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「角野隼斗ピアノリサイタル at 日本武道館」における祝祭性の功罪〜疑死再生の先へ〜

※9/1 <追加リンク>末尾に記載
※8/25 <追記2>末尾に加筆
※8/24 <追記2>末尾に記載
※8/3 <追加リンク>末尾に記載
※8/2 <追記1>末尾に記載

<前置>
「角野隼斗ピアノリサイタル at 日本武道館(以下角野武道館)」で、角野隼斗氏の誕生祝いができたことを喜ばれている方にはとても不快なタイトルだと思われます。
タイトルに書いている以上、内容にも否定的な事を記していますし、その中にはファンコミュニティ(以下ファンダム)の動向も含まれている事を最初にお詫びさせて頂きます。
※このnote公開前にTikTokのご本人アカウントから「ハッピーバースデー」の動画がUP→削除された様ですが、内容は開催直後から書き続けたものなので無関係ですし、公開日も偶然です。

この時点で読まない判断をされる方は、どうぞこのままページを閉じて下さる様にお願いいたします。
また、感想も割と細かく書いていますので、放映前に他者の主観に影響を受けたくないという方はお避けください。



祝祭性に飲み込まれた芸術性


終演後、演奏はとても素晴らしかったのに、なんとも言えないモヤモヤを抱きながら退場しました。
なぜこんなに足取りが重いのか全くわからず。。。
帰宅してSNSを拝見、いいねはつけたものの自分の言葉は何も用ずに本歌取りともいえないほどの短歌しか投稿できませんでした。

翌朝多くの方のご感想を見たのですが、見るほどに息苦しさを覚えました。
この前のnoteは角野武道館前にとにかく書くだけ書いた状態だったので投稿作業を行い、午後からはYouTube配信でも見ようと思っていたのですが、どうしてもその気にはなれません。
「TOKYO TATEMONO MUSIC OF THE SPHERES」も聴けません。
時々SNSを見るほど息苦しく重苦しい気持ちになるばかりでしたが、何が原因なのか私自身にもわかっていませんでした。
この憂鬱感とPenthouseは関係がないはずなのですが、17日0時〜の「花束のような人生を君に」リリパは参加する気力がなく就寝。
翌朝SNSを見てみたら…親子の愛がテーマとのこと、感動のコメントが並んでいました。
この時点で、なぜ角野武道館の直後に重い気持ちになったのか、ひとつ目の理由がわかりました。
皆様の角野氏個人に対する「愛(エロス・アガペーともに)」が私には生々しく重すぎたという事。
Penthouseの新曲も同じ理由で聴く気力が出ませんでしたが(幼少期の親子関係を思い出したく無い)、とりあえずDL購入だけは行いました。

17日の夜になり、浪岡氏が解説をnoteに投稿されて拝見すると、内容が平常運転で少し救われました。笑

ですが、単純に「愛の生々しさ」だけが原因ではないことに気づいたのです。

この契約でカーネギーホールでのコンサートを期待されているPOSTを見たとき、「そうだ!エドワード・ロススタイン氏に角野氏の批評を書いて頂ける可能性が現実味を帯びた!!!」という、私にとっては大きな希望の光が見え、自分のモヤモヤの正体がわかりました。
「角野隼斗」という人物ではなく、表現そのものに対して評価して頂きたかったのにそれが殆ど見当たらなかったからです。
SNS投稿の内容は、角野氏へのお祝い・立ち合えた喜び・今後の活期待(願い・祈り)などで、コンサートの感想は1/4以下という印象です。
もし誕生日祝いの要素がなければ、もっと多くの方がコンサートの内容について感想を述べられていたはずです。
単にSNSに投稿するかどうかでなく、「推しのお誕生日を一緒にお祝いした!」という事が、普段のコンサートとは異なる状況に至らしめたと言えるのです。
見出しの「祝祭性に飲み込まれた芸術性」というのはそういう意味です。
(なぜ、「清原深養父」の歌が浮かんだのかも、後から自分で納得!)

そして、「角野隼斗」というアーティストの素晴らしさとお祝いを伝えるべく行われた数多くの投稿は、ファンダム外から見れば「痛い親バカ」と同じ図式になっていました。
ファンの心のこもった言葉によって角野氏の芸術は隠されてしまい、その素晴らしさを多くの方々に広げたいという想いとは裏腹に、外部の方々から避けられるほどの熱さだったと言えるでしょう。
その称賛が「人」に集中してしまったがために、結果として芸術価値を厚く覆ってしまったのです。
その状況が、私にはとても辛かった。。。
表現者と芸術表現は親と子の様な関係で、親がいなければ子は生まれませんし、子は親の影響を受けていますが、子は親から独立した存在です。
子どもが素晴らしいのに、どうして親ばかりを褒めて祝うのか、、、
これでは芸術の独立性が損なわれたと言わざるを得ません。
親子がごっちゃにされ、芸術の素晴らしさが人としての評価の下に置かれている状況が、私にはどうにも我慢がならなかったのです。
私が好きなのは(愛を持っているのは)角野氏が表現する芸術で、人ではありません。
もちろん人として角野氏が嫌いという事でもありませんが、これらの対象への意識は異なるものなのです。

直後に発表された公式レポートも更に私を落胆させました。e+アーティスト界隈の「内輪受け」になっていたからです。
アニバーサリーとしての話題性が大きいからこそ、本来はその内容・価値をしっかり記述できる方に書いていただきたかったのに…
wowwowの放映告知との関係もあり直ぐにレポートに起こせる方を人選されたのかもしれません。
とはいえ、この内輪受けのレポートとロススタイン氏の評との違いを考えたことが、自分の気持ちに気づくきっかけになったともいえます。

また、私が終演直後からモヤモヤしたのは、アンコールで「鼻を啜る音」があちこちから聞こえてきていて、私には「感動の自己陶酔アピール」に感じられてしまったのです(意地悪い見方ですみません)。
他のどなたかが投稿されていましたが、演奏中は咳も抑えようとされている方ばかりでしたし、そのつもりであれば音を立てない様に泣くことはできたはずなのです。
ですが、それもある意味では当然のこと。
美空ひばりの「お祭りマンボ」の歌詞にある様に、祭りは非日常であるばかりではなく、参加者に能動的な関わりを求めます。
逆に言えば、能動的関わりがなければ祭として成立しません。
祝祭の感動は増幅されるだけでなく、参加者を陶酔させ能動的な表現としてそれを解放させるものなのです。
自分の感動を自ら表現する事が、祝祭の場としては相応しいのです。
頭ではわかっているのですが、どうしても受け入れられない感覚と「ファンとして喜ばなければいけない」という固定観念が、SNSで「いいね」をつけさせ、さらに自分を苦しめました。

私はこのnoteで何度も芸術観賞は「主観」で行われるものだと書いていますが、音楽の専門に近い方ほど「主観」からの観賞視点が欠けている様に思われるのに対し、角野氏のファンの皆様は広義の芸術作品を観るスタンスで音楽を鑑賞されている方が多く、皆様のご感想を読む事がとても好きでした。
角野氏は音楽大学に行かれていない分、クラシック音楽でありながらも日本のアカデミックな文脈にある「正しい一つの答え」から自由だと感じられます。
一方で、かてぃんラボ(有料会員コンテンツ)ではその音楽の背景など知識の教示もされているので、決して知識や客観性を蔑ろにされている訳ではありません。
その角野氏のスタンスは、そのままファンの皆様の鑑賞スタイルに直結していました。

「クラシック音楽鑑賞の初心者向方法論〜」の「鑑賞マトリックス」で説明するのが分かりやすいので、一部改変して再掲します。

クラシック音楽鑑賞の初心者向方法論と芸術鑑賞の指標化〜東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団第352回定期演奏会より〜の「鑑賞マトリックス」改変版

上記の図の上半分「自己の情動的同調度」というのが、主観や感情を起点とした部分で、下半分は客観や知識を起点としています。
この図は20年程前から考えていたものなので、最近頻繁に書いているSNS時代における「ナラティブ」を反映させると「共感的受容」に該当します。
前述したように、角野氏ファンの皆様は知識も取り入れ主観的なスタンスで鑑賞されるので、クラシック専門の方よりも広義の芸術枠でみれば適正なバランスで観賞されていたと思っています(仮にバランスが同じでも主観の要素がある以上鑑賞内容は千差万別)。
ところが、「共感的受容」が「角野隼斗氏のお誕生日のを祝った喜び」で一杯になるとどうなるか。。。
ひとつは共感性がキャパオーバーに至ることで他へのリソースが割けなくなります。
もう一つは、対象が「人」になってしまう事で下段の客観的視点の対象である本来の「音楽」からは外れてしまうのです。
(全員がそうなるという意味ではなく、比率が多くなるという意味)
これが「祝祭性に飲み込まれた芸術性」ということです。
実際に数日経ったnoteやSNSの投稿でもコンサートの内容に言及されるものは少なく、「余韻が大きすぎる‥」「ロスが大きい‥」というポストが多数を占め、まさに「祭りの後」という状況でした。

ちなみに、前回のnote「ナラティブなアンソロジー〜」で1日目と2日目の鑑賞の違いは、1日目は右寄り=共感度が高かったのに対し、2日目は左寄り=直観が強くなったという事なのですが、下段に書いた様に本来の直観とは新鮮度・刺激の座標に関連します。
抽象化は本来取捨選択の抽出で行われるのですが、その「抽象」とは異なるよくわからない「記号以前の元要素に戻るような抽象化」が発生していると感じられたので、「還元」を用いました。
いずれはこのマトリックスも別次元の要素を加え3D化しないといけない気がしますが、現時点ではそこまで私の頭では整理できていません。

私のいたたまれない感情を先に書いてしまったので、「功罪」の「罪」が先になってしまいましたが、祝祭性には当然「功」としての効果もあります。
そもそも、コンサートを鑑賞するという行為自体に非日常性の祝祭性は含まれますし、特に音楽フェスはまさにお祭りで、観客も能動的に参加することでより楽しみが増す仕組みになっています。
今回は特別に友人や親子で鑑賞された方も多かったと思われますが、普段クラシック音楽を聴かない方であっても、この武道館が丸ごと盛り上がる効果によって大いに楽しめたのではないでしょうか。まさに祝祭の大きな「功」です。

また、角野氏のYouTubeから始まった表現性は、鑑賞者を一方的な観者・受容者にさせない(能動的な)双方向のコミュニケーションを促すもので、その結果がファンダムにも現れています。
この時点で、実は祝祭の場に近いものが形成されていると言えるかもしれません。
実際にラボや配信が告知された時の盛り上がりは、それだけでお祭りの様ですし、角野武道館の即興がYouTubeで生配信が直前に知らされ、会場の人も遠方でご覧になっている方も差がなく参加できる「場」を当然の様に楽しめる事は、一方向型の鑑賞ではない能動的参加要素を促す祝祭要素を多分に含んだ場が、すでに形成されていたとも考えられるのです。
そこに角野氏個人の私的祝祭性が持ち込まれたため「過ぎたるは及ばざるがごとし」に至った、というのが私の個人的見解です。
もし、単純に「武道館初ソロリサイタル」という程度のお祭り感だったら、結果はもう少し違っていたのではないかとも思うのです。

誤解して頂きたくないのは、芸術優先で鑑賞すべきだとは決して思っていない事です。
「角野隼斗」という私人の祝祭性を際立たせた演出の結果、芸術が飲み込まれたという事を書いているに過ぎず、この状況下において無理に芸術主体の鑑賞をすべきと言っているのではありません。
私が芸術本位で鑑賞するのはそれしかできないだけで、多くのファンの方もご自身なりの鑑賞しかできないはずです。
また、ファンダム外には痛い投稿で埋まったとしても、ファンは気にする事なくご自身の愛を呟くべきです。
もし、ファン自らが外部からみられるバランスを考え始めたら、その時点で自由なコミュニティではなくなってしまうからです。
(私が応援的投稿を好まないのは、将来の方向性に影響を与える事も含めた自由の制限に感じられる為)
周囲からどう捉えられるかはファンが考える事ではないですし(著作権上グレーな場合は注意が必要ですが)、私が皆様の投稿を見て苦しかったのは、共感しなければならないと思いながらできなかったからです。

つまり、「人」として角野氏をお好きな皆様の投稿の自由が保証されていると同様に、角野氏の芸術が好きな私の自由な投稿も保証されている、ということでもあります。
いちファンとしてはさすがにこの内容をSNSには投稿しませんが、人目につかないこのnoteでは、書きたい事を自由に書かせて頂きました。
ただし、本来はその音楽の表現性にもしっかり焦点を当てるべき公式レポートが、エンタメアイドル同様に祝祭性を煽るものであった事には落胆しかありませんでした。
日本におけるクラシック音楽という芸術が、「保守的な価値観に埋もれた状態」と「エンタメ同様のアイドル的なキャラ推し」の二択になっている現状を物語っているのかもしれません。

ちなみに、この部分を書いた後に朝日新聞吉田純子氏の記事が発表されたのですが、それは次の項に記載しています。


角野武道館の感想


9/1にwowowでの放送が予定されているので、避けたいと思われる方は一旦目次に戻ってから次の項をお読みください。
実際の感想の前に、緩衝エリアとして朝日新聞記事への私見を置いておきます。
この日の演目はプログラムのPDFデータとともに公開されています。

<朝日新聞吉田純子氏の記事について>
実は冒頭のショパン3曲に全く感動できず、それを正直に書くべきか迷っていました。
ファンとしてマイナス的評価を記すことへの迷いだけではなく、どうしてそう感じたのか自分でもわからなかったからです。
それが説明できなければ、アンチの方が個人的印象で角野氏の演奏を否定している事と同じですから。
そんななか、7/21に朝日新聞デジタル有料記事「(日曜に想う)静寂なき時代、芸術家たちの葛藤 編集委員・吉田純子」が発表され、FFさんが投稿で皆様にプレゼントシェアして下さいました。
ここに書かれている事、特に前半3曲のショパンへは低評価だと思われる内容は、私が感じたものとほぼ同じでした。
注意深く書かれている文章のため、サラッと読むと好意的に感じられますが、角野氏の言葉の多くに対しては反語や皮肉になっています。
前項に書いた様に、公式レポートが内輪受け記事になっていた事に落胆していた中、クラシック音楽の専門分野から愛情をもってしっかり書いてくださった事に安心しました。

吉田氏が皮肉をもって「静寂なき時代」とタイトルにされた事には、まさに!と感じました。
角野武道館の象徴的出来事としてご自身が直後のポストで取り上げていた「静寂」、たしかに拍手が起きるタイミングは通常より間があり余韻を感じたものの、ファンの皆様の感動アピール(鼻を啜る音)はあちこちから聴こえていたので、私には静寂には思えませんでした。
もっと言うと、少し長めの余韻をナチュラルに味わっていたのに、特別感を「静寂」に象徴させた角野氏のポストによって「そこまで言われるほど特別な静寂?」と、興醒めしてしまったのです。
(「静寂」については追記2で解釈し直しています)
また、タイトルの「静寂なき時代」は、芸術家がセンセーショナルに語られた古い時代とともにファンがそれぞれ発言可能な現在までも含めたアイロニーでしょうね。。。
(全て、表に書かれている意味と裏読みできる意味とで二重構造になっていて、裏読みの内容は角野武道館に直結する)

「ショパン〜心に届いただろうか」とありましたが、この後は「いや届いてはいないだろう」という反語が省略されていると考えられます。
そう、まさしく私の心には届いていませんでした。
また、他の方の言葉を借りて「ドン・キホーテ」と記されていましたが、金子先生が「リストやショパンはお手のもの」と書かれていたことに私はショックを受けており‥「裸の王様」が頭をよぎった程です。
「恍惚」という言葉も、私が「陶酔」と書いた事とほぼ同じでしょう。
吉田氏はこれを政治の問題と絡めて書かれていますが、ある一定以上の年齢だと、音楽が持つ「同期力」を政治利用した記憶と直結するのでしょう。
角野氏が意図したものではなかったとしても、「私人としての祝祭に音楽の同期力を用いた」という図式になってしまったのが角野武道館です。
坂本龍一氏はそこに意図があるかどうかではなく、結果としてであっても音楽の同期力が他に利用されるのを絶対に拒否されていました(詳細は「私観:二項対立を超えた〜」)。
芸術としての音楽は、個人の主観においてのみ個別に同期・共有されるはずのものですが、「角野隼斗ファン」という共同体において、誕生日という祝祭性を帯びたことでより、強固な同期・共有が成立してしまった訳です。
吉田氏はその「純粋な音楽ではない共感からの賛美」に対して「謙虚にイメージできるか」と書かれたと思われるのですが、普段から無条件に角野氏の全人格を丸ごと称賛していますので、今更あの程度で謙虚さを失うとは思っていません。

また、私人としての誕生日を利用した演出は「私的でありのまま」ではないという意味で、あえてアップライトプロジェクトのコンセプトを思い出させる様な誘導も行われています。
吉田氏のお陰で私が何を感じ何が受け入れられなかったのかも整理できました。
感想は否定的な部分も感動した部分もそのまま素直に書かせて頂くことにしました。
また、スクリーンの画像は音よりも遅れて表示され、モノキュラーでのぞくと今度は実像よりも音が遅れて感じられたので(音と光の進行速度の違いなのかスピーカーを通したためなのかは不明)、ほとんど聴く専門で視覚は「ボーッと眺める」にとどめていました。

<ショパン:スケルツォ 第1番/ワルツ第14番/エチュード第11番>
いよいよ開演となり、角野氏が北側の通路から歩いてこられたのですが…
ええええ?と目を疑いました。
いつもの優雅な歩き方ではなく、前屈みでガツガツしていて…まるでゴリラの様な歩き方だったのです(言葉が悪くてすみません)。
これはちょっと嫌な予感がする…と思いながら始まった「スケルツォ 第1番」は案の定、気負いと緊張が大きいのかミスタッチがとても気になりました。
私は普段ミスタッチはほとんど気にならない質です。
クラシック音楽に馴染みが無いので正しい音を聴き分けられていないという事もありますが、それだけではありません。
演奏時に曲に没入すると技術的コントロールが弱くなる場合がありますが、そういう時は表現性の素晴らしさが優るので、全く気にならないのです。
ところが今回、「練習不足かも‥」と思われる様なミスタッチに感じられました。
素人が技術不足でその音を弾くのに精一杯、不均一で指がもつれているのと同様の質感に感じられたからです。
翌週の「TOKYO TATEMONO MUSIC OF THE SPHERES」では7月に入るまで曲目が決まらなかったというお話がありましたが、他の曲との完成度を考えると、冒頭のショパン3曲が最後に決まったのではないかと思ってしまいます。
それでも「ワルツ第14番」は、角野氏らしい軽やかな揺らぎが感じられ、繰り返しによる表現の違い、特に2回目の変化自体が美しかったです(表現として同じ部分と異なる部分の絶妙さ)。
「エチュード第11番」は、ドラマチックになり過ぎない所がやはり角野氏らしい。
が、これまで聴いていたショパンに比べると全く心に響いてくるものがなく、私は一体このことをどう考えれば良いのか困惑しました。
最近聴いている現代音楽寄りの曲が断然自分の好み過ぎたので、ショパンだと満足できない=私はショパンが好きではないのかも…というのがその時点で出した結論だったのです。

吉田氏の記事にはPAについて「自ら奏でている〜生音がきこえづらくなる」と記載があり、クラシックにおけるPAの是非を問うたものだと捉えていた方々が多かった様ですが、私は少し違う考え方です。
休憩になった時に友人と最初に話した言葉が「音が悪かったから‥」でしたが、音響の類の音の悪さとは質が違う印象だったのです。
自分の違和感の原因がわかったのは、終演後にフルコンではないご自身のピアノを使われていたと皆様のPOSTで知ってからです(八角形の床の形から、ピアノが斜めで短く見えるのか実際に短いのかの判別が付かなかった)。
このご自身のピアノでは、「チャイコフスキー:ピアノ協奏曲1番」の頃に獲得したと思われる幅広いダイナミックレンジを表現できない「楽器としての限界」があったと考えられたのです。
音が限界に達し潰されてしまい、それが表現に悪い影響を与えている様に感じられましたから。
このピアノではもう追いつかないほどに角野氏の表現・技術の幅が広がったと考えられる一方で、本来はピアノの特性や曲に合わせて最適な表現をされていたのに冒頭のショパンではそれが行われなかった、とも考えられます。
私はファンなので前者の比重が大きいかったのですが、吉田氏の記事を見た時、後者でお考えになったのか…と感じました。
吉田氏は、従来の自身の音に対する繊細な反応がなかった理由をPAによるものとお考えになった様ですが、私はピアノがフルコンではなかった為に起きたのではないか、と考えました。
この問題をPAに終始させることは、吉田氏が問題提起された「演奏時のフィードバックが最適化されていない」という本質が抜け落ちてしまいます。
逆に言えば、その問題を拾うことができていれば原因はどうでも良いとも言えるでしょう。
後半に対して「ショパンの協奏曲の緩徐楽章が見え隠れ」「ほっとする」書かれていますが、もし全体的にPAを問題視されたのであれば、そうは書かれないと思われますので。

<モーツァルト/角野隼斗:24の調によるトルコ行進曲変奏曲>
転調の説明がビジュアルで編集されたYouTube動画が武道館直前に公開されています。
この日も照明のカラーリングで調性が記されていましたが、演奏の鑑賞には説明としての色分けは不要に感じられました。
もう、この曲の転調はこの作品・演奏の素晴らしさを感じる為の条件にはなっていないのです。
以前、「エンター・ザ・ミュージック」戴冠式のお話で、モーツァルトの曲はわからないけれど自然に転調している所が多いという様な話がありました(録画を確認した訳ではないので不確か)が、そういう類です。
一曲としての音楽そのものが自然に変化する色の様に美しいというだけなのです。
特に黄緑からオレンジにかけて、その色が持つ温かみのあるイメージともに幸福感に満たされました。
言語説明が難しいものを視覚で補う思考癖がある者としては、最初にこのYouTubeを観た際、一重の色相環ではメジャーとマイナーの区別と隣接する色の判別性が悪いので二重の方が良いのではないかと思ってしまいました。
(注:色要素は色相だけでなく彩度や明度との組み合わせもあるので、メジャーとマイナーとの関係は彩度や明度との関わりで構成することも考えられる)
武道館ではライティングで表示するため色認識も更に悪くなる訳ですが、それが逆にとても良かった事に気づいたのです。
メジャーもフラットも同等で、隣接する調の違いは目視ではわかりづらい状態が、調性変化というテーマ(音楽そのものとはメタ次元にある)が音楽の素晴らしさとは独立していることを感じさせます。
一方で、調性にもともとイメージをお持ちの方にとってはそれが鑑賞に面白い影響を与えるでしょうし、共感覚をお持ちになっている方にとっては、また別の表現として感じられるかもしれません。
「ヒンデミット:ウェーバーの主題による交響的変容」が、ウェーバーの主題を知らなくても楽しめるのと同様というか、広義の芸術の様な構造がそのまま提示されているとも言えるでしょう。
「24調という編曲(構築時の)テーマ」を知らなくても、一曲として本当に素晴らしいと感じられる所が、これまでYouTubeにUPされている動画とは異なるのです。
「バースデー変奏曲」や「きらきら星変奏曲」は、やはりアイデアの面白さが優っていると感じられてしまいますから(とはいえ、この2曲も今演奏されたら美しく一つの曲として聴こえてくるはず)。
この演奏前のMCでは「自分にとっても忘れられない日」「皆にとっても忘れられない日になったら良い」「今までの歩みを出し切る今日」という様なお話もあったので、中央で光に囲まれた演奏姿は、まさに祝祭にふさわしい寿ぎに感じられました。

<リスト:ハンガリー狂詩曲 第2番(カデンツァ 角野隼斗版)>
同じ曲がYouTubeにUpされているのですが、いや〜〜〜全てが別物・別次元という感じがしました。
アンケートに好きな曲を1つ書く項目があったのですが、私はこの「ハンガリー狂詩曲 」にしたほどです。
最初のタターンの音から本当に素晴らしく、音としての均一性がありながら個々のアクセントが感じられ、音そのものの魅力に溢れていました。
かと思ったら、くぐもった音になりペーソスを感じる表現になり、一方的に盛り上がるドラマティックさとは異なります。
テーマのメロディ(?)が軽い表現に変わる所、ジャズやシャンソンとまではいかないものの、会話っぽい洒落な質感に。
長いトリルは全くしつこさがなく、自然に感じられるのが本当に不思議。
直後、弱音からの優しく美しい響きはグランドピアノなのにアップライトで演奏されるようで、真綿の中に包まれたような響きが武道館中に広がっていきました(YouTubeで同じ所を聴き直してみましたが、本当に別物)。

The fast sectionに変わりテンポアップする所、本来なら盛り上がるはずなのに醒めた質感のまま圧だけがかかっていく感じが好みすぎる!笑
間合いや音の質感は、これまで聴いている解釈と逆とまでは言わないまでもことごとく定型を外している感じがしました。
が、あえて外している様なあざとさは一切なく、「うわ〜〜初めて聴いた感覚」「えええ〜?これってアリ?」みたいな驚きと生理的な心地良さに溢れているのです。
そして大きく転調した時の間合い!軽やかさ!最高でした。

やがてブラウンのタオルによる内部奏法を披露されたカデンツァ。
途中、ラテン系になったり、バチで低音を叩かれたり…ピアノの弦を鳴らすあらゆる音の可能性をイノセントな表現とされていました。
喜びに溢れていて言葉を失うほどに本当に楽しく素晴らしかった!

以前ご自身のピアノの内部奏法で使われていたタオルなので、この時点で多くの方が「鍵盤ランドのピアノ」とお気付きだった様ですが、実は私は全く気づいていませんでした。
タオルなら手油で弦が錆びる心配が無い=普通にスタインウェイのピアノでも許可が降りた、と思っていたのです。
というのも、小曽根氏のコンサートでは2回スタインウェイによる内部奏法を見ていますし、坂本氏のコンサート放映でもやはり2回スタインウェイでの内部奏法を見ているので、「絶対ダメ」ではないと思っていたからです。
内部奏法の一番の問題は手油だと思われるので、それを回避する前提で他のピアノでも演奏機会が増えることを期待しています。

<角野隼斗:Human Universe>
この曲にちなみ、宇宙についての話がMCでありましたが、それは後述するので省略します。
暗く静かな会場にカツカツという硬質な音、バロック調のメロディが響きます。
装飾音とメロディとの区別がつかないタララという所、静かな夜に瞬く星の輝きと闇に消える儚さで、グランドピアノですがアップライト的な内なる宇宙に向かうイメージ。
そこからミラーボールの輝きとともに一気にこの世界が無限に広がる宇宙になりました。
この部分の低音のズンズンしたドライブ感は「Reimagine」での荘厳さとは異なり、その広い世界の中で営まれているあらゆる「生命の力」を感じました。(たぶん、よりミニマル的な質感表現になったのだと思われます)
音楽も静かになり照明も暗くなると、一つの宇宙・その歴史が閉じられた様な感じがしました。
新しい宇宙がまた別のどこかで誕生する兆しを残して。。。

ここで第一部が終了し、休憩になりました。
休憩中は他の皆様がポストされていた様に、YouTubeへのQRコードがモニターに表示され、武道館にいらっしゃらない方々と同じく角野氏のYouTubeライブ(=即興演奏)が楽しめるという訳です。
これは本当に素晴らしい演出です!
当然休憩中にQRコードにアクセスしたのですが、MCでもあった様につながりませんでした。笑
また、この休憩中にアップライトピアノとシンセサイザーが舞台に持ち込まれ、角野氏の日本のスタジオ「鍵盤ランド」が再現されました。

<即興(YouTube同時配信)>
期間限定ということになっていますが、現在はまだ公開されているので、こちらに貼っておきます。

入場される際、トイピアノを抱えて出てこられましたが、その歩き方はいつものナチュラルなものに戻っていてホッとしました。
冒頭、YouTubeでもトイピアノを演奏れている「3分間クッキング」。
実はオオ!と思ってしまいました。
これまでとは異なる「トイピアノらしさ」を感じる演奏で、ピアノに施す様な強弱表現がYouTube公開時よりも感じられず、演奏としては逆に下手に感じられる類の演奏なのです。
でも、それがジョン・ケージやマーガレット・レン・タン氏が「音楽の多様性として提示したトイピアノ」の「トイ」としての概念です。
(これまでのKAWAIのトイピアノだと強弱表現も多少可能な製品ですが、この黒いトイピアノは音も本来の鉄琴的なものに近い気がします。アンティークや海外製の可能性も? 後述のWOWOW放送で確認したところKAWAIの新しいトイピアノでした)

それ以降も、今までのYouTubeライブで感じていた様な感覚とは全くことなりました。
今回の感想では繰り返しになるのですが、様々な曲が用いられていたとしても、それが何の曲なのかが全く気にならないのです。
以前は「コレって聴いたことがある、何だったかしら…」みたいなことが頭をよぎり、わからないとモヤモヤしてしまうのでチャットは必ず見ていたのです。
この時はもう、何の曲なのかそれがわかってもわからなくても、ただ美しかったり楽しかったり、それで十分に感じられました。
あえて気になった所を書くとしたら、「亡き女王〜」は録音とは異なり開かれた明るい印象だったこと。
カプースチン「トッカティーナ]は軽やかなパルス感がより強調されていたとか、最後の「胎動」も、出だしのつながりはもう別の曲のようです。
そして最後、曲が終わった後に一音ボンと強く弾かれたのが、能の「打切り」みたいで、おお!と思ってしまいました。
今までも似たようなことをされていたのですが、もっと弱かったりタイミング的に異なったりしていて「打切り感」はなかったのですよね。笑

<角野隼斗:追憶>
「追憶」がまさかのシンセ!
水の様なパイプオルガンの様な…シンセサイザーとして考えるととても有機的で温かみを感じる音です。
(どうやら、YMOが使われていた古い時代のアナログシンセサイザーの再販機らしいです)
この曲はアップライトピアノという印象が強いですが、この時はグランドピアノも使用されていました。
だからなのかわかりませんが、より開かれた自然や宇宙という印象で、Human Universeの歴史書の続きではないですが、人類が見た過去を走馬灯のように思い出すかのような印象を持ちました。
最後は赤い光とともにシンセの微かに感じられる響きが本当に美しく感じられました。

<角野隼斗:3つのノクターン>
英語が全くわからないので、音楽を聴く前にタイトルの意味(ニュアンス)を確認できなかったのがとても残念でした。
「雨」「夜明け」「月」という対照の違いもさることながら、「前」「後」「一度だけ」という時間感覚の違いも音楽的表現とされているはずですが、それを意識して味わうことができなかったので。

「Ⅰ.Pre Rain」は鐘の音のような、そのまま聴いていたら寝てしまう子守唄の様な心地よい質感。
日本的な印象もありますし、誰か目の前にいる人に向けて演奏されている様な存在性を感じました。
その存在性が「雨の前」というタイトルの「未然形」としてニュアンスを伝えているとでも言えば良いでしょうか。
音楽としての記憶は一切なく、ただその時の印象を書いています。

「Ⅱ. After Dawn」
この曲を聴くのは3回目ですが、聴くたびにシンプルに削ぎ落とされてきます。
当初、坂本氏とハニャ・ラニ氏の影響が色濃かった印象でしたが、ようやく本来の姿が見えてきた気がしました。
やはり、私はかてぃんピアノより、このアップライトの音の方が好きだと思ってしまいます。
この曲の質感が特別に感じられるのは、こもった響きの中に感じられる芯のある音と、分散和音が水の流れを表現するのと同時に、単なる伴奏とは異なるある種のオブリガートのようなメロティとして印象深く感んじられるからです。
しかも、それぞれが全体で制御され重なりながら独立性を感じるバランスで、この質感こそがまさに角野氏のオリジナリティだと思います。

「Ⅲ. Once in A Blue Moon」
暗い空を見上げている感じがして、たまたま視界の遠くに会場消化器の赤い丸が見えていたのですが、それが「赤い月」の様でした。
タイトルはブルームーンなのですけど…笑
どうやら抽象的鑑賞に沈んでいたらしく、ポーッと光っている赤い光とその景色にピッタリだった美しい音楽というイメージだけが残っています。

<ラヴェル(⾓野隼⽃編曲):ボレロ>
「KEYS」の時よりも音が包まれているようなアップライトの打鍵音で始まりました。
グランドピアノへの移動も無理なくスムーズで、「間合いを置くことで移動時間を確保した」という様な技術的視点は不要に感じられるナチュラルさです。
というのも、アップライトでの打鍵の均一感はサントリーほどではないものの少し戻ってきていて(その均一感が移動時の違和感を大きくした)、グランドピアノで躍動感が高まる表現の中で美しく自然にその間が吸収されていたからです。
シンセサイザーのホーンの様な音も温かみが感じられてとても素敵でした。
やがて、バチを用いて内部奏法をされた途端、ものすごいオリジナリティ溢れた編曲ボレロに!!!!
こ、これは凄い!としか言いようがありません。。。
たぶん、オリジナルとは異なる転調もされているのではないかと思いますが、とにかく全く別の曲に感じられる大胆さ。
「KEYS」の時はアコースティックな鍵盤楽器で演奏されていましたが、なるほど、そういうこだわりは全て必要無いなあ…と、心からそう思いました。
曲のオリジナルに近い演奏に戻ると、最後には割と早いスピードでステージが回転してビックリ!
あれで演奏できるのも凄い過ぎる。笑
角野氏の演奏が本当に自由になった!と感じられる素晴らしい演奏でした。
大喝采のなか会場が明るくなり、ここで一度退席。

<アンコール J.S.バッハ:主よ、人の望みの喜びよ>
白いTシャツでご登場。
アップライトやシンセなどを触られ、最初は即興か何かかと思ったら…
やがて「主よ、人の望みの喜びよ」が聴こえてきました。
人間は、ただそこにいあるだけの存在、それだけで尊いということがヒシヒシと感じられました。
静かなや優しいピアノの音色からは、人々が生きてきた悠久の時間と生命そのもの尊さが感じられたのです。
最後はとても静かに終わっていきました。
私の周りでは感動で啜り泣く方も。。。

しばらくの間の後に、お礼の挨拶や音楽家になろうとした決心の話、コロナ禍でコンサートができなかった時のことなど。
「いつも楽しんでくれているお陰」「一年・半年自分の想像しない世界が拓けている」「面白いと思ってもらえるように‥」「ついてきてください」
という様なMCでした。
この時に鼻を啜る方の音を聴いたのですが、皆様、すごく感動されているのだな…というだけしか思いませんでした。

<ハッピーバースデーの合唱>
どなたが、タイミング良く「お誕生日おめでとう!」と大きな声でおっしゃったのをきっかけに、角野氏のピアノの演奏で「ハッピーバースデー」の合唱となりました。
前項で書いたこととは異なり、この時は普通にファンとして私も小さい声で歌いました。
でも、それは普通のお祝いとしてで、後々に他のファンの方とは分断を感じることになるわけです。

<ショパン:ポロネーズ 「英雄」>
演奏が始まると、またもや鼻を啜る音がして、さらに強まっていく感じがしました。。。
演奏はハッピーバースデーの後だからなのか、高揚感・幸福感に満ち溢れていました。
勿体ぶった感じも一切なく(他の方の演奏で余り好きでは無い部分)、盛り上がりも仰々しくなく、間合いはたっぷりしていて、まさに「自然に美しい緩急」が全てこの中に存在していたと思います。
ただ、これまでとは異なるアクセントやタイミングなども感じられ、角野氏ならではの「即興的」な表現を随所に感じました。
最後は武道館のラストにふさわしい王道感と解放感でした。

ちなみに、立体音響については全く気づきませんでした。

9/1のwowowの放映時には、当日に比べ祝祭性から自由になった皆様のご感想が拝見できると思われるので、今はそれを楽しみにしたいと思います。

<退場時>
曲の感想ではないのですが、このままだと何故最初に書いた感情に至るのかがつながらないので、その部分だけ少し。
規制退場なので時間を持て余し気味だったのですが、周りの方々のお話ぶりやその表情からは恍惚感が溢れていていました。
それがちょっと尋常では無いというか、、、
自分はそんな風に陶酔できない…という疎外感が感じられ、退出してからXなどを見ると、ほとんどお誕生日の事や「ハッピーバースデー」を歌ったことばかり。
22時頃自分がポストした時は、どうしてモヤモヤしているのかはわかっていませんでしたが、23時の角野氏の投稿には「え?」という感じで批判的にしか捉えらなかったのです。


概念やカテゴリーを超えた先、あるいはその発生の前へ


<私人としての「疑死再生」を解釈してみる>

祝祭性の問題は、当然ながら角野氏の演奏にも影響を与えていたはずです。
ただし、プロデュースを行った側の問題として考えれば、祝祭性は一部の問題に過ぎません。
聴衆は全面的にディレクションされた祝祭性の影響下にありますが、プロデュース側は祝祭性をテーマに据える段階での判断まで問われるからです。

開催日が「誕生日」に設定された時点でコンサートは祝祭性を帯びるものになりますが、誕生日の再生概念からコンセプトが導かれたのか、コンセプトの「解体と再出発」から誕生日の開催が設定されたのかはわかりません。
ただ、この二つは切り離せない関係にあります。
「角野隼斗全国ツアー2024 “KEYS” 〜」 のnoteで自分が「擬死再生」いついて書いておきながらナンですが、それは「KEYSツアー」途中の演奏を受け入れる為に私がその概念を必要としたからであって、ツアーの最終公演ではもう見事に再生を果たしていたと思っています。
武道館でワクワクしながらこのプログラムを開いた時、「なぜ今になって解体と再出発?」と感じた違和感を、どう説明すれば良いのかわかりません。

冒頭のショパン3曲が小学生時代から演奏していた曲で、それを再生させるという意味で選ばれたのであれば、コンセプト負けという印象にしか感じられないのです。
その演奏そのものからは「再出発」の意義が感じられなかったからです。
角野氏はこの武道館で本当にこのショパンの曲が弾きたかったのでしょうか?
「解体と再出発」というコンセプトを具現化する道具としての「小学生の頃から弾いていたショパン」になってはいなかったでしょうか?
角野氏の演奏の中で私が最も好きな、内側から生じる演奏への衝動は感じられませんでしたから。

これまで角野氏の表現から「机上の空論」という事態を感じなかったのは、どれほど意義深い概念が設定されていようとも、その曲への無垢なる衝動を第一に演奏されていたからだと思っているのです。
概念とその曲の存在を比較した場合には、概念よりもその曲への敬意が払われていると感じられました。
ですが今回、ショパンへの敬意は設定したコンセプト(=自己の祝祭性)より低く置かれていた様に感じました。
利便性のために行われたカテゴライズがその内容に影響を与えてしまったように、今回の祝祭として設定されたコンセプトがコンサート内容・表現に影響を与えてしまった印象は否めませんでした。
さらには、誕生日としての主体が個人としての存在に設定されてしまった事が、音楽表現とは異なる気負いと角野氏自身の自己陶酔を招いた様にも思っています。

プログラムの挨拶文、読めば読むほど主語がわかりません。
「解体と再出発」の「解体」は人物には使用しない一方「再出発」は音楽表現には使用しません。
「それらをもう一度解釈し直して」の「それら」は何をさしているのでしょうか。
言葉通りに受け取ると「音楽表現を解体し自分は再出発する」という意味になるのですが、最近の音楽表現の充実度から考えれば、今更「疑死再生」のコンセプトは不要な段階にあると感じられます。
だとすると、「解体」とは、ご自身のアイデンティティを指す可能性が高くなります。
なぜなら、これまで角野氏にあっただろう美意識・センスに反する割り切りの様なものが「ついてきてください」というMCから感じられたからです。

私が武道館でこの言葉を聞た時、鑑賞者としての立場からしか考えられず、「わざわざその言葉を発したからには、心地良い鑑賞に身を任せているだけでは付いていけなくなる」と、背筋が伸びる気がしました(後述していますが、トイピアノの扱い方にもジョン・ケージ的な前衛要素が感じられた事も含め)。
一方、SNSでは「ファンへのプロポーズ」「音楽家としての自信・自覚ができた(成長した)」と盛り上がるばかりで、鑑賞側の問題を考えていらっしゃる方は皆無でした。
角野氏がファンに直接(<顔>が見える関係性として)呼びかけることは、それによって脱落するかもしれないファンを留めようとしている訳です。
角野氏が難しい表現に向かう可能性とそれを理解するためにファンの成長を求めているという事が本意なのではないでしょうか。

これから書くことは、noteを書きながら角野氏の挨拶文やコンセプトを過去の事例や演奏とともに解釈したもので、あくまでも想像のレベルでしかありませんので、会場で感じたこととも少し異なります。
これまでラボでは「アイドルではない」「音楽は自由に感じてほしい」など、音楽家としての芸術表現を評価されたいという美意識とプライドが感じられるものでした。
その一方で「カッコよく思われたい」という青年特有の自意識との矛盾も感じられましたが、それをクラシック音楽の人気・普及に転化させる事で矛盾を回避されていました。
そこに最も強く現れていたのは、美意識に対するプライドで、演奏の完成度にも大きな影響を与えていたと思われます。
しかも「ついてきてください」という言葉は、ファンを共同体として囲い込む実行力をもっています。
これまで、縛られることを厭い自由なアクションを大切にしていると思われるので、心理的縛りが発生するかもしれない共同体の構築は通常の成長過程の先にあるとは思えないのです。
角野氏のセンスから考えると、「大人の事情を理解する」「自信がついた」という次元で簡単に口にできるようなものではないと考えられるのです。しかも懇願・依頼です。
自己の美意識・アイデンティティを否定してまでも「再出発」を行う覚悟と、その必要性があったことが考えられます。
これまでのご自身の支えとして存在した美意識を飲み込んででも、これから歩み続けるための通過儀礼を必要とするならば、誕生日に伴う「疑死再生」は最も相応しいと言えるでしょう。

そして、なんともいえない嫌な違和感の正体もわかりました。
音楽家・プロデューサーとしての角野氏が、私人としての自分を身売りしている「芸術家としては禁じ手」を使った様に感じられていたのです。
そういう「人生の一大事」を、コンサートの演出素材として盛り上げに利用した事への違和感です。
私がこれを感じたのは二回目ですが、一回目とは異なり、今回は自覚の上で行われただろうと考えられます。
その志・理想に対して必要なこと、清濁飲み込んだ上での決断として。
だからこそ自虐的な印象を受けたのです。

これらの解釈を前提とした場合、冒頭の「ショパン」はその「疑死」を自身の体験とするためのものとも考えられます。
成長を果たした現在地から過去の表現を再構築・再定義したクオリティには感じられず、本来の角野氏だったら「恥ずかしい」と考えるような不完全な表現だと感じられたからです(「チャイコン1番の時の様な進歩を前提とした未完成ではない)。
あえて自虐的にそのまま曝け出すことに「疑死」としての意味が込められているのではないか、という考え方です(あくまでも「考え方」であり仮説・想像)。
7月に入ってまで演目が決まらなかったということが不完全な表現に至る原因と考えられる一方で、その時点で不完全さを曝け出さない曲を選択することもできたはずなのです。
演奏(表現)の良し悪しでコンサートは評価されるものですし、この程度のことでは広義の芸術として扱えられるものでもありませんが、私(=ファン)としてはそこに意義を感じることで、「ただの身売りではない」「志を通すためには必要」とギリギリ思うことができます。
実際にはそれが盲信だとしても、KEYSツアーの途中で「疑死再生」の概念が必要だった様に、今回のショパンと祝祭性を受け入れるために必要な解釈でした。
(本当のことは角野氏のみぞ知る!)

ここで話は少し変わります。
以前にも書いたことがありますが、美術表現は必ずしも心地よさを提供する必要がないのに対し、心地よさが必用な音楽は受容する社会がその概念や感性が追いついてからでないと大衆には受け入れられません。
鑑賞者の心地良さを無視する前衛音楽は、ジョン・ケージ作品の様に鑑賞者をおきざりにしましたが、50年以上経った現在、心地よく聴ける場合もあるほどです。
バリバリの現代音楽も同じく、専門家以外でそれを鑑賞として受容するのは難しいでしょう。
一方、2~30年前程度の現代音楽の方が受け入れられやすいのは、作品の淘汰を経ているという事だけでなく、大衆が持つ感性とのやズレや新しさが絶妙なバランスになった結果とも考えられるのではないでしょうか。
角野氏がこれから真に革新的な音楽表現を志すならば、大衆よりも一歩〜半歩先を歩む必要があり、リアルタイムでは大衆に受け入れられない可能性は十分に考えられます。
それをリアルタイムで受容・定着させるには、無条件で角野氏の表現を受け入れる一定数のファンの存在が必要になります。
ファンは通常の順序とは逆であっても(無条件で表現性を受け入れる→その表現を理解したい→その表現を実際に理解する)、進歩的な表現を受容・鑑賞できるはずだからです。
だからこその「ついてきてください」と考えることができます。

このことは、角野氏の新たな芸術表現が「コミュニケーションそのものに意味を持たせるような場」まで広げる事を意味します。
ここで、以前書いたnoteから引用します。

実はこの※に書いた演奏表現の限定を解除した場合、角野氏の新たな芸術として「コミュニケーションそのものに意味を持たせるような場」まで広げてみると、SNSへの反応からアンコールの選曲・各会場での感想をめぐるファンの皆様の投稿など全体を、一つのコンテクストとして認識できる様になるのです。
つまり、演奏表現とはまた別次元で芸術に関わりのある文化的な意味を持ち、その中心に角野氏の(人としての)存在や芸術としての表現がある、という考え方です。
だからこそ音楽をとりまく新しい時代が訪れる可能性がある、という推論も成立するのです。

(中略)

SNSがデフォルトの現在、クラシック音楽界でこれほど多様で大勢のファンがいらっしゃった事例は無く、ネットワーク化されたファンの存在や影響力・そして共感が、後年の文化的解釈(芸術も含まれる)の中でどの様に評価されるのか、私はとても楽しみです。

表現の発生プロセスとメタ的な表現アプローチへの私観 〜ポーランド国立放送交響楽団日本公演ツアー神奈川公演より 〜

その一方で、これまでとは異なる新たな問題も生み出していきます。
これまではギリギリ保たれていた均衡が、角野武道館ではその祝祭性により崩れたと私は考えています。
今後どうバランスを取られるかは、大きな課題になるでしょう。

エロスが介在する同化への志向は、より強い同調への欲求に至ります。
ポストトゥルース時代の問題として改めて気が付いたことは、坂本氏が懸念されていた体制への同調より、個々の同調・共感が強くなることによる反作用的な分断が大きくなるだろう…と。
「共感を持つ人と持たない人との分断(共感がある人々に対しその共感性が強いほど共感を持たない人の反発は大きくなる)」※私自身が今実感しているのがこのnoteです
「自分だけがより同化したいという欲求による分断(例:同担拒否・同族嫌悪)」

では、どうすれば良いのか…ということになりますが、ナラティブなメッセージ全体をそのまま共感として受け入れるのではなく、一つ一つの部分を丁寧に意識するしかないのです。共感できる部分とできない部分と。。。
さらに、その共感は真実だからこそ発生している訳ではないということを自覚し、個人の主観として他者の主観に共感しているに過ぎないこと、主観的解釈という作用の存在を前提にするしかありません。

私観:二項対立を超えたポストトゥルースへ

祝祭が誘発した能動性によって、「共感を持つ人と持たない人との分断」と「より同化したいという欲求」が極端に表に現れてしまったのが、冒頭に祝再生の罪として書いた角野武道館です。
角野氏が私人として行うナラティブコミュニケーションに比重を置けば、人格そのものへのエロスにも繋がり必然的にプライバシーへの興味も大きくなるでしょう。キャラクター人格と芸術表現との混乱も起きやすくなります。

  • 広義の現代アートとしての芸術的意義・マクロダウン的視点を有しながら、「私的・私人として・素のまま・無作為・無垢・イノセント・衝動的・即興的・生まれたまま・ナチュラル・顔が見える存在」としてミクロアップ的にその表現を発展させていくこと。

  • それぞれの様式や歴史性・身体性・概念を尊重しつつも、同時にそれらに捉われずに表現すること。

  • ファンダム(共同体)としてセーフティネットを有効化しながら、同時に鑑賞は個人の主観における自由なものとして確保すること。ナラティブな<顔>の見える関係性を維持しながら、表現者自身の私的領域(プライバシー)との境界を維持すること。

もう、細い細い綱の上をギリギリのバランスで歩まれるしかないのです。
しかも「歩み続ける」ということは、変化していく時代性に合わせ常にそのバランスが変わるという事でもあります。
逆にいえば、その難しさを自覚されたからこそ、細い綱にセーフティネットとしての共同体(ファンダム)を構築されと考えられます。
ただ、自らが構築された以上はどれほどの不安や迷い(吉田氏の書かれた「葛藤」も含め)があろうとも、ご自身とそのセーフティネットを信じ、常に美しい姿勢で細い綱の上を渡り続けなければならないという事です。
その姿が偶像だとしても。
また(あえて書きますが)、頑丈なセーフティーネットのお陰で綱からは落ちているのにそのことに気づかなくなる可能性が無いとはいえません。
個人的にはそこまでご自身を追い込まずに自然発生的な支援+ナチュラルな志向性でも良かった気もするのですが、時代を越えて残っていく覚悟・世界の厳しさを考えると必要なものだったのでしょう。

ちなみに…私はどう足掻いても全てを無条件では受け入れられません。
だからこそ、あの特別視された「静寂」には共感を強いられた気がして反発を覚えたのです。
何も言われなければ反発は起きませんでしたし、SNSでも共感しなければいけないという思い込みがなければ、辛くはならなかったのです。
旧Twitterアカウントの時は制約があったのですが、新アカウントではなくなり積極的に共感していたところ、それが辛いことがよくわかりました。
また少し遠巻きに皆様の投稿を拝見させて頂くつもりです。
これまでの角野氏は、たぶん…私のような完全同意のない醒めた視点を必ず残していた方だと思うのですが、この角野武道館で自らがその殻を壊した、という事だとも思っています。

<未分化に還元される概念やコンテクスト>
前項ではセーフティネットの重要性を書いていますが、私はセーフティネットになれないので、角野氏に「付いていけなくなる」可能性が最も高いという事でもあります。
例えば前回のnoteでは、10月末に発売のアルバム「Human Universe」には触れていますが、先行リリースされていた「ラヴェル:亡き女王のためのパヴァーヌ」については触れていません。
演奏に作為が溢れていて、余り好きではなかったからです。
冒頭の素とした質感(朴訥とした音)を狙いすぎたキータッチ、演奏での強弱を越えたミキシング調整された音量、立体音響イヤホンではないので響きに雑音的なズレ(詳細は「pen ピアニスト、角野隼斗が見せるクラシック音楽と最先端テクノロジーの共存」の「AIの時代だからこそ、人間的な表現を追求」に記載)を感じるなどなど。。。

ところが角野武道館の2日後の移動中、たまたまイヤホンからランダムにこの曲が流れてきたところ、街中の雑踏や木々がざわめく環境音とともに聴くこの曲が素晴らしく感じられ、しばらく立ち尽くしてしまったのです。
この「亡き女王〜」は坂本龍一氏のアルバム「12」の音楽的な構造(テンポ感)に近いのではないかと解釈される方のお話を伺い、そうなのかも!と謎が解けた気がしました。
とはいえ、テンポが環境音との調和にどの様な関係があるのか理解できていないのですが、「亡き女王〜」が環境音に対する何かしらの意図をもっている様には感じられるのです。
それは、雨音と合わせた【公式】ミリカ・ミュージック「角野隼斗 ピアノ演奏🎹 ラヴェル『亡き王女のためのパヴァーヌ』 雨音のフィルター入り」が公開されていた時点で、環境音への関わりを意識されているように感じていた為です。
環境音との関係では、坂本氏「12」と高木氏「Marginalia」を「比較した事があったのですが(詳細は「私観:二項対立を超えた〜」「音楽に関わる雑感〜」)、坂本氏は「環境音を調和させる音楽」としてマクロからの構造性を感じるのに対し、高木氏は「環境音とともにそこにある(だけ)の音楽」というミクロとしての存在を感じました。
「Marginalia」の表現は内から外の環境に向かい一体化され一つの音楽になっていくのに対し、「12」は環境を取り込んで世界が構築されている印象を持っています。
角野氏の「亡き女王〜」は環境には開かれている感覚はありつつも、表現は内観的に感じられるので、「12」とも「Marginalia」とも異なります。
「都会の雑踏の中にいるからこそ孤独を感じる」という表現がありますが、まさにそういう不思議な質感を覚えました。
もし「作為性が勝っている」という理由で避けていたら、この鑑賞体験は無かったと思うと、私にとってはまさに今後を試されたような出来事でした。
ちなみに、先行リリースの録音時期はKEYSツアー途中(=俯瞰的な演奏が優位だった頃)なので、他の3曲も「亡き女王〜」ほどの作為は感じずともそれ程好きという感じではありません。
これから角野氏の音楽を聴き続けることは「自分が受け入れ・納得できる部分を見つけられるか」という挑戦にもなるのですが、「どうして?」と考えることは、純粋な鑑賞とともに私のもう一つの楽しみでもありますので、まあ…この挑戦を面白がれるスタンスでいられる様に頑張ります。笑

吉田氏は、きっと角野氏が演奏される生まれたてのようなショパンの表現がお好きなのでしょう。
あの文章からは、これからもずっと角野氏しか表現できないショパンを演奏して欲しいという願いの様なお気持ちと、だからこそショパンをもっと大切に弾いてもらいたかったという想いを感じました。
現在の仕事量についても、他の方の「断ることが私の仕事」という言葉を借りて心配されています。
角野氏の今後の方向性に影響を与えないよう最大限の配慮が感じられるなかで、溢れ出る想いを感じてしまいました。
たまたま7/24に数学者森毅氏の著作紹介ポストが流れてきたのですが、吉田氏のこの記事からは似た様なものを感じます(自分はわずらわしさを避けているはずなのに、トラブルになるタイプ 苦笑)。

私は吉田氏のようなショパンへの拘りはありませんし、今後どうされるのかは角野氏が決めるべき事だとしか思わないのですが、どの様な曲でもどんな時でもミクロ的な視点から仰視する生まれたての様な表現と、マクロ的に俯瞰視する構造的解釈のバランスが角野氏の最大の魅力だと思っています。
正直なところ、シンセサイザー等をピアノとともに用いる演奏は、ポストクラシカルのハニャ・ラニ氏のライブと比較すると演出も含めてラニ氏の方凄いなあ…と思ってしまいます。
ただ、抽象画を模写しつつ日本画としての表現を追求した福田平八郎と同じで(前回のnoteに詳細)、いくらシンセサイザーやカスタムアップライトを使おうとも、角野氏はポストクラシカルの表現者ではないのです。
カテゴリー概念を超えた表現性でありながらも、クラシック音楽の未来として続く道だからです。
いえ、クラシック音楽を未来に繋ぐ為の道だからです。
それはクラシック音楽様式の発生前の原始性に通じるとも言えるかもしれません。
その音楽に触れると、無垢な喜びや身体的心地よさが溢れてくるものなのですから。

才能は天からのギフトだと言いますが、ポストトゥルース時代に角野氏の活動初期が一致したことは、最も大きな神様からのギフトではないでしょうか。
少しでも時代がズレたら発揮できなかった表現性だと思われるからです。
ちなみに、この部分を書いた後にパリオリンピックの開会式を見たのですが、後半の重要なメッセージとして「多様性の中の統合」「開会式を通しその多様性を大切にしょうというメッセージも呼びかけられている」と紹介されていて、やはりこれこそが今の時代性だと思いました。
ポストモダニズムのと違いは、多様性だけではなく「統合」が加えられていることです。
一方で、このシーンの最初に象徴的に登場した長い髭を蓄えた女性的身体のダンサーを、私はグロテスクだと感じてしまいました。
ネットでは私のような反応が多いとはいえ、時代がその概念に追いついていないだけなのか、生命の尊厳性を概念が軽んじているのか、現時点で私は判断できません(その判断と個人的な好き嫌いとは別)。
角野氏がこれから歩まれるだろう世界の難しさとは、そういう類のものでもあります。
ただ、日本文化にはそういう難しいバランスを調和させる美意識・センスを持っていると思いたいのです。
それは私が具体的にわかっていないだけで、本来日本だけではなく多くの地域にもあるだろうというものです。

例えば今回のMCで「数学は美しい」「誰がかが美しくしているわけでもないのに整理された美しさがある」「音楽(の美しさ)もそう思う」
「古代ギリシャの音楽は宇宙に存在すると考えた」「創りだすものなのではなく探し出すものかも」という様なお話がありました。
なかでも「美がすでに存在するもの・探し出すもの」という考え方は、古代ギリシャ哲学の形相について語ったものだと思っていたのですが(先にリンクしたwikipediaの注釈直前の2行に「最高善(真善美が揃ったもの)」の存在と「それは見出すもの」という記載有り)、FFさんはアントニオ・ガウディと同じ考え方ではないかと解釈されていました。
カタルーニャ地方は独自の言語や文化があり、現在でも独立運動が盛んな地域です。
本来ギリシャ哲学とキリスト教は相容れないものですが、カタルーニャ文化の中で結びつきガウディの思想に至った様に感じられます。
実際に文化背景を調べた訳ではないのですが、日常感覚のなかでは自然に受け入れられる納得感・説得力があり、日本の本地垂迹の結び付きに近い印象を受けます。
そういう出自が異なる概念の共通項を結びつけて(詳細は前note)、より広く多くの人々に共感を届ける様な感覚は、角野氏の表現としてもまさに!という感じがしました。
音楽家はその芸術表現(行為)を通して一般大衆に「美」を見せてくれる存在ですが、間近な芸術に向き合うことが、遠い美(形相)を想うことでもあるのです。

書いていて思ったのですが、日本文化もガウディの思想の元となったカタルーニャの文化も、ハイコンテクストとして言語解釈に頼らない原始的感性が基にある様な気がするのです。
言語による厳密な定義を適用すれば別物になってしまうからといって、共感できるものは無い・共通性が無いとは言えないのではないでしょうか。
(余談ですが、日本の「付け合い」が面白いのは、本来言語に頼らないハイコンテクストに用いる共感的手法を言語にも用いているところかも…と思ったり)
ポストトゥルース時代の共感性に対し「客観性が無い=真実を見極められない世相」と一方的に否定する事は、コミュニケーションが言語以外の要素で成り立っている事への意識が不足しているだけるだけで、それ自体にロジックへの偏りがあると感じます。
論理では解明・説明できないものを芸術としてきた事、その芸術が社会を変えて来た事は、歴史が証明する所なのです。

分断のない共感性のあり方を、メタ的に共有・イメージすることは不可能ではないはずです。
そもそも、哲学や原始宗教(神話含む)の類は自然環境や人間同士のコミュニケーションの中で人々が思索し形成されてきたと考えれば、ある程度の矛盾を含んだ混沌状態のまま、ナラティブに共感・受容できる感性の方が「真っ当」と言えるのではないでしょうか(レヴィ=ストロースの思想はまさにこれ)。
概念が未分化で混沌としているロジックの発生前に想いを馳せられるかどうか、です。
この辺りを書いた数日後、パリオリンピック以降の開会式では必ず「Imagine」の演奏が行われる事になったと知りました。
毎度のようなシンクロニシティ。笑
この曲は一人一人の主観性にナラティブな平和的イメージを訴いかける曲です。
分断のない共感力とは、現実には無いものや一見無関係に感じられるものを共感としてイメージできる力と言えるのかもしれません。

一方で、人々が新しい概念やイメージを目の前にした時、他者とも繋がる「広い共感」として気づく(納得する)為には、説得力のあるロジカルな論理も必要です。
クラシックの専門知識を持ちながら、広義の芸術・現代の文化的側面において、現在の時代性を反映しながら角野氏のその表現を評価できてきる人はまだ誰もいないのです。
詳しくは「解釈とイノセントな表現性が統合に至る兆し〜」に書いているのですが、私が批評を期待しているロススタイン氏はマーガレット・レン・タン氏の映画「アート・オブ・トイピアノ」に出演されていた評論家の方です。

「いま私たちの社会ではイノセントな表現と難解で努力を要する芸術との区別が難しくなっている」
「いまや私たちはその区別に慎重にならざるを得ない」

「ケージは区別を破壊したが評論家として聞き手としてまた何千年も続く音楽の伝統を重んじる者として私は区別することに賛成だ」


「タンの功績の1つは人々に耳を傾けさせたことだろう」

「冗談のような試みを通して人々に音楽の喜びを見出させた」

「アート・オブ・トイピアノ」より「解釈とイノセントな表現性が統合に至る兆し」から再掲

ロススタイン氏は、ジョン・ケージのオモチャを音楽と同等に扱う前衛音楽に対し(感想に書いたトイピアノの「トイ」としての概念の重要性はココ)、純粋な音楽としての適正な評価を行う一方で(音楽としての価値は高くないということとメタ的な音楽に与えた影響を分離して評価)、ケージ作品を音楽として表現できるタン氏の表現性を高く評価されていました。

この映画の中で、いえ、クラシック音楽を取り巻く環境の中で、その作品や演奏を広義の芸術や文化的な視点から、音楽の専門知識ともに哲学・美学の知見もあわせて評論できる方は、ロススタイン氏(ウォールストリートジャーナルのプロフィールに専門分野が記載)が唯一だと思ったのです。

その後、私の期待が更に近づく可能性がある投稿がされていました。

氏は現在クラシック音楽の批評には携われていない様なので、古い時代のコネクションがある事務所の方が圧倒的に繋がる可能性があるからです!(想像ですが、保守的なクラシック界に飽きていらっしゃるようなインタビューでの口ぶりだった)
まあ、世界は広いのでロススタイン氏以外でも広義の芸術・文化・音楽と時代性を含めた多様な視点で考察できる方はいらっしゃるかもしれませんし、時代性の問題が最も大きいので、角野氏と同世代以降の方にその可能性を託すこともできます。
実は角野氏と同じ金子勝子先生門下の村松海渡氏には大きな期待を寄せています。
「"指セット"を読み解く」のnoteは本当に素晴らしかった!!
(#2のテーマ「誘い込む」は、前のnoteに書いたまさにハイコンテクストで、それを分かり易いローコンテクストで説明できる)
同門の先輩を批評するのは勇気がいることかもしれませんが、日本の新たなクラシック界のためにも、いつかぜひチャレンジして頂きたい。

角野氏の表現は、Z世代のナラティブな表現として多くの人々に自然に共感をもって迎えられると同時に、クラシック音楽界の将来を示唆する一歩〜半歩先の革新性を持つ可能性があります。
ケージが音楽(芸術表現や様式美)と環境音(子どもが無作為に出す音楽ではない音も含)との区別を破壊した後の世界で、「音楽」という概念の多様性を維持しながら統合・還元できるかもしれないのです。
「Marginalia」も「12」もケージ後の世界に続く環境音を音楽に還元するものですが、過去のクラシック音楽もその多様性の中の一つとして統合するには至っていないのに対し、角野氏はそこまでも統合できる可能性を持っています。
一方、AIによるアルゴリズムやターゲティングでナラティブな共感性が増幅されるネット社会では、新しい表現が定着するために必要な支援者の強い結びつきが、外部との分断リスクを抱えることになります。
分解を経た新たな概念領域にクラシック音楽を統合することは、既存のクラシック愛好家からの反感がより大きくなる可能性があるためです。
実際にそれが表現として可能なのか、具体的にどの様な表現なのか、果たしてその難しいバランスは成立するのか、誰にもわかりません。
(しかも、中間領域好きの自分が注目している一部にすぎません)
ただ、混沌としているその原始性は、吉田氏が書かれた「命のざわめき」ですし、ガウディはそれらを有機的な形で具現化した芸術家だと言えるのです。

「疑死再生」を経た角野氏がこれからどちらに向かいどの様な表現をされるのかはわかりませんし、私がそれを理解できるかどうかもわかりません。
しかし「どうして?!」や「やられた!!」を含む角野氏でしか得られない特別な鑑賞体験への衝動が私の原点である以上、それを求めていくのだろうと思います。
ギリシャ哲学関連を検索&noteに書いていた時、自分の感覚に近い哲学ポストが流れてきたので最後に貼っておきます。
(最近、noteを別ウィンドウで作業している内容でもxに反映されて関連が「おすすめ」に出てくるの、すごーく良い!)


おまけ Penthouse「花束のような人生を君に」とその他


7/21、能「善界(観世流表記)」に関わる重文是害房絵巻」を観る為に泉屋博古館東京「歌と物語の絵― 雅やかなやまと絵の世界」に行った所、たまたま下記の作品が出ていました。
藤原清輔(三十六人歌仙)の「上畳本三十六歌仙切」

人の親の心は闇にあらねども
子を思ふ道にまどひぬるかな
(後撰和歌集 雑)

紫式部曾祖父にあたる藤原兼輔が、子を思う親の気持ちを詠ったものです。1000年前から変らないことに驚くとともに、藤原公任以前の歌人わずか36人選出時の代表歌として選ばれていることに当時の自由さを感じます。
(小倉百人一首になると、清輔は「永らへばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき」の歌が選出、和歌としては明らかにこちらがスタンダード)
この歌を「花束のような人生を君に」の返歌として鑑賞すると、すべての(幸福とは限らない)親子関係であっても受け入れられる様に感じられ、無事にMVも観ることができました!

ちなみに、ここに書く為に念の為三十六歌仙を調べたところ、公任が当初三十七人を選出した後に三十六人にするため選から外した最後の一人が、何の因果か角野武道館当日に本歌取した清原深養父でした。苦笑
雲が明けて月が見えた!という事だと勝手に思うことにします 笑

福田平八郎は「Imagine」よりも20年早く「雲」を描いていましたが、もしかしたら同じ様な想いが込められているのかもしれません。
即興YouTube配信の直後、それぞれの場所でご覧になった皆様を想われ、角野氏は「空は全部つながっている」ともおっしゃっていました。


追記1

<「Solari」>

8/2に「Human Universe」からの先行で「Solari」がリリースされました。補足も含めてXの投稿をしているのですが、文字数制限のためにどうしても省略でニュアンスが伝わらない気がするので、重複する内容も含めてここに追記します。

※肝心の曲名のスペルがすべて間違えていて、ご指摘頂き修正したのですが、Xは間違えたままにするしかなく…申し訳ありません🙏

インスタグラムの演奏時のリールもスモーキーなブルーで始まり、まさに「ピアノ・レッスン」冒頭の美しいニュージーランドの海のシーンが目に浮かびました。

ただ、改めてSpotifyで改めて調べた所、一番聴かれているのは冒頭が無いエディット版やテーマ曲として強めに演奏されているもので、私が聴いているアルバムは「The Composers Cut Series Vol.3」という、テンポもゆっくりとたゆたう様な演奏で、勝手に映画の冒頭シーンと結びついていました。
が、この演奏はもしかしたら後にナイマンが行ったものかもしれません。
とはいえ、映画の後に演奏されたという意味では、逆にこの一曲の中に映画のイメージが込められている演奏の可能性もあります。

いずれにしても、本当に美しい自然に溶け込むようなピアノの演奏なのです。
しかも、言葉を発しない主人公が、そのピアノがコミュニケーションの手段でもあり、演奏している時だけ苦しみから解放されるというものでもありました。

皆様のご感想では、美しい自然に広がっていく様子に重ねられる方もいらっしゃるし、内省的な表現として感じられる方もいらっしゃっるし、励まされる気持ちとおっしゃる方もいらっしゃいますが、まさにどれもがその通りに感じられます。
このある種の逆説を含んだ複層的な状態を何と表現して良いのかわからず…映画「ピアノ・レッスン」を例に出してしまったという訳です。

また、坂本氏の「S・Nの間の超越を目指したM(詳細は「私観:二項対立を超えた〜」「音楽に関わる雑感〜」)は、その概念が音楽として純化(抽象化)に向かっているのに対し、角野氏はその「Mを追い求めた坂本龍一像」を追うことで、そこに一つの内観的な物語性を生成させていると考えました。
作曲者との同化でもなく、対話とも異なり、この構造化は特殊に感じられ、何に一番近いのかと考えると、伝記小説的な表現性の様に感じられます。
しかも、「孫が祖父母の伝記を書く」というような、別人の人生を語ることが自分の人生を語ることでもある、という様なものに近い気がします。
Xではそれを短文でまとめた為「パラワールド的な統合」と書いてしまいましたが、内なる宇宙でも内なる世界でも、同じです。

さらに興味深かったのは、「async」や「12」で坂本氏が重視されていた環境やノイズとの関わりは、一つ前に発売された「亡き女王のためのパヴァーヌ」の方が強く感じられた事です。
この「Solari」の場合は、カタカタというアップライトのノイズも角野氏の一人称を通したパラレルワールドとして完成されているので、自分が聴く際の現実のノイズは別次元のものとして違和感にしかなりませんでした。
つまり、普通に静かな所で聴く内に籠るような聴き方の方が、角野氏を通して坂本氏が目指した「M」の世界観に浸れるということです。
同じアップライトの演奏でも、「自己と作品(音楽)」の置き所・関係性が
全く異なると考えられるのかもしれません。
「Solari」からは坂本氏の表現性への意識よりも、氏の存在性に対する意識が強い表現と言えるのではないでしょうか。

現在先行発売は2曲ですが、表現のアプローチがここまで異なってるとは思わなかったので、今後がとても楽しみです。

<追加リンク>

ここに書いた内容とは全く関係は無いのですが、7/28放送の「江崎文武のBorderless Artist 〜武満徹をDig! 〜」での武満徹への解釈の中で、西洋と日本のつながり・美意識、「機能和声」という概念前への意識、組織(ここでは共同体)に対する「個」の独立性などなど、ここで書いた事が別の視点で語られています。
資料としてはぜひともリンクとして残しておきたく思いました。
タイミング的に、またもやシンクロニシティ!笑

追記2

NHK FM「角野隼斗のピアノローグ」を聴いたことで、「静寂」に関する自分の感じ方を解釈し直しました。
また、本文に書いている「推し活・ファンダム」の可能性と問題点がまとめられた記事が流れてきたので(たまたま関連する様な内容を書いていたら…Xで流れてきた!!)補足していきます。

<「角野隼斗のピアノローグ」>

「ピアノローグ」は角野氏の造語で、ピアノ(小さい音)としての「モノローグ(独白)」と、ゲストとの「ダイヤローグ(対話)」によってゲストをイメージしたピアノの即興演奏から名付けられた様です。
世界の様々な場所・時間で記録されたモノローグは、PCのダイアログの様に番組の流れから独立したタイミングで立ち上がり、その構成自体も面白く拝聴しました。

ここからが本題。
武道館の直前・直後に録音されたモノローグを聴くと、私が抱いていた違和感の理由がわかった気がしたのです。
たぶん、「音楽家 角野隼斗像」への認識が、角野氏ご自身と私とでは大きく異なっているという事です。
聴衆として感じる「静寂」という意味では、角野氏以外のファンが多かった「京都音楽博覧会2023(野外公演)」の方が明らかに素晴らしいものでした。
盛り上がるフェスの音楽を楽しみにしていた聴衆(=他の方の音楽を目的にされていた方々)を、そのピアノの音に集中させた結果の静寂ですから。
ですが、このラジオで角野氏のお話を聴くと、その視点が音楽環境としての静寂性にあるのではなく「自身のピアノの演奏を聴く為に集まった15,000人(正しくは1,3000人)の聴衆が集中して聴いている状態」に置かれていることがわかります。
私は「演奏に影響する実際の静寂性への印象」をここで語っており、角野氏は「表現者として場の静寂を一人で引き受ける感慨」を語られていた訳です。
「京都音博」は他者がお膳立てした舞台で演奏するだけ、その責任は演奏の場だけにしかかかりません。
一方「角野武道館」は、自らの存在全てがこの公演全体にかかってくる訳ですから、これまでに無い大きなプレッシャーや達成感など様々な感慨・感情が湧き上がったということなのでしょう。
武道館に一人で15,000人(正しくは1,3000人)の聴衆を集めることは大変な事だとは思っていますが、私としては当然という認識しか無く(それは今も変わっておらず)、ただ純粋に演奏とその音楽環境としての「静寂」の質だけを問いたかったのです。
そして、音楽鑑賞における静寂の質としては、明らかに「京都音博」の方が素晴らしかったという事です。

一方、角野氏がこれまで武道館に聴衆(私人)として携っていた感覚との対比として、強い感情の発露となったことが理解できました。
それは、私人・個人・聴衆としての感覚と、音楽家(プロ)・表現者としての感覚が地続きなものとして捉えられている証と言えるかもしれません。
ステージ上のキャラクターと私人としてのそれが乖離している場合もある訳ですから、それは素晴らしい感受性です。
以前、「いつまでも受容者(聴衆側)の感覚を忘れずに、私人としてのア・プリオリな表現衝動、理由なき動機としての純粋性こそが、角野氏の大きな魅力の一つ」と書いた事がありました。
表現者として一万人以上の聴衆を前に表現する状況においても、環境からの感受性が開かれたままでいるということ、受容者としての感性が損なわれないという部分では通底する所があるかもしれません。
そういう意味での「武道館への感慨」だと考えれば、色々と納得できる所がありました。
角野氏がおっしゃる「静寂」と私が聴衆として感じた「静寂」とは、その意味がもともと異なっている、という事ですね。

また、武道館公演に対するご本人の意気込みは自分が思っていた以上に特別で驚いたほどです。
私にはもともと「武道館を一人で満員にすることが普通にできるアーティスト」という認識しかないので、誕生日に開催することで来場を促す事も、疑死再生という特別な意味付けも、その音楽にとっては余計な事の様に感じられたのです。
もし私が「武道館を一杯にするのはギリギリかも‥」と思っていたら、誕生日の設定を最善策だと思ったでしょうし、今後の海外活動は苦難が多そういだと感じていれば、疑死再生をかけて挑むコンサートを良いコンセプトだと思ったでしょう。
しかしながら、今更誕生日話題で人集めをする必然性も、海外活動に向けた疑死再生を宣言する必要性も、最初から全く感じられなかったのです。
であるならば、音楽表現においては雑音にしかなりません。
しかし、角野氏にとってはたった一人で15,000人(正しくは1,3000人)の聴衆を相手にされる訳ですから、背負うものの大きさに対する不安や緊張はこれまでとは異なる大きなものだったのだろう…という想像は可能です。
ラジオを拝聴していて思ったのは、それらを越える為にご自身が設定した対策、自分が自分を納得させるための方便、という様な気がしました。
あくまでも個人的にそう感じただけですが、そういう納得ができたという意味でも、ファンとしてこのラジオを聴いた甲斐はあったと思います。

さて、ここからは話が変わり後半のゲスト、大澤正彦氏の対談で興味深かった内容を。

この「らしい」という感覚はとても面白く、大澤氏が現在作られているロボットも、(たぶん)あえてドラえもんとは異なる造形で制作されているはずです。
私事ですが、昨年都現美のミュージアムショップで買ったTシャツ、勝手に「ドラえもんTシャツ」と読んでいて、会った人に言うと必ず納得して頂けます。

黒い生地が丸く繰り抜かれ青い生地が縫い合わされていることで、丸が立体的に感じられるのです(太って見えるとも言える)。
色はドラえもんより濃いのですが、丸い立体感とともにTシャツの中央にある円の存在がドラえもんの象徴である「ポケット」をイメージさせ、Tシャツギリギリに収まっている円の佇まいがドラえもんの後ろ姿でもあり、膝を抱えているのび太の姿にも感じられ、このTシャツにはドラえもんの世界観が備わっていると私は思っているのです。
実際には何かの展覧会関連グッズだと思うのですが、売れ残り現品セールで何のと関連していたかはわかりません。
私の「勝手な名付け」とは「見立て」であり、この見立てこそが「らしさの発見」と言い換えることができます。
そういう主観的でファジーな要素も含めた不特定多数の人が納得し得る「ドラえもん」像を、大澤氏は追求されています。
明らかに科学の領域だけでなし得ないものですが、哲学や芸術概念の引用とも異なり、広い全体感おまま科学的アプローチで実現化を試みている様に感じました。

<感情が現実をつくるファンダム>

最近のXは直前に入力しているワードに関連するものがおすすめに流れてくるので本当に驚きます。
そのポスト自体はイデオロギーメインの投稿だったのですが、リンクされていた記事がここでファンダムについて書いていた内容に関連していたので、その解釈を試みます。
センセーショナルなタイトルなので抵抗感を覚える方もいらっしゃると思いますが、「相似モデル」としての類似性や概念が論理的に提示されており、「推しの全てを受け入れるのが宗教っぽい」という安易な内容ではありません。
ぜひ、一人でも多くの方に文中画像も拡大してしっかり読んでいただきたい内容です。

このnoteでは、「インターネットやSNSの普及によって、大規模でありながらもマス・コミュニケーションとは異なる個人の関係性、擬似的な<顔>の見える関係性が成立する」と度々書いています。
現在のSNSの状況をレヴィ=ストロースの思想から個人的に解釈したものですが、上記のレポートには、私がこれまでここで度々書いていた内容が、可能性と問題点も含めて学術的に論じられています。
中でも、テレビなどで実際に会ったことのない人に対し親近感を覚える感情「パラソーシャル」(疑似社会的関係)の概念は重要です。
1960年代のマスメディアを対象とした一方通行としての「パラソーシャル」とは異なり、現在のSNS時代はより進んだコミュニケーション時代に突入、まさに「擬似的な<顔の見える関係性>」だと言えるでしょう。

何度も書いているポストトゥルース時代のナラティブな世界観は、「リアリティを自分で作って,そこに没入していく」「感情が現実をつくる」「個人が肯定的な感情を持ち,それによって作られていく現実」と書かれているものと同じです。
この論点で「角野武道館」を解釈すると、「推しの誕生日をファンとして直接祝った」「推しの演奏で歌った」という特別な出来事・関係性が「人を苛烈に変化させる」ほどの強い関係性として成立していまったという事になります。
認知人類学者ターニャ・ラーマン氏については調べられていいませんが(著作は11月に出版予定)、「推し活も信仰も関係を結ぶからこそ,人を苛烈に変化させるもの」と書かれているところからも(もともとが宗教学である所からも)、レヴィ=ストロースの影響があるかもしれません。

結論に向かうほどに「推し活」のリスクやマイナス的な問題提起が書かれていますが(ポストゥルースに対する言説の多くがマイナス的スタンスにあるのと同じく)、私はこれらの社会的状況が必ずしもマイナスだとは思っていません。
「社会で多くの人が共有できる価値がなくなっていくなか〜「聖なる価値」がとりわけ若者にとって必要である」とある様に、物質主義的な価値観が主流となった社会では、家族や宗教という本来的な「神聖さ(広義の特別感や親近感も含まれる)」が成立しづらい状況にあるため、代替としての「推し活」の活況には社会的に必然性が感じられるからです。「神聖さ」への感受性が高い日本においては特に大きいと言えるでしょう。
結びに書かれている「(必ずしも幸福であるとは言えない)世界共通の「現実」をいかに認めて,共に生きていくことができるか?」という言葉からは、そのリスクを感じつつもナラティブな世界観が生きる糧となる可能性を、見出すことができます。
しかし、前文の「危険性」という言葉の影響を引きずれば、客観的現実を共有するべき…という解釈もできるのです。
どちらの解釈が正しいのかというより、たぶん筆者の方は意図的にどちらにも受け取れる様に書かれているのではないか、と思いました。

中盤の「神がパーソナルに自分に語りかけてくる事を信じる福音派」については、幻覚や異言など非現実と現実との区別がつかなくなる危険性が示されています。
ただし(たぶん)古代〜中世の価値観の中では「神の声を直接聴くこと」が「予言」であり、そこに法悦やキリストへのエロスが存在することは疑いがありませんから、教会や閉ざされた小さな社会においては「神や霊をリアルに感じる」事は、その内部においては問題視されていなかった可能性も考えられます。
ある種、SNSのエコーチェンバーと言われている状況に近いと思われ、特定の狭いコミュニティだけで通用する常識や価値観が、現実社会と乖離してしまう可能性はカルト宗教に限らず、何にでも起きうるという事なのではないでしょうか。

この記述における一番のパワーワードは、「感情が現実を作る」という言葉ですが、この数日のファンダムではそれを噛みしめざるを得ませんでした。
推し活であっても、現れた事象が「現実」である以上は「肯定できる理想とは異なる可能性は常に存在」なのは自明ですが、「肯定的な感情によって作られているパラソーシャルとしての現実=推し活」では、「感情が現実を作る」ため、「現実が、感情という不安定なものに依存している」という認識が難しくなるのです。
つい最近、相互さんがNHKの「ネズリテ」「動機づけられた推論」が興味深かったとおっしゃっていたのですが、「感情が現実を作る」とほぼ同義と言えるでしょう。
しかしながら、芸術と現実の関係性を歴史的に考えれば、「死の舞踏」のように虚構世界が現実に大きな影響を与える場合すらあるのです。
「感情が現実を作る」という方向性を一方的に否定することもまた、私は偏った視点だとあえて言います。(私が芸術至上主義だから…と言われればそれまでなので)
実は「ネズリテ」の直前に、今の日本人に「必読」として流れて来たポストに、九鬼周造「青海波」があり、テーマが「蓋然性」でした。
すでに著作権切れで現在青空文庫で校正待ちの状態ですが、一部抜粋します。
これはまさに、客観的な蓋然性を扱いながらも個人の主観でその蓋然性を超えていく芸術の視点です。

(前略)
斜辺上の正方形は他の二辺上の正方形の和に等しいとか、五の三倍は三十の半分に等しいとかいうことは論証的確実性をもっている。
(中略)
だが果して私が正月を迎えるだろうか。それは蓋然性しかもっていない。私がこの正月を迎えないだろうことも可能である。
私がこの正月を迎えないだろうことも可能である。
(中略 病気や事故で死ぬかもしれない事が記載)
類似した前件が類似した後件を予期させるからではないかと教えてくれる者がある。
(中略)
見渡す限り波また波。無限の重量そのものがとてもすばらしい。
新春は「青海波」を舞おう。盤渉、調をかき鳴らして青海波を舞おう。
(中略)
た。青山と青海波との結合はいかなる奇をも可能にする。青い波と青い山、私の魂はこれを措いてほかには新春に夢みるものはないであろう。
(後略)

九鬼周造「九鬼周造随筆集 青海波」

上記では蓋然性を語る所から「青海波」の寿ぎへ、大きな飛躍が発生しています。
しかし、その飛躍こそが九鬼の主観的な芸術的飛躍であり、さらに言えば、個人の生死以上に繰り返される新年を寿ぐ感性が存在しています。
芸術そのものが論理では扱えない性質を持つ以上、鑑賞するにはある種、作品・作者への同化・同期も必要になります。
前述したマトリックスで分析する鑑賞を、以前の記述で「芸術鑑賞の技術」としましたが、主観を通した自身の感情(喜怒哀楽だけはない広義)に潜りつつ、一方で知識や論理的思考のなかで現実性との関わりを模索するこのスタイルは、ポストトゥルース時代では現実社会においても重要になると思われるのです。(インターネット上の関係性も関係性自体は現実と見做す)
だからこそ九鬼の「青海波」が必読と言う人がいたのでしょう。

その際に重要なことは、以前penthouse矢野慎太郎氏をきっかけに「ヴォイニッチ写本の謎」について書いている、「帰属」「結論の保留」という概念です。
判断材料が不足している場合、想像(感情により生まれた仮想現実)だけで判断を行うのではなく、想像を働かせながらも「全ての可能性を保留」しておくことが方法論として必要です。
しかしながら、判断材料が不足しているところを想像で補う事まで放棄してしまえば、思索は止まってしまいます。
「〜本阿弥光悦〜」で書いた様に、日本美術史では不確かな事に口をつぐんでしまう事が多く、それは大きなマイナスだと思っています。
西洋美術史では、結論づけるには判断材料が少ない場合でも、妥当性が高いと思われるものやそれなりの説得力がある論説に対して、結論を保留しつつ「可能性がある=帰属する≒保留する」というスタンスをとります。
芸術史は事例を扱う歴史以上に、結論を導く論拠に主観が入り込みますから、そのことを前提としない限り研究などできません。
これが、自分が「そうかもしれない」と想像として感じた可能性を否定するものでもないのです。

私たち素人が作品を鑑賞する事と美術史の解釈とは当然異なるものですが(異なって良いものですが)、「可能性」に対して常に開かれているスタンスは、ポストトゥルース時代において最も重要な事だと私は思うのです。
ナラティブな感性に対してリスクだけを見出す様な物質主義的価値観は、AIやバーチャルな世界がより進歩するこれからの時代には、もうそぐわない所まで来ているからです。
今こそ、物質主義的価値観から次の価値観に移り変わる過渡期と言えるのではないでしょうか。
それがどの様なものであるのかは、まだ具体的にはわかっていませんが、、、

ナラティブに世界を観る視点をいかにプラスとして活かせるのか、その鍵の一つは芸術鑑賞にあると私は思っています。
(これは芸術至上主義者としての私個人の主観的な結論です)


<WOWWOW 角野隼斗 ピアノリサイタル at 日本武道館 スペシャルエディション

実際のライブで聴いた印象と、画面を通してのそれとを比較をするつもりで視聴しました。
特に冒頭のショパンには否定的な事を書いているので、、、
会場ではあんなに気になった「スケルツォ 第1番」のミスタッチは、どこだったのかわからず、「ワルツ第14番」は放送自体がありませんでした。
音の潰れ感の様なものも感じられません。
ライブ動画ではボーカルのピッチを修正する事は良くあることですし、この編集によって放送番組としてのクオリティは上がったと言えるでしょう。
最後に大きくWOWOW Produce と書かれていましたから。


※鬼籍に入った歴史的人物は敬称略
■追記も含めたnoteの更新記録はこちらからご確認ください