っている人にとっては単なるバッハ=教会といういうイメージではなかった様です。

テーマでは「Game & Cinema」と一括りになっていますが、この二つの媒体における音楽の受容はきっと異なっているのではないでしょうか。
ゲーム音楽はたぶん、作品の文脈以上にプレイする身体感覚にとても強く作用していて、イメージとか鑑賞の次元ではちょっと無い感じがします(自分でコントロールできない感じ)。
一方、映画音楽は作品からイメージが展開している分、新たにイメージを広げられる可能性がもとから存在している気がします。
「鑑賞の指標図」では思考や感情的な部分で分析していたのですが、体感的な意味でも何かしら考える必要があるのかもしれません。

そしてこのテーマ、角野氏の事前インタビュー(クラシックちゃんねる「角野隼斗×BBC Proms ロングインタビュー in London」)で期待したほどまでは、全体をとおして音楽に関わるイメージの繋がりを感じることはできませんでした。
ところが、11/12配信のかてぃんラボによると…Prom4全体のテーマは後付けだったというのでちょっと驚いてしまいました。
角野氏は純音楽と同次元でフラットに音楽を評価することを意図されていた様に思われますね。
以前のnoteの追記では、テーマ設定について「悔しい」と書きましたが(テーマと曲目とはある種の遊離が感じられ、それを繋げる「何か」で構成されているのであれば相当すごい!という意味)、実は全く逆でした。
ゲームや映像(映画)の文脈上に存在する音楽は作品イメージの一部を担っているのに対して、クラシックの純音楽(現代作品含む)は、観者がイメージや文脈を解釈として意識することはあっても、作品そのものに付随しているイメージではありません。
もちろん曲名としてイメージが付けられている場合もありますが、この場合の作品は音楽そのもので、別作品の要素ではないのです。
つまり「ゲームや映像」というテーマで選ばれた曲は、実は純音楽とフラットに並べたことで、その音楽性を作品の文脈から独立させることになる。もしくは、ゲームや映像というイメージが結び付けられた音楽から、純粋に抽象度の高い音楽を取り出すことができる、ということにもなるのです。
これ、テーマとは逆説的と言える作用を生んだと考えられるのかも!!
もちろん、エヴァンゲリオンについての知見があれば、もっとイメージは大きく膨らんでいたはずなのですが…あくまでも私の鑑賞がそういう次元であったということです。

ちなみに、「考えられる」と書いたのは、そのゲームや映画のに思い入れを持ちながら、その世界観に浸った方も多くいらっしゃったはずで、決してそれを否定するプログラム構成ではなかったということです。
けれど、オリジナルから一歩進んだ「音楽的な新たな展開」は確実に成立していて、それこそが「オリジナル作品を知っている人も知らない人も楽しめる」という結果に至った要因なのでしょう。
個人的に全体テーマに迎合しすぎない方が好み(内側からのイメージ想起が大きい方が個人的に好きな為)ということはあるかもしれませんが、そもそもそれが成立する事自体、音楽が持つ純粋な抽象的芸術の力とも言えそうです。
結論としては、「どちらのスタイルでも楽しめる」ということでもあり、「どちらも大切である」ということもであるのかな。
そして、音楽を楽しむ場合は、実はどちらかに偏っていることの方が多い、という気づきにもなりました。


<コンサートの感想>
コンサートの感想については、他の皆様が素晴らしいご感想を書いて下さっているので、全体像というよりも他の方とは違う視点を中心に書かせていただきます。

私がチケットを購入して意識的にクラシックのコンサートを聴いたのはのオペラシティだったのですが、本来最適な席と言われている10列の中央だったにも関わらず、ステージが高く客席がフラットな為ピアノの下からの音がワンワン響くだけで音楽鑑賞になりませんでした。
このオーチャードホールも舞台が高く客席がフラットなシューボックス型、席も下手端の本当に前方なので、始まる前はとても不安でした。。。

●植松伸夫:『ファイナルファンタジー』より「プレリュード」
この曲はピアノがありません。
ブルーのライトが舞台を照らし、指揮の米田覚士マエストロが登場されても挨拶はなく、はじまりを象徴する低い鐘の音で曲が始まりました。
そしてあの何百回聴いたかわからない(笑)フレーズが目の前のハープで演奏されていました。
後にはオリジナルとは違う小太鼓やシンバルも入るマーチっぽい編曲(残念ながらどなたの編曲か記載が無い)に移行。
「こども定期演奏会」オープニングでテーマ曲を聴いた時のようなワクワク感で、ファンタジー世界の冒険が始まる期待感がクラシック音楽で表現されている様に思いました。
そして曲が終わったのですが…
指揮の米田マエストロは曲が終わってから指揮棒を下ろすまでの時間がとても長く感じられました。
たまたまなのか米田マエストロの指揮スタイルなのかはこの時点ではわからなかったものの、より音楽世界の壮大さがじんわり感じられたような気がしました。
そして米田マエストロが観客の拍手のなかを同じ様に拍手をされながら退場されたのですが、それが音楽的なリズムにノっていて、ちょっと笑いそうになってしまうほど。きっとご本人は無意識だろうと思われるのですが、これはもしかして?笑
以前、角野氏の「無音を音楽にする可能性」について書いたことがありますが、それ以降も考え続けていてたどり着いた理由は、「自身の中で生まれ出るリズムを持っている」ということだったのです(その理由は久石譲氏のコンサートを聴いた感想とともに書く予定)。
聴こえる音楽に対するリズムではなく、体内で無意識にリズムを刻んでしまうような感覚を持っているということです。
角野氏は演奏以外の箇所でもご自身でリズムを取られたり、リハ風景などでは音楽が存在していない時でもお一人で踊る様にノっている時があります。
米田マエストロの退場シーン、拍手であったはずのものが手拍子として歩調と同期しながらノリノリで歩かれている様子を見ていると(毎回、最後まで同じ 笑)、「ああ…これは角野氏と同じリズム星の住人!!」と思うに至りました。
残念ながら配布物には米田マエストロの資料が一無かったので、noteを書くにあたりプロフィールをネットで調べたら…案の定大当たり!
「ピアノ→ジュニアオーケストラで打楽器担当」とあり、ある意味では角野氏と同じ!笑
ご年齢も25歳ということで、お若い方特有の優れたリズム感だと思っていましたが、内側から溢れるリズムは年齢の問題だけではなかったみたいです。笑

●吉松隆:ピアノ協奏曲「メモ・フローラ」
角野氏がご登場。
音響的にピアノの鑑賞に没入できるのか固唾を飲みました。
冒頭、リリース音源では弱音過ぎて聴き取れなかったオケの音の伸びを感じピアノの音がポロポロと聴こえてくると…まるで夢の中のお花畑でピアノが響いている様。
というのも、ピアノの音はとても間接的で広がりのある音でしたがモワモワしておらず透明感が維持されています。
もしかすると、一度舞台上にある上手側の反響板を経た反射音が聴こえてい可能性があり、中央で聴くよりもずっとリバーブが強く感じられるのです。
一方、オーケストラの音は割と直接的な生の音に感じられ、同じ空間から発せられているのにピアノにだけエフェクトがかかっている様な不思議なバランスで音楽が耳に届いてきました。
でも不快感はなく、むしろ非現実感が強まって好印象!
所々では鳥のさえずりや風のそよぎのような自然性を感じつつも、ピアノのリバーブがかかった音からは非現実的なフワフワした浮遊間が感じられ、
それが「メモ・フローラ」というファンタジーを美しく彩ってくれていた様に思います。
事前に聴いていた飯田田部京子氏と角野氏の演奏との大きな違いは、そこにフワーっと沸き立つ波の様なグルーヴが存在していたことです。
グルーヴについては以前「パシフィックフィルハーモニア〜」で少し書いたのですが、その時は言葉の解釈にとどまっていました。
私の中ではグルーヴを2種類に分けているのですが、より顕著にその二つを比較できるのはフランチェスコ・トリスターノ氏との2台ピアノでの演奏だったと思われるので、今回は省きます。
第一楽章の終盤は本当に心地よくて本当に夢見心地になりました。
第二楽章では、角野氏の弱音の美しさから始まり、情動が内にこもる堅い蕾から徐々に花びらが開いて解放される様な…もしくは、白い花弁が段々と赤みを帯びるような感覚を覚えました。
ヴァイオリンの透明な音色に対し、ピアノは少しくぐもったアップライトの様な質感も感じられ、それが朝靄や雲海をイメージさせます。
と思った途端、だんだんとピアノの音が明るく変化していき、その朗らかで可愛らしい音色は、会場を幸福感で満たしていました。
この時はオケのグルーヴもすばらしかった!
そして弱音の三拍子の部分がとても可愛らしく、最後は静かに優しさが広がっていった様に感じます。
第三楽章はまるで桜の花盛りのトンネルを駆け抜けている様!
リズミカルな変拍子(4+5=9?)がとってもクセになる。
タンバリンやカスタネット?みたいなパーカッションも魅力的。
変拍子なのに自然で心地よいリズム、フレーズは様々な質感に変化しつつ繰り返され、オーケストラと一緒にズンズン進んでいく前進感がありました。
音楽としては最後に向けて変拍子のまま盛り上がっていくのですけど、盛り上がり自体はやりすぎ感が無く、一方ではなんとも言えない「洗練された品」としか言いようがないものが存在しています。
説明が難しいのですが、酒井抱一(姫路藩大名家出身であり画人・俳人) のリズミカルに描かれた「四季花鳥図巻(国立文化財機構所蔵品統合検索システム /画像順が一部誤り・最後から2番目の落款有が最終で最終画像はつ赤い蔦の絵の前に来る)みたいなイメージです。言葉にできない大名家の品格と、高位であるからこその自由さの様なものが変拍子の感覚に重なります。
そして米田マエストロの指揮棒は、やはり1曲目と同じく演奏が終わった余韻を楽しむ時間を私たち観客に与えてくれました。
そう、少し時間を置いて指揮棒を降ろされるのです。
「四季花鳥図巻」の左の空間と落款(画像は左から並んでいますが絵巻物は右か見るので左が最後)、この部分に一年を通した美しい理想世界の余韻を私は感じるのですが、それと同様の感覚でした。
NOSPRのコンサートツアー千穐楽では余韻が全く味わえないことに対して大きな不満を抱いていましたが、米田マエストロは私が音楽鑑賞で切望していたこの時間を作り出してくださったと思います。
観客の拍手を意識した間合いとして貯めるような空白時間には何度かお目にかかっているのですが、それとはちょっと質が違います。
米田マエストロご自身が、私たち観客と同じ感覚で音楽の余韻をその場で楽しまれている感じがするとでも言えば良いでしょうか。。。
これについては、後でもう少し詳しく書きたいと思っています。
ここで第一部が終了し、休憩を挟んで角野氏による今回のProm4についてのお話があったのですが…それは色々なことと関わってくるので先に演奏の感想を書かせていただきます。

●挟間美帆:「ピアノ協奏曲第1番より第1楽章」
「メモ・フローラ」の音楽性からはミニマルミュージックの文脈と具象的(花)イメージを感じるのに対して、この曲はアデス氏の協奏曲にも近い、複雑なリズムを持つ現代的な抽象度の高い音楽として感じられました。
Proms4で日本の現代音楽を選曲されるに当たり、個別の「素晴らしい音楽」というだけではなく、様式・アプローチの違いを意識されていただろうとも考えられます。
曲はクラシックの現代音楽的なパートがあるかと思えば、まさにジャズ!というキータッチで演奏されたり、またクラシック的表現に移ったりと変移していきます。
その音楽表現の変遷が様式的特徴の変移として意図された作曲なのか、音楽様式をも分解・再構築する事で逆に全体性を表現しているのか解釈には悩む所です。
とういのも、ここまでジャズとクラシックの特徴を破綻なく繋げて演奏できる方はちょっと角野氏意外には考えられないので、前者を狭間氏の意図として作曲されたのかの判断が難しいのです。
とはいえ、完璧に弾ける人を想定していないことがその音楽の方向性を限定することではありません。
後者の解釈においては、全体で様式的要素が混じり合っているガーシュウィンやカプースチンの様な作品とは明らかに一線を画していて、ジャズとクラシックのパーツがそれぞれ浮き立ちつつも音楽内で並列されていることに意味があるような音楽性です。
これ、冒頭に書いた『「Game & Cinema」というテーマ設定によって、「作品に付随する音楽という存在」から「音楽そのものの存在性」を純音楽同様に取り出す結果になった』という事と同様なのかもしれません。
クラシックやジャズという音楽様式が文脈から分解・再構築され、抽象的な表現性の違いとして同一線上に並べられていると考えられるからです。
どちらの意図をもってこの曲が作られているのかは私にはわかりませんが、いつの日か全楽章を通して聴いたうえで結論を出してみたいと思います。
(狭間氏のDRBBツアーに相互フォロワーさんお二人が行かれ、デンマークの多様性を受け入れる環境について語られていたという事なので…後者的解釈の可能性が高いかも…との予想)
ジャズとクラシックの世界を行き来するような曲の最後は、映画音楽のような壮大さで終わりました!(もちろん指揮は余韻付)

●下村陽子:「キングダムハーツ」より「Dearly Beloved」「Vector to the Heavens」
正直に書きますが…時間が経ってしまったので感想を書くほどの記憶が残っていませんでした。すみません。
「Dearly Beloved」は、優しく始まって盛り上がった部分が流石にクラシック的な表現!って思った位。
「Vector to the Heavens」は、ピアノがズンズンと前進していく様が超カッコいい!(前進性は前にも書いていますが、詳しくはこの後に書きます)
その強いビートが感じられるピアノに対して、オーケストラの音がとてもの伸びやかで、その対比からは戦い、その中の人間性・優しさ、みたいなものを感じました。
記憶にあまり残っていないのは、やはりゲームに馴染みがなかったからかしら…あああ記憶力が欲しい!

●バッハ:「主よ人の望みの喜びを」
会場が暗くなり、ピアノだけの演奏。
ステージ奥には十字架が投影されていたらしいのですが、前方端の為に目線がピアノに集中してしまい、この十字架を認識できませんでした(←オケの演奏がある時は時々奥にも目線を動かす為見ることができますが、ソロなのでそれもなく…)。
最初に書いたとおりに反射音が大きい音響が、まるで教会で聴いているような厳かな気持ちにさせてくれました。
ところが、中盤から俄然現代的なグルーヴを感じるのです。
この演奏、私がバッハやバロックをちょっと苦手にしていた所を「好みの曲」に劇的に転換させてくれました!
バッハの曲、厳かに静かに始まる所は良いのですが、バロック的なラシックの演奏がずっと続くと飽きてしまうのです。
似た様に静かに始まるミニマルミュージックの場合、それらが少しずつ展開して全体的なグルーヴに成長する変化があります。
私にとっての定番(自分が聴き慣れている「馴染み」感のある音楽)はバロックでもバッハでもなく断然ミニマル。
今まではどうしてもこの手の音楽には馴染めませんでしたが、今回それが見事に解消されていた〜〜!!嬉しい〜〜!!
ただ、ここで感じたグルーヴは上記に書いたミニマルの全体性とは違っていて、もっとそれぞれのフレーズに対する小さいうねりです。
(この対比については、スタクラフェスやブルーノートでのフランチェスコ・トリスターノ氏との2台ピアノの方で詳細に書く予定なので割愛)

改めてYouTubeに上がっている「Cateen's Piano Live - Summer '22」のアップライトピアノとの演奏と比較してみたのですが、この時よりピアノの音色やタッチはクラシカルで(グランドピアノなので当然)、曲の背景を感じる荘厳さを持ち(=教会音楽としても、エヴァンゲリオンの挿入曲としても)、その一方で断然現代的なグルーヴがありました(=現代人の体感にはポピュラーで馴染みがある)。
古い純粋なクラシック曲をクラシックの規範を外れることなく「現代人の体感的にポピュラーで馴染みのある表現」にしてしまうところが、角野氏の真骨頂なのではないでしょうか。
以前はそれを「即興」という感覚レベルで演奏されていた様に思うのですけど、NOSPRとのツアー以降は曲の解釈と即興的感覚とを自在にコントロールされている様に思われます。
とはいえ…冒頭に書いたように、エヴァンゲリオンの文脈で聴いたら私が得られる感動はもっとずっと大きかったでしょうね。。。残念。

●鷲巣詩郎:『エヴァンゲリオン』より「Tout est Perplexe」
「主よ人の望みの喜びを」から拍手を受けないまま「Tout est Perplexe」が始まったので、やはりエヴァとは何かしら関係性があるのだろう…と。
その世界観に浸りたい鑑賞者側の意識に寄り添うこのテーマならではの演出でしょう。
情緒的で、悪く言えば少々メロドラマ風な感情への訴えかけを感じるメロディなのですが、ピアノの表現は朴訥としているというか…アップライトで演奏されていた「亡き王女のためのパヴァーヌ」的な表現。
キータッチをアップライト的に寄せているのとは少し意味が違いますし、リズム的な表現とも違い、説明がとても難しいです。
オーケストラの音楽性とは明らかに異質感を持つこのピアノの表現が、曲の情緒性と拮抗していて…何と表現したら良いのかわかりませんが、本当に素晴らしかったです。
後半は映画音楽的な壮大に大盛り上がったのですが、そうなるとピアノの音は聴こえてきませんね。。。
ものすごーく激しく弾かれているのは見えました!笑

●鷲巣詩郎:『エヴァンゲリオン』より「THANATOS_E13_NAOTO」
プログラム表記としては、上記「Tout est Perplexe」とともにまとめられていますが、ここで会場から拍手を受けて米田マエストロと角野氏とオーケストラの一部の皆様は一旦退場。室内楽程度の人数編成になりNAOTO氏とともに改めて登場されました。
オリジナルと違いピアノは少しジャズテイストで始まり、NAOTO氏のヴァイオリンが始まるとビックリ!
あきらかにオーケストラの弦楽器とは印象が違うのです。
ボリュームの問題ではなく、音そのものが前面に飛び出してくるというか、本当に1,2mほどの近距離で演奏されているような臨場感!
一方、ピアノはと言うと最初に書いた様に反響・残響込み(自然なリバーブ有)で聴こえてくるので、なんとも不思議な感じ。。。
ヴァイオリンとピアノの奥行き感は舞台上のほぼ同じ位で、左右の距離の違いは3m位。
でも、聴こえてくる音はヴァイオリンがリビングの目の前で演奏されている様な音でピアノはお風呂場で演奏されているような響き。
最初の「メモ・フローラ」も音質の違いが感じられましたが、それをもっと極端な違いにした感覚でした。
周波数(楽器の音の違い)によって、音質そのものだけではなく音の伝わり方・広がり方がこうも違うとは…改めて驚きました。
実は能の謡でも人によって声の響き方が違うことに驚いたことがあるのですけど、こういう体験は録音音源だけを聴いていても決してできませんね。

で、実はここでもヴァイオリンとピアノは対照的な(対比的)な表現となっていました。
ただ、前曲のような拮抗感ではなくヴァイオリンがメインの所やピアノがメインの所など、それぞれが前に出たり後ろに隠れたり。
何度もテーマが繰り返されるのですが、楽譜的にはどう書かれているのか不思議に思えるほどに、ピアノは同じメロディで違うタッチ・表現が行われていました。
それにしても、NAOTO氏がこの1曲だけだったのはとても残念。。。もっと演奏やお話が聴きたかった〜!

●植松伸夫:『ファイナルファンタジー』より「闘う者達」「 更に闘う者達」
この2曲はかてぃんチャンネルでもピアノ版が公開されていましたが、このコンサート直前には非公開になっていたことから、それらを元にオーケストレーションが行われたと考えられます(その後限定公開に)。
感想は、とにかくメッチャかっこいい!!!!しか言えない。。。笑
これ、ゲームをやったことがある人はお分かりだと思うのですが、グルーヴとは違う、アドレナリンがドパーっと出てくるような「前進感・ドライブ感」があるのです。
YouTube動画ではそのゲームの質感がピアノで演奏されていることに驚いたのですが(まだファンになる前に見た時)、今回はさらにそれがオーケストラでも表現されていてビックリ!
実はすぎやまこういち氏が亡くなられた時にアップされていたドラクエのオーケストラ版を沢山聴いたのですが、ほとんど普通のクラシックになってしまいゲームのワクワク感がなかったのです。
唯一、すぎやま氏が指揮をされていた古めの動画(オフィシャルではないのでリンク無)からはそのワクワク感・ドライブ感が得られて、やはり指揮って重要!と(すぎやま氏はオーケストラ版の編曲を認めていらっしゃらないので同じ楽譜を演奏されているはずですが、全く違う印象で聴こえてくるのも面白かった!←クラシックだと全く違いがわからないのに違いがわかることに自分でも苦笑)。
逆に、常にすぎやま氏の薫陶を受けていた東京都交響楽団はNHKの紅白で指揮が無い状態でも本当に素晴らしくあのワクワク感が再現されていたのです。
この経験があったので、原曲が持つ前進感・ドライブ感をオーケストラで再現するのは相当難しいということはわかっていたのですが、ここは角野氏と同じくリズム星の住人・米田マエストロの指揮で、オーケストラもアドレナリンがドバーーーみたいな。
が、、、、「闘う者達」は大太鼓が着いて来られず、「 更に闘う者達」は小太鼓がカッコいい編曲になっているのにそこでブレーキをかけられてしまいました。
小太鼓の入りとノリは相当難しい編曲がなされているのはわかるのですけど、大太鼓=東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第352回定期演奏会の時の方/小太鼓=第83回サントリーホール こども定期演奏会東京交響楽団の小太鼓の方だったら、本当にめちゃくちゃカッコよかっただろうな〜と思ってしまいました。
そして「更に闘う者達」の最後=つまりこのコンサートプログラムの最後では、角野氏の少し短めのピアノソロがありました。
そこでなんと!米田マエストロがクルッと完全に角野氏に向いて、ただひたすらその演奏を棒立ちでご覧になっている状態(いわゆるガン見)、曲が終わると指揮者なのに観客と一緒にメッチャ拍手喝采!!!!!!
ええええ?こんな終わり方有りなの?!しかもコンサートの最後なのに…みたいな大きな驚きと苦笑。。。
終了後のTweetで「米田さんも角野さんの虜」と書かれていた方もいらっしゃったのですが、それはきっとこの事をご覧になってのご感想ではないかと思います。
とにかく、この最後の一場面は指揮者とという感じではありませんでした。
でも、それは米田氏がお若いから…という理由とはちょっと違う気がしているので…それはまた後で。

●植松伸夫:『ファイナル・ファンタジーX』より「ザナルカンドにて」
アンコールはこの曲なのだろうとは想像はしていたのですが、演奏が始まると密やかな「わ〜」という吐息があちこちから漏れてきました。
YouTube動画よりもテンポは早めでスッとさり気なく、表現性は動画のセンチメンタルな表現とは明らかに違っていました。
鑑賞としては「人の感情を超えてなを流れゆく時間」という感じです。
ところが、終盤になると冒頭と同じテーマ部分でも音の質感が変わり、もっと内省的に籠っていきました。が、YouTube動画のような感傷的でもありません。
たぶん、瞑想的内観に近い感覚。人間の内側に宇宙がある、みたいな禅的な世界観と言えば良いでしょうか。
最後、ピアノの響きは会場に静かに広がり、いつも以上に豊かな余韻を残してゆっくりと消え、このコンサートは幕を閉じました。


<能動的スタンスと受容的スタンス>
私の勝手な想像ではあるのですが、米田マエストロと角野氏とに共通する感覚の一つに、能動的スタンスと受容的スタンスを同時に維持できていることが考えられます。
以前「離見の見」については書いたことがありますが、そちらは主観と客観についての考察なので、少し質が違う問題です。

お若い方特有の感性だと感じる部分ではあるのですが、それが成立する理由としては、プロの音楽をマチュアとして(専門教育を受けていない・もしくは教育レベルが未熟な状態)受容する一方、発信者として能動的なアプローチを常に行える環境がデフォルトだったことに起因するのではないでしょうか。
特に角野氏の場合は「音楽家になる」という最終決断が遅かったために、他のプロの演奏家よりも受容者的スタンスで音楽に接する期間が長かったと言えるでしょう。その受容者としてのスタンスのまま専門家レベルの演奏を行っていたとも言い換えることができますが。。。
もちろん、若い頃からプロの音楽家を目指された方も同じ環境にあったはずなのですが、将来の職業として音楽家を意識されている方はお若くても能動的な自己の演奏と常に対照するスタンスで鑑賞される事が多くなってしまうのではないでしょうか。
それは自分の演奏との比較や素晴らしい演奏を参考にしてみる行為としての鑑賞であり、純粋な受容者としてのそれとは質が違う様に思われるのです。
最近はあまり発言されていませんが、角野氏の「かっけー!」っていう感嘆は、純粋な受容者としての鑑賞から発生していると思われます。
で、この「かっけー!」から発生する、オマージュ、リコンポーズ、2次創作(何と呼んでも構わないと思うのですけど)、そこには創作者としての意識と同時に受容者としての純粋なリスペクトが存在しているのです。
しかもこの受容者としての意識は演奏時にも引き継がれ、鑑賞者のリスペクトや個別の想いと同調することで、より大きな共感を産むとも考えられるのです。
Proms4の演目・構成も、曲(作曲者)へのリスペクトの方が、全体のテーマ性より重視されていると感じられ、観客意識に近い受容者的な視点に繋がっているとも考えられます。
構成者は自らた設定したテーマに縛られてしまう場合も多く、テーマ性を維持しがら自由に構成が行えるかどうかにセンスと力量が試されると個人的に思っています(コンサートの曲構成に限らず)。
植松氏、吉松氏、挟間氏、下村氏、それぞれの作品を演奏した後には観客席にいらっしゃる皆様をご紹介頂きましたが、角野氏自身の賞賛は、私たち観客と全く同じだったことも付け加えさせてください。(こういう場合、人によっては上から目線で紹介する…という雰囲気に感じられる場合もあるのですが、それとは全く違う)。

そして米田マエストロの指揮からは鑑賞者がその音楽を楽しむのと同じ時間の流れが感じられ、音楽を作り出して観客に提示するという自己顕示のようなものはほとんど感じられませんでした。
むしろ、自然発生的に起こる音楽をただまとめている様なナチュラルな感覚であり、その発生した音楽を米田マエストロがご自身が楽しんでいる感覚はきっと私たちと同じだろう、というのが伝わってくるのです。
その象徴が、指揮棒を下すまでにご自身で感じられているだろう音楽の余韻でした。
また、最後の角野氏のソロをガン見してしまう所からは、純粋な「かっけー!」がストレートに伝わってきました。笑
本来、指揮者は皇帝にも例えられるほどその音楽を創り上げる特別な存在であるはずです。
マリン・オルソップ氏の指揮は、角野氏のピアノの魅力を最大に引き出して下さっていましたが、やはり「引き出す」という関係性です。
受容者的なスタンスを持ち続けている指揮なんて…と、不思議な気持ちだったのですが、その一方で可能性をも感じさせてくれました。
実はこのコンサートの終了後、多くの方が「余韻」という言葉を使って感想を書かれていて、それを読んだ時に「もしかして?!」と思ったのです。
余韻を堪能できる素晴らしい音楽が奏でられていたことが大前提なのですが、私自身は米田マエストロによって生み出されたコンサートの印象だったと考えています。
というのも、実は角野氏ですらピアノから手を離して素の感覚に戻るまでにいつも以上の長い時間を費やしていました。
個人的な勝手な思い込みのレベルではありますが、この会場の誰もが知らず知らずに米田マエストロに先導されていた様にも思います。
受容者的なスタンスにありながら、実は最も指揮者的なリーダーシップを発揮された結果、会場全体を包みこんだ「余韻マジック!」
まあ、私がそう感じただけなのですけど。。。笑
今後の米田マエストロのご活躍が楽しみです。

ところで、実は鑑賞という受容行為には能動性が求められます。
まあ、当然ですよね。何を見聞きして感じるかは個人の能動的な意識によって選択されているのですから。
であるならば、もしかしたら逆もあり得るのでは?というのがここで私が書こうとしていることです。
そもそも、ジャズのようなセッションでは互いの演奏を聴くことで自身の演奏にフィードバックさせる訳ですから、受容的感覚と能動的感覚は相互に行われる事が普通です。
同時というのがあり得るのかどうか…という事なのですけど、フィードバックのタイミングが極めて短い間隔であるならば、ほぼ同時に近い状態として考えられるのではないかな…という勝手な論理。
これは鑑賞者に受けが良い演奏を想定するのとは全く違います。
上記は鑑賞者そのものに同期・同調していませんから当たる場合はあっても外れる場合もあり、必ずしも鑑賞者の共感が得られるものとは言えません。
いずれにしても、観客でありながらも発信者であるという環境がネイティブな若い世代による新しい音楽の可能性を、また一つ感じられた!ということです。
あっ、もちろん演奏も曲目も音楽そのものが素晴らしかったのは言うまでもありませんが。。。

<「絶対」的思考と「相対」的思考>
ここで、コンサートMCでお話されたことや、BBC Proms およびBBC Proms Japanについてのことを書かせて頂きます。
小見出しのタイトルをどうしようかと迷いましたが、客観視するために絶対」的思考と「相対」的思考にしてみました。

MCで語られたことは、そのほとんどが公式サイトの動画前編で語られていたことと同じです。
「日本人の作曲家かつ今生きている作曲家に焦点を当てているコンサートを構成してみたい」
「ゲーム音楽(中略)をそうでない音楽とプログラミングすることによって何か違った見え方になるんじゃないか」

この日本・日本人についてのこだわりは、クラシックちゃんねるで公開されている全インタビューを見る必要があります。
「角野隼斗×BBC Proms ロングインタビュー in London」内「角野隼斗氏単独インタビュー:ヨーロッパと日本でのクラシック音楽の捉え方の違い(頭出し)

「クラシックはもともと西洋で生まれたもの(中略)ヨーロッパに根付いている感覚は持ちますね(中略)そういう意味でオーディエンスがクラシックコンサートを聴きにくる感覚は違う」
(けれど:筆者補足)「世界にはあらゆる国々に素晴らしい演奏家がいて、それぞれがダイバーシティ・多様性を持っている(中略)自分の国で生まれてないものに対しても小さな頃から触れて生きていたら近い様な感情になるのだろう」

さらに、ここで11/12に配信が行われたラボの内容を付け加えます。
有料コンテンツのため大まかに書くと、BBC Proms Japanとしてそのままイギリスのスタイルで行うことは、(イベント本来のアイデンティティとは:筆者補足)逆に矛盾することになるのでは」という思考から、日本にこだわったプログラムを構成された様なのです。

日本へのこだわりが大きいプログラム、これを「絶対」的に捉えるとナショナリズムになりますが、イギリスでのPromsのアイデンティティを日本に置き換える「相対」的な捉え方にすると、グローバリズムに則しているともいえます。
実は「ゲーム音楽とそうでない音楽」「クラシック音楽が生まれたヨーロッパの人と(国や文化は違えど:筆者補足)小さな頃から触れて生ききた日本人」という部分でも、思考法として共通する捉え方です。
こういう相対的な思考を展開することで、芸術の表現性はオリジナリティを損なうことなく、より多様性をもって広く大きく展開していけるのではないでしょうか。
その一方、演奏家や観客という問題以上に、クラシック音楽が置かれている環境が日本とイギリスでは全く違うと思われるのですが…それは長くなるので後述します。

実は上記に似た様な考え方は、マーガレット・レン・タン氏の映画「アート・オブ・トイピアノ」でも、とても興味深く語られていました。
角野氏がシンガポールでタン氏にお会いになったという情報から、ファンの方が予告編をTwitterで紹介して下さったのですが、冒頭にリンクしている予告編でもお分かりのように、内容の1/2以上は前衛音楽との関わりでした。
私がこの映画に興味を持った理由はまさにココ、「遍在する音楽会」を拝見した際に落合陽一氏のジョン・ケージ解釈の妥当性を考えるため色々と調べたにも関わらず、目的としているところには辿り着けなかった為です。
また、ケージ作品は最終的に音楽が崩壊するような所にまで行きついているのですが、ピアニストとして出発した経歴から考えてここまで音楽を破壊するような行為を作品とする事があり得るのだろうか?日本の禅に傾倒していると言われるなかで、西洋的ともいえる概念を純化させる捉え方の結果として音楽を崩壊させるに至ったのは何故か?という疑問があったのです。
タン氏やトイピアノへの興味はなく、もちろん角野氏との関連性へでもなく…ケージ作品の謎=自分が知りたいことがわかるかも?という気持ちがこの映画の鑑賞につながりました。
結論として、これらの疑問は映画で無事晴れ(落合氏の解釈は相対的に正しい)、しかも、えええ〜〜?!角野氏にもつながるじゃん!という結果に。。。笑
前衛音楽の歴史は内部奏法の歴史とも言い換えられる程なので、詳しくはトリスターノ氏との2台ピアノのnoteに書く予定ですが、Proms4に関連していると感じた部分を少しだけ。

まず、このタイトルにある「トイピアノ」ですが、映画の内容から言うと1/4位しか出てきません。
ではなぜタイトルになっているのかと言えば、「トイピアノ」が「音楽芸術として扱われていないもの」の喩えになっていると考えられるのです。
このコンサート内容に絡めると、角野氏がゲーム音楽を純音楽と同列に扱っていることと同じではないか、と思われるのです。
映画内ではご自身の興味に忠実に歩まれた結果として、前衛音楽からトイピアノに至ったことが語られていますが、それが興味本意の方向転換ではないのです(というか、方向転換ですらないとも言える)。
前半に費やされている前衛音楽の歴史的解釈を3つのCとして理解する方法論やジュリアート音楽院の女性としての初の博士号を取得している点をみても相当な知性派ですし、ピアニストとしての経歴の途中でその殻を破る為に聴導犬の訓練員となられ、その後にピアノの道に戻ってこられた事なども含めると、その視野の広さや「面白い!」と思う事を大切にされる姿勢は、角野氏と共通するところが多く感じられました。

このProms4にもっとも関わりが深いと思われる箇所は、シンガポールという他民族の国で生まれたタン氏が、日本やアジアの作曲者に対する想いを語っている部分です。
タン氏は日本の佐藤聡明氏の作品をアルバムに収録しているのですが、「アジア的感性を持ちながら西洋的な影響を受けている」というスタンスで佐藤氏の作品を捉えていて、私には今回のProms4における日本人作曲家を取り上げる感覚にとても近い様に感じられました。

タン氏は「ピーナッツ(スヌーピー)」のキャラクターであるシュローダーがアニメの劇中で演奏するトイピアノベートーベンを、2台のトイピアノで再現しています。
トイピアノを使っているのに劇中で流れる音楽が普通のピアノの音なのはおかしいという観点からです。
曲や物語の背景・文脈を原点から掘り下げる姿勢はまさに研究者のそれであり、前衛芸術もおもちゃの楽器演奏も、タン氏の中では同列に扱われているのがみてとれます。
映画内、クラシック音楽を擁護する保守的な批評家からは「イノセントな表現と難解で努力を要する芸術との区別が難しくなっている」ことへの批判がありましたが、私の立場から考えればそれはむしろ芸術性そのものでしかありません。ただ、そのような保守的な立場にある人からも、結論として「冗談のような試みを通してに人々に音楽の喜びを見出させた」とまで言わしめているのです。
タン氏自身は、トイピアノ以外におもちゃの楽器や空き缶を使った演奏を試みており、「私の目標は(中略)トイピアノをおもちゃから芸術的楽器に昇格させることです 私は可能だと信じています」と、自らの野心を語っています。
この多様な音楽の可能性を同列に捉える感覚は、角野氏のさまざまな音楽に対するフラットな姿勢と共通します。
ただ唯一違うと思われることがあります。
実は次項で書く「또모TOWMOO」チャンネル」でのコメントに、角野氏を的確に表現していると思われるものがありました。
自動翻訳ですが「静かな中に情熱があり、純粋な中で野望がある方のように見えていいです。」とあったのです。
私も本当にそう思う!!!!
タン氏の野心が「トイピアノの芸術への昇格」という音楽そのものにあるとすれば、角野氏の野心=志はもっと大きい音楽をとりまく環境にまで広がっているだろうと思われ、それが大きな違いとして感じられます。
このBBC Prom JAPANのナビゲーターとしてのインタビューやProms4の構成からは、純粋で大きな志を感じましたから。


<クラシック音楽を取り巻く日本の問題>
このnoteが書くのがこれほどまで遅くなってしまった理由は、コンサート自体は素晴らしかったものの、一社の冠スポンサーにおける広告代理店主導型のプロモーションとその運営対応が余りにも酷く感じられ、日本人として情けない想いで一杯だったからです。
しかもどう改善すれば良いのかがわからない以上、文句を書き連ねるだけではこのコンサート自体を下げる事になりかねず、素晴らしい演奏をして下さった皆様にも申し訳なくて、、、
ですが、韓国のコンサートに関する「또모TOWMOO」チャンネルのプロモーションを見る事で明るい気持ちになれたため、再びnoteを書き始めることができました。
なので、ここでは今回のBBC Proms JAPAN 2022の問題点も割と赤裸々に書いておきます。(余り気分の良いものではないので飛ばされる方はどうぞ)

一社の冠スポンサーによる企業メセナ的イベントで、バブル時代の方法論がそのまま用いられています。
過去に日本で開催したオリンピックやワールドカップとも全く同じ、その運営姿勢からはスポンサーの顔色しか見ていないことが伝わってくるのです(オリンピックでは大手広告代理店に捜査が入った所ですが…まあ当然でしょうね)。
正直、こんなやり方をしていたら企業のイメージアップを図るどころか、逆にイメージダウンにしかならないのに…と思ってしまうのですが。。。

角野氏のナビゲーターの起用面では…
◯全体のインタビュー動画に対してご都合主義のところだけ短く編集されている
◯対談の内容に対してパンフレットに掲載されたボリュームや内容があまりにも薄い

プロモーションでは…
◯各御出演者のインタビュー動画はYouTube上限定公開され、公式サイトからの流入に限定されている→イベント全体を盛り上げることよりもサイトや動画の管理に主眼が置かれている。
◯公式サイトの表記は『大和証券グループ presents BBC Proms JAPAN 2022 』。普通の日本語表記であれば「大和証券グループ presents」は全体タイトルの括弧からは外れるのですが、いかにスポンサーを大切にしているかがよーーーくわかる表記。

運営面では…(実はここが一番の問題!!!)
◯プログラムには出演されていた方々のプロフィールが一部欠落している。→訂正表や追加表、当日配布されたペラ1枚の1色刷に入れようと思えばできる事を怠っている。
指揮者のプロフィールが紹介されないクラシックコンサートなんて聞いた事がありませんし、著名な方とはいえNATO氏のプロフィールもありません。他の方のnoteでもこの不満を書かれていましたが、Proms4に限ったことではない様で、フィーチャーされている出演者以外の扱われ方が本当に酷い!
◯その一方で、招待で行かれた方のTweetを拝見すると、たぶんお金をかけて作られただろう招待状の存在がみてとれる。

つまり、このイベントの運営からは「音楽に愛情の無い広告代理店の仕事」がダダ漏れしている訳です。
角野氏のインタビュー動画がnaco氏に託され、それを観る事ができたのは本当に幸運でした。
主催はぴあという事になっていますから、さすがにそのままお蔵入りにすることへは危機感なり良心があったのかもしれません(勝手な想像)。。。
大手広告代理店の視点がスポンサーにしか注がれていないことには多くの方が気づいていると思われ、その事に気づいていないのは広告代理店だけの様な気がするのですけど。。。
ですが、コンサート自体は本当に素晴らしく、出演されるアーティストの皆様の熱意で成り立ったイベントだったのではないでしょうか。

「角野隼斗×BBC Proms ロングインタビュー in London」内の2本目「BBC Promsディレクターデヴィット・ピッカード氏との対談(頭出し)」

ここでは、BBCプロムスの歴史やアイデンティティ、それに根ざした音楽の多様性や新しい音楽を提示する価値(必要性)の様なものが語れています。
先に貼った角野氏の単独インタビューで述べられていた構成案が、ピッカード氏のインタビューから「相対」的に導きだされたという事が理解できます。
日本のProms運営には、氏のような音楽的な意味での優れたディレクターが存在しなかった。。。
角野氏に限らず出演されるアーティストの皆様の熱意でその不足部分は補われただろうものの、それだけではフォローできない部分が非常に大きかったと言わざるをえません。

このイベントに限らず、クラシック音楽界において著名な方がそれぞれ個人のSNSアカウントでクラシック音楽を盛り上げよう!と頑張っていらっしゃいます。
そのお人柄に直接ふれられる親近感はあるものの、果たしてそれだけで「音楽ディレクターの不在」をフォローできるのだろうか?という疑問はどうしても晴れません。
角野氏の周囲でいえば小針侑也氏のような方がいらっしゃいますが、育成レールもないので後に続く方は個人の資質次第。
ピッカード氏のような音楽ディレクターは美術界ではキュレーターという肩書きに近く、システムはそれなりに確立されています。
もちろん日本の学芸員教育だけでキュレーターになることは叶いませんが、海外の専門教育を経ることを含めて、ある程度の道筋はできているのです。
音楽業界でも、学生から音楽ディレクターとしての専門職に至る道筋ができたらもっと日本の音楽環境が変わるのに…と。

まあ、こんなことを私個人が考えてみてもどうにもならないのですが、そんな時に「또모TOWMOO」チャンネルのコンテンツを見て、もしかしてこのチャンネルのようなスタンスであれば日本でも可能なのでは?という希望のようなものが見えたのです。
そもそもnaco氏の「クラシックちゃんねる」も、日本のディレクター職の不在を補完する役割を果たして頂けましたから!
日本って専門教育を経ていない在野の活動がその文化全体を支えている事例って結構多く、なんだか少し希望が見えてきた様に思います。
(もちろん、キュレーター同様に専門教育を経た音楽ディレクターの育成にも期待していますが)

また、こういうサブカル的なプロモーションの良いところは、不完全なままで情報発信をしても、後で改善を施していけることにあります。
「또모TOWMOO」チャンネルでは、タイミングを優先して翻訳が一部不完全なままで公開されたコンテンツも、数日を経て日本語や英語の翻訳が補完されました。
プログラムのプロフィール不掲載に全く対応しなかったProms JAPANの運営との違いは大きいのではないでしょうか。
また、わずか2日間の滞在で一体いくつのコンテンツを作ったのか?!と驚くほどのボリュームですが、主催者に都合の良いわずかな部分を摘んで公開されるより、使える所を全て使ってくれる方がアーティスト側にとってはやりがいを感じられるのではないでしょうか。
実際にこのチャンネルでのコンテンツが公開された直後にチケットの売り上げが伸び、見事にプロモーションは成功しています!
ファンとしても韓国の皆様のたくさんのコメントを自動翻訳で拝見するのも、とても嬉しく楽しい♪
もちろんコンテンツは本当に面白く、大学生も高校生も教授の皆様もそれぞれ本当に素晴らしい!

<おまけの著作権情報>
SNS投稿における著作権情報をおまけに。
大手のSNSやブログ・動画投稿サイトでは、Twitterを除いて著作権管理団体と包括契約を結んでます。
前述したインスタやTikTokでの楽曲利用もその契約によるものです。
また、埋め込みでその動画を表示する場合は制作媒体とは別契約となるため、インスタもTikTokもTwitter上での再生=埋め込みは不可能なのですが(以前のインスタはTwitter上で写真が表示されていましたが、動画投稿が可能になったのと近いタイミングでプレビューが停止された)、YouTubeのみ動画を貼り込んだ先の著作権範囲まで保証しているためTwitter上でプレビュー表示が可能になっています。
合法にこだわる場合、YouTube経由でTwitter上に音楽系動画をUPすることになりますが、多くの公式アカウントでも音楽動画を直接TwitterにでUPしています。
実は昔から法律的根拠が無い「30秒以内であれば試聴扱いとして著作権にひっかかからない」という慣例的な「30秒ルール」というものが存在しています。
裁判は前例主義のため、慣例的にこのルールが一般化されていることでトラブルの際に責任を免れる可能性が高いという認識からか、多くの公式アカウントは30秒ルールを適用している様です。
ですが、実際に裁判になった場合法律的にその慣例が優先される判断が行われるのかどうかは誰にもわかりません。
まあ、Twitterに直接動画を貼るメリットは大きいので、著作権的にはグレーゾーンでも目を瞑っている所は大きいのでしょう。

そんなこんなで、私自身は直接Twitterに動画を貼ることはありませんが、だからと言って直接貼られる方を否定している訳ではありません。
そういう色々な方がいらっしゃるからコミュニティーが盛り上がるのです!
法律のあるべき姿は悪意のあるモノを抑制・排除することであって、そうではないモノまでを規制すれば文化・コミュニティは衰退してしまいます。
とはいえ、Twitterが他SNS同様に包括契約を結んでくれれば済む話なのですけど。。。
(当初は経営が変わったのでちょっと期待していたのですが、さらに酷くなりそうな予感すら…)

ちなみに、著作権保有者であっても使用時の料金は他者と同様に発生します。
インディーズ専用のライブハウスで一部で「カバー演奏禁止」となっているのは著作権の包括契約を結んでいない為なのですが、法律上は自作曲自演であっても有観客ライブを有料で行った場合には利用料は発生します。
なんだか腑に落ちない気もしますが、著作権隣接権は著作権と別途設定されているので法律としては仕方がありません。
Content IDの「著作権申し立て」の記載時に、アーティスト本人のチャンネルでも、権利上はその他のチャンネルと同等に扱われている可能性を含めていたのはそのためです。
また、自作自演の動画でもTwitter上は他作曲動画と同じく著作権上グレーゾーンであることにかわりがありません。
ただし、包括契約で支払われた料金の分配は本当にその曲が利用されたかどうかに関わらずに行われてと思われるので(事実上調べられるはずもなく)、まあ、ヤ◯ザからいちゃもんを付けられない為に支払う「みかじめ料」に例えられてしまう訳ですね。。。

◯JASRACKの関連サイト
https://www.jasrac.or.jp/smt/news/20/ugc.html
https://www.jasrac.or.jp/info/network/pickup/movie.html

◯爆風スランプ末吉氏とJASRAC、すれ違う主張
https://toyokeizai.net/articles/-/186212


<追記>
本編にはヨーロッパの様な音楽的基盤を持たない日本のマイナス面ばかりを書いてしまったのですが、その後、希望を感じる一つの出来事がありました。
角野氏が来年6月にジョン・アダムズ「Must the Devil Have All The Good Tunes?」を日本センチュリー交響楽団とパシフィックフィルハーモニア東京で合同で演奏されるということで皆様がTweetして下さった「大阪4オーケストラ活性化協議会 2023-2024 シーズンプログラム共同記者発表会」を拝見しました。
大阪交響楽団大阪フィルハーモニー交響楽団関西フィルハーモニー管弦楽団日本センチュリー交響楽団が協力することで、クラシックを盛り上げよう!という意気込みを強く感じる記者会見でした。
そのメリットとしては、共通の学生のパスや海外からの演奏家を共同で招聘することを想定されていて…なるほど!と思える事ばかり。
そこに、日本センチュリー交響楽団首席指揮者の飯森範親マエストロが音楽監督をつとめられるパシフィックフィルハーモニア東京との関係性も加わって東京とも連携。
こういうことは本当に素晴らしい企画!
もしかしたら、それぞれのオーケストラ団体にしっかりした音楽ディレクターが不在である日本だからこそ、逆に実現可能なことなのかもしれません。
オーケストラ専属スタッフとしてのディレクターではない指揮者は、横の繋がりや活動も断然自由のはず。
一方で、スタッフとしてのディレクターより団体代表との上下関係も少ないでしょうから、より良い環境を求める際の障害は少ないかと。
逆に言えば、各者が工夫をこらしていかないとならない程の苦境でもあるという事なのでしょう。
でも、逆境だからこそ新しい時代が切り開かれる可能性がある、とも考えられ、改めて希望を感じました。

あと、「또모TOWMOO」チャンネルからはその後も複数コンテンツがアップされたのですが、本当に音楽への愛情が感じられて素晴らしい!
「【ドッキリ】角野隼斗(かてぃん)が韓国の音大模擬入試に紛れ込んでいたら…?」も、面白いだけではなく学生さんの真剣なコメントや教授の皆様のアドバイスは音楽的にも意味があることなのですから(日本のドッキリ企画って、騙すことが目的になっている為その他は皆嘘になっているし、騙し方があざと過ぎ)。
「マスタークラス with 角野隼斗 - 韓国の音大生がレッスンを受けてみた!」では専門用語の解説も所々に入れて下さっていて、すごくよくわかりました。お忙しいなか、日本語訳も随時追加して下さっていますし。。。
それから、仁川でのコンサート初日に運営上の不手際があった様ですが、翌日の釜山公演では人員をさらに3倍にして対応される等、迅速な対応をされるとのご報告(「또모TOWMOO」チャンネルコミュニティの記事)がありました。
たくさんの韓国のファンの皆様が楽しめるコンサートを目指した運営である事が伝わってきて、日本のファンとしても本当に嬉しく思いました。
ありがとうございます。

<追記2>
日本センチュリー交響楽団とパシフィックフィルハーモニア東京のアライアンスの詳細が素晴らしいので、リンクさせていただきます。


<追記3>
上記に書いていたYouTubeの著作権情報ですが、以前から予想として‥イープラスミュージックは日本の2大著作権管理団体とは管理契約を結んでいない=YouTubeとの包括契約が結ばれていないことが考える事例が散見されました。
この2023年度9/1より、かてぃんチャンネルがMCN契約されたと思われます。
今後はよりライセンスに関して安心できるようになったのではないでしょうか。
以下、Xに投稿したものです。

状況についてyukio.tさんが教えて下さったので、MCNについて調べました。UUUMみたいなYouTube専用のマネジメント経由になる事で制作に集中できる環境になるのでは。 https://tubers.app/archives/108 小声:リリース音源は通常の様な著作権包括契約がされていない不安がありましたが、たぶん改善されるのでは?(9/2)

昨日のかてぃんラボ(となぜか前回)、MCN契約されたからかライセンスが変更に。
これまで有料コンテンツの外部公開への抜け穴的リスクがありましたが、漸く一安心。ファンのSNS投稿は「お目溢し」的に許容頂いている事がより明確に。今後変わる可能性を想定内としつつ、変わらない事への感謝を
(9/7)

サークルでの投稿のため埋め込みではなく引用


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略